W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その34)   アマチュア目次へ戻る

                                                  
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第16章 (1)大きな海亀がデッキを覆う           

 最後の章では、私はアルダブラ島に2回目で戻っていました;しかし、私が数ヶ月前そこに居た、第1
回目の7,800 QSOを記録したほどには、私の仕事は活発ではありませんでした。数年ごとに新しいDX
サーが居るに違いありません、それはアルダブラが必要だと言った多くの人達と私がQSOしましたから。
2回目のそこでの滞在で、私が居た数日間におよそ3,500のQSOをしました、彼らの多くは“ニューワ
ンを有り難う!”と言いました。

 私は、そそれらの人達の多くが、第1回目の時には2番目か3番目の層であったに違いないと思います。
私は、4番目と5番目の層の人達がどれほど居るだろうかと思います。もし3年か4年のあいだ、そこか
らアクティビティがないなら、その期間のたびにどの場所もレアーになると私は思います。従って、何千
ものQSOのあとでさえ、また、私がその場所を去ったあとで、多くの人達がすぐ、これ、あるいは、そ
れが必要ですと言い続けます。

 アルダブラへの2回目の旅は、物資を輸送し、コプラを積み込み、そして、“生きた海亀”をマヘまで運
ぶのが目的でした。2回目の旅の船は丁度良い大きさでした。

 乾燥果物とコプラを積み込み、そして何人かの島の労働者が交代して、私たちは、船首から船尾まで、
それらの、生きているままの“大きな海亀”を積み込む準備ができていました。海亀は小さなクレーンで
船に積み込まれ、デッキの上で裏返しにされて湿ったココナッツの葉とヤシの枝で覆われました。それら
の枝葉は、セイシェルへ戻る間、海亀が死なないようにずっと濡れているようにするためでした。

 デッキの至るとことにある、その海亀の間を歩くのはかなりの混乱でした。普通には海亀の間をつま先
立ちで、しかし、時には、海亀の上を歩かなければなりませんでした。それは海亀には全く害を与えませ
んでした、なぜなら、海亀は古く強い動物で、それらを殺すためには、それらの上を沢山歩くことが必要
です。

 碇が上げられ、私たちは再びVQ9への帰路につきました。海の様子はあまり良くありませんでした、
なぜなら、東南季節風が最高潮で、私たちはそのシーズンのまん中にいることを日時が示していました。
インド洋のその場所で、1年のその時期は、素晴らしい穏やかな海は期待できません。天候は、荒れた海
になるように思われました。

 私の /MM 運用の場所は、“船尾楼甲板”の上の大きな舵輪のすぐ横で、きちんと、しっかり緊縛され
ていました、さもないと私はその小さな部屋の中を滑ったでしょう。無線のコンディションは、いつも海
にいるときのように最高でした。

 私は、世界でベストの運用場所は、周囲が全部素晴らしいアースになっている大洋のまん中だと今でも
考えています。私は、W5VAやW3CRAのQTHよりも良いと考えています。もし、誰かが大洋のまん中
の船にフルKWと5エレメントビームを置けば、“誰も”彼をしのぐことはできないだろうと思います。
彼は、いつもパイルのトップにいるでしょう。

 たった二日だけアルダブラから離れた後で、私は小さな船尾楼の中で午前5時ころ運用して、そして私
の目は、船が針路を保つように大きなコンパスを監視している、舵輪の所にいる当番の若いクルーを見て
いました。

・船の舵がインド洋に沈む

 船の周りには沢山の海鳥がいました、そして、何匹かのイルカが、私が思うには朝のツアーをしながら、
船の先をパレードしていました。飛び魚たちに船がQRMを起こした時、飛び立った幾つかの飛び魚の群
もありました。

 海では、そのような早い時間にはいつも沢山の活動が見られます。私たちは、炊事係のボーイが運んで
くれた2回目の濃いコーヒーを飲んでいました、そして、私たちは気楽にしていました・バンドは大きな
パイルもありませんでした。私は、私自身で楽しんでいました、そして、舵輪のクルーも同じようだった
と思います。

 私が思うに、その時起きていたのは、私たち二人とエンジンルームの一人で全部でした、ほかの誰も、
起床の午前6時のベルが鳴るのを待ちながらぐっすりと寝ていました。それから、私は気づきました、舵
輪のクルーが舵輪をあくせくしていてそれはとても異常でした、なぜなら、普通、彼は決してどのような
力もかけないで2本の指で舵輪を回すことができました。

 およそ5分後に、彼が両方の腕で、舵輪を本当に引っ張り、それが全く動かないことに私は気づきまし
た。私は、ヘッドフォーンを投げ出してどうかしたのかと彼に聞きました。彼は、舵輪か舵になにか問題
があると答えました。

 数分間、彼は舵輪を引いたり押したりしたあと、突然、それが“自由に動き”始めました、そして、彼
はその時、“我々はどこかでなにか悪いことが起きた”と言いました。彼は船長を起こしに行き、そして、
船は風に対して舷側を向けました。

 エンジンが止められ、全部の帆が下ろされました。船が風に対して舷側を向け、動揺し、揺れた時、船
の上の誰もが突然目覚めたように見えました。船長と私たち残りのもの全員は舵を見るために船の後部に
行きました。それはおよそ45度の角度で、そこにありました、そして、私たち全員がそれを見たとき、
それは船から落ちました、そして、インド洋の底深く沈みました!

 私たちは、もっとも近い島から、少なくとも300マイルの所、そして、風と海流で漂流して、マヘには
更に遠くにいました。控えめに言っても、皆は“心配”でした。

 私たちは、状況について議論していた間、数時間ただ漂流しました。船長は、状況について、少なくと
も、船のクルーほどはそれ程不安になっていないようでした。彼らは気づかっていました。私の場合、そ
れは私の船ではないという態度をとりました、そして、もしそれが沈んでも、それは私の自腹を切ったお
金ではありませんでした。無線機には保険がかけてあるとAckは言いました、そこで、それらについて心
配することはありませんでした。私は、生命保険があったので、本当に心配したのは、私ではなく“私の
保険会社”のことでした。

 私は舵を見つけるために船外に飛び込むつもりはなく、船尾楼に戻って、一寸“無線をして”そして、
この状況から私の気をそらそうと決めました。

 小さなパタパタは再び廻されました、そして、CQを出しました。私はほんの一寸、仲間達と楽しいラ
グちゅーをしました、そして、彼らの誰かに、私たちの舵が失われたことを言いました。誰かは言いまし
た、“ガスはタフだ。”他の人は、“あなた達はそれを見つけるでしょう。”(誰が、インド洋の底まで潜ろう
とするのでしょうか?“私ではありません!”) あるW5は言いました、“やあ、これは驚いた、でもそれ程
ではないね”

・船の緊急事態が世界中に放送された

 無線で誰かが、私に何をしようとしているのかと尋ねました、そして私は “何もありません”と返事し
ました。私はテヘランのあるEP2の局とFBなQSOをしました、そして彼にすべてのことを話しました。
彼は、私たちに対してできることを彼はするつもりだと言いました!彼は全部の話、私たちの正確なQTH、
それに全体のことに関するその他の詳細について大変関を持っていました。

 船長は、マヘのハーヴェイ・ブレイン、VQ9HBと連絡を取り、船のオーナー、ティモロジー氏、セイ
シェルの大商人、へのメッセージを届けるように私に望みました。私はその夜、5Z4GT、レニーか、5Z4AQ、
ジョージを通してハーヴェイにメッセージを届けなければならないと船長に言いました。

 その夜、現地時間のおよそ午後6時頃、私は、ジョージ、5Z4AQとQSOして、私たちが舵を失ったト
ラブル、そして、強風による高波で 、船が横向きになり、海水が船のデッキのすべてをなで切りにして
いることを話したとき、“それは大変だ” と彼は言いました。また、船長と私以外の全員が心配をし始め
ました。

 私は、もはや我々の運命はつきたと考えた仲間のひとりです。あるいは、私がコントロールできないこ
と、それについて私が何もできないような出来事には全く心配しない、ひどくクレイジーな私なのかもし
れません。

 私は、ジョージに私たちのQTH、風の方向、船に乗っている人数、その他の詳細を全部話しました。
ジョージは、ケニヤラジオで仕事をしていて、このすべての情報は有線と無線と放送を通じて、世界中の
すべての通信社に送られたことをあとで知りました、

 それは、サウスカロライナのオレンジバーグでも聞かれて、多分オレンジバーグの3局のすべての放送
局から放送されました。私の妻も放送を聞いて、これが口火をきりました。全部の子供を家に呼び集め、
地元のバプティスト教会の牧師が私たちの家に呼ばれました。ブラウニング家の周囲では大変な悲しみと
心配が広がりました。

 誰かがAckに連絡するように勧めました。連絡がとられ、Ackは私たちにはどのような緊急の問題でも
ないと皆に保証しました。(私はこの言葉、緊急に、が好きです!)そこで、彼らは心配するのを止めて(私
は思います)そして、家での事は落ちつきました。

 船での物事は落ちつきませんでした。乗組員も落ちつきませんでした。皆がトラブルについて議論し、
提案しました。船長は彼がどうしようとしているかについて、彼自身の意見を持っていました。彼は船室
のドアを舵の代わりに使うことを決心しました。船室の一番大きなドアが取り外され、それに太いロープ
が取り付けられました。蝶番はありませんでした。それはロープを引くことでコントロールされなければ
ならなかったでしょう。

 船の後ろの部分に、船室のドアがここで前後に動くことができるように合うだろう所に大きなV字の溝
が鋸で作られました。さて、船の後部にこれが設置され、ここの大きな波と強風が、それをしようとする
あなたを妨げるのを想像してみて下さい。

 現在、私たちが“問題”、これは“大きな問題”を抱えていることが判ります。船室のドアは、それをV
字の溝の中央に保たれるように、3/4インチのロープで、両側からきつく引っ張って、その場所に保たれ
るように思われます。全員が、そのロープを掴んで、そして、船室のドアをV字の溝に向けてじりじりと
動かしました。バン、大きな波がそれを直撃しました、そしてそれは海に飛ばされました。

081M022507  2007.2.24
第16章 (2) デッキの上の海亀が死んで臭い始めた     

 多くの乗組員が船外に引き落とされそうになりながら、それはロープで引き戻されました、そして、皆
が別の所を持って。それは、再びその小さなV字の溝に落とされました、そして今回はもう少しでしたが、
しかし再び海に落ちました。あちらこちらで、悪態や髪をかきむしるのことがあり、沢山の議論もありま
した。彼らは、再び試みました。船長は思いとどまる兆候を全く見せずにこれが何時間も続きました。ほ
かの誰もが、この仕事は不可能だと意見が一致し、そして、私たちがマヘへ戻ることができるように牽引
船を呼ぶために、モンバサへメッセージを送ることを私に頼みました。

 私たちは翌朝“位置測定”をして、私たちはアフリカの方、6O1か多分FL8などの方へおよそ150マ
イル漂流したことを知りました。もし私たちがアフリカの方へ漂流するなら、私はお金を節約できると考
えていました、なぜなら、私がインド洋を離れたら、そこは私が行こうとするおよその方向でしたから。
それは、“そこに行く安い方法!”でしょう。

 私は船長に牽引船を呼ぶたいと思うかと聞きました、彼は “絶対にノー!”と言いました。船長は、こ
の船室のドアを取り付けることができ、それが、船長の言った“応急の舵”として使うことができると考
えた、船の上のただ一人の人でした。

 モンスーンの中のインド洋に漂流している船で眠ろうとして、ベッドの中に止まってるのは大変で殆ど
眠れないことを判るでしょう。私たちはずっと揺れ続けて、数日間、船では殆ど眠れなかったと思います。
これらの出来事が起きていた間、すべてのデッキには大きな海亀が積み込まれ、完全に覆われていたこと
を思い出して下さい。これらの出来事が進行中、デッキを覆っている大きな海亀の間をクルーが歩く場所
はありませんでした。

 結局、デッキが湿っていて、それらの海亀は至るところでスライドし、滑ったりし始めました、そして、
歩くための場所は全くありませんでした。何匹かの海亀は船外に落ちました。何匹かは死に、“臭い”始め
ました。そうです、私たちはその船の上で苦労していました。それらの海亀は足に噛みつくことで知られ
ていました、言うまでもなく、海亀の間や上を歩いている時は、頭には近づきませんでした。

 勿論殆どの時間、私は船で起きていることについて話をしながら無線をしていました。私たちは、毎日
マヘのVQ9HBと連絡を取っていました。船長は、何回も船のオーナーと直接話をしました。アフリカか
セイシェルに私たちを牽引するために、牽引船を送ろうかと船のオーナーさえ船長に聞きました。それに
対して、船長はいつも “ノー”と答えました、

 船長は、フルドッグのように非常にたくましい人でした。船室のドアが舵として取り付けられる希望が
一寸でもある限り、彼は諦めようとはしないつもりでした。誰もがずっと前に諦めて、それは問題外であ
り、取り付けることは不可能だと考えたのに、彼はそれが可能だと考えたただ一人の人でした。私さえ諦
めていました。

 3日経ってから、海亀は本当に “強く臭う”ようになりました、Q5-S9+50dB;しかし、彼らは未だそ
の舵と格闘を続けていました。とうとう、“突然に”彼らはそれを取り付けました。私は、それは偶然だっ
たと思います。私たちは仕事に戻りました、そしてそれから、舵の付いた船は再びVQ9への旅につき
ました。

2007.2.28

シャンパンとコークがVQ9で待っている

 マヘに居る船のオーナー宛にメッセージが送られ、その返事で、私たち全乗組員がポートビクトリアに
着いたらシャンパンパーティーが予定されているというメッセージが来ました。私からは「コークをお願
い!」の返事を出しました。その返事は「ブラウニングさん、あなたにはコークを」でした。

 ハーヴェイ・ブレインから手紙とニュース資料が地元で良く読まれている現地の新聞社に送られました。
そうです、その中にはヒーローが居ました、それが誰か判りますか?ハ、ハ。

 船室のドアは、船の進路を保てるほど十分の大きさではないと判ったので、エンジンの速度を調整する
ことにしました。エンジンの通常の回転速度は、私が覚えている限り、毎分およそ250回転、しかし私た
ちの進路を保つためには回転数をおよそ175回転に下げられました。しかし、私たちはVQ9へ向かって
いました、それで、皆がハッピーでした。

 私は言いましょう、その夜、船上では飲み物が全員で飲まれました、私を除いて。なぜなら、その時、
船にはコークがなかったのです。彼らはずっと飲んでいました。

 船上に沢山の死んだ海亀を乗せて、私たちがポートビクトリアに着くにはおよそ10日かかりました。
私たちがそこに着いたとき、私たちは臭いにおいの群でした。私たちがVQ9に戻ったのを歓迎するため
に、地元警察の音楽バンドが参加しました。私たちは時の英雄でした。沢山のシャンパンのケースと、沢
山の氷と一緒にコークの一ケースが船に運ばれました。その夜、船がポートビクトリアの長い埠頭に停泊
していた間、船上で、何人ものクルーが酔っぱらったと言いましょう。

 少なくとも、それは、私が無事に乗り切った部分で、そして、いま完成したDXpeditionの一部でした。
私は、VQ9の東北側にある、ホテルルームと呼ばれてた小さな「草葺き屋根のヒュッテ」へ戻りました。
古いアンテナが建てられ、私は再びVQ9Aでオンエアーしました。

 私が、最初にQSOしたのはEP2に居たあの友達でした。彼は、そこの米国大使館か領事館の高官で、
そして彼は非常に面白い話をしてくれました。彼は、ザンジバルかあるいはその付近を遊弋していた何隻
かの米国駆逐艦がいたと言いました。そして私たちが何らかの危険にさらされたり、沈没の危機になるよ
うな場合には、その時の連絡で私たちの船へ向け離陸することができるように準備ができていた船上のヘ
リコプターが待機しているとメッセージを受け取りました。

 私たちが彼たちに救助を求めなかったのが嬉しかったです。ペギーと子供達も同じように感じていると、
私は確信しています;特に保険会社と会社達が!保険会社が心配していたと考えて私は心配しました。ま
さにDXpeditionは始まったばかりで、私はここでそれを終わらせたくないと思いました。行かなければ
ならない、そしてそこから運用しなければならない場所が沢山ありました。

 ケニヤのモンバサへ行く船に乗るために待っている間、VQ9Aからのおよそ一週間の運用後、私はこの
美しい景色の溢れているVQ9を離れたくありませんでした。しかし、DXpeditionは進まなければなりま
せん、そして、これは未だ終わりではなかったのでした。

 すべてのものが片づけられ、注意深く梱包され、皆が「グッバイ」「73’s」などを言って、私は大きな船
に行きました。税関では何も問題はありませんでした。(出発するときには、普通、何もありません!)私
は、モンバサへ、そして、それから私の旅の次の行程のアフリカへ行きました。

・ケニヤ、ナイロビへの私の帰還

 沢山の素晴らしい食べ物とゆったりした休息で、モンバサへの旅は非常に楽しいものでした。船には新
人のオペレーターが乗っていて、彼はアマチュア無線については何も知らず、それに実際、彼は仕事でも
新米で、「チャンスをくれる」ことは望めず、そのため、たとえ私が船から運用しようとする準備ができて
いても今回は /MM はありませんでした。この休息は私に沢山の素晴らしい事をしました、そして、私が
モンバサに着いたら、私の全部のログをAckに送る用意のための時間がありました。

 船が到着したとき、素晴らしい仲間、レニー、5Z4GTと5Z4AAに会いました。警察への私の道程は
5Z4AAがしてくれました;そして、税関での彼のうなずきでトリックが行われ、すぐに、私の全リグがレ
ニーの車の中にありました、そして、私のホテルへ行きました。

 私は1日か2日だけモンバサで過ごしました。そこにいた間、私は地元のマーケットで一寸した買い物
をしました・彫刻全部の場所、覚えていますか?今回は、私は取り引きするものが全くないので、値切る
のに何時間も大変でした。それでも、私は多分およそ10ドルを使い、一抱えものFBな彫刻を得ました。

 彼らのコークを飲みながら、私は「値切る」方法を発見しました、そして、彼らもそれが好きだと私は
思っています。何人かは、私が前にそこに来たことを覚えていました。ある人は、私をアメリカからの商
売人だと見なしました。彼らは、決してUSAとは言いません、彼らはアメリカンと呼びます。これは、
ケニヤだけでなく、私が訪問したどの国でも本当です。

 数年前、彼らと私が「本物のプラスチック」宝石を取り引きした時の私の大きな商売に、彼らは言及し
ていました。彼らは私が未だそれを持っているかを知りたがりました。彼らは、「大きなこと」の仲間とし
て私を考えました。

 私はナイロビへの夜行列車に乗りました。その列車は夜だけ走ります。日中走るのは暑すぎて、加えて、
夜行なら彼らは寝台車の切符を売り、それは誰かのポケットにもう少しポンドを入れることだと、私は推
測します。

 ナイロビに戻るのは、家に戻るようなものでした。すべての光景、タクシーの運転者、穴のあいている
彼らの長い耳たぶ、そして、彼らがかぶっている縁付き帽子のような、高いトルコ帽でさえ、私にはなじ
みでした。

 古い仲間のジョージ、5Z4AQが列車での私に会って、ナイロビの街の外へ数マイルにある彼の家に私
たちは行きました。ゴルフコースの5番ホールの真横で、「5番ホールの近くはライオンに注意」のサイン
がありました。そこにあるそのサインが冗談だろうとは思わないで下さい。そこら中にライオンがいます。
ジョージは、ある晩、ライオン5匹が芝生を横切るのを見たと言いました。

 また、ハイエナも居ます。ある晩、ジョージは彼の正面入り口の階段に一切れの肉を置いて、真夜中頃
に、その正面のポーチでハイエナのなき声が聞こえました。彼らは、その肉の塊で争っていました。

 その時、ジョージはナイロビの近くのケニアTVで仕事をしていました、そして、彼が仕事に付いてい
るとき、どこへでも彼にフォローする「代役」がいました。彼の「代役」の名前は、ケニヤの現地人の一
人で、「キュク」と言ったと思います。

 ジョージは、突然5Z4からZS6へ去りました;そこで、私は5Z4の仲間がジョージの仕事を継いだと
思います。
082M-030107 2007.3.3
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