The Times and Democrat紙に掲載された記事 (その2)                 アマチュア目次へ戻る
The Times & Democrat, 1990年7月15日(日曜版)インタビュー T & D スタッフJoyce W. Milkie

                    (注:このインタビューの後まもなく、1990年8月21日、ブラウニング氏は 82才で逝去されました。)

*ハムエクスパートと彼の冒険

 私は、1925年に初めてラジオを作り始め、私には、それを動作させるまでに1年かかりました。ブラウニング
の宝物は彼の世界旅行の想い出です。

*熱心なラジオアマチュア

 インド洋のモリシャス島に居る間、熱心な他のハム、ラウルに会いました。ブラウニングは、世界中には現在
347の国々にアマチュアオペレーターが居て、そのうち中国には50人が居ると言いました。もし、私のしてき
たことを全部話すので有れば、私たちは何日もここに居るでしょう!とブラウニングは言いました。
 彼は2冊の本を一杯にするほどの冒険を経験し、半ダースもの男性の冒険と興奮の欲求を満たさせます。彼は
7回も世界旅行をしました。
 「はい、私は7回の世界旅行をして、アフリカのあらゆる国に3回も行きました。」と彼は言いました。ハムラ
ジオの専門家、ブラウニングは1925年、世界へ通じるトークボックス(無線)の虜になり、以来ずっと係わっ
ていました。「私は、1925年に初めてラジオ作り始め、動くまでに1年かかりました!」それ以来、彼は沢山の
ラジオを組み立て、それらで世界中と通信しました。しかし、ハムラジオだけが彼の楽しみではありません。
 彼はフランク・ベストjr.や他の企業家と一緒にオレンジバーグで最初の民間放送局を作りました。技術的な仕
事をした最後の放送局はWORGでしたと彼は言いました。
 最近、これまで彼がしてきたほどのことはしていません。彼の健康はデリケートで、直ぐ疲れます。コンピュ
ータと電子機器で一杯の彼の小さな書斎の中の大きな椅子に座って、「私は歩く時限爆弾だと言われます」と
彼は言いました。
 ブラウニングは2つの動脈瘤があり、それに、彼の夫人アグネス「ペギー」ブラウニングさんは、彼が一寸前
に心臓発作を起こしたと言いました。医師のアドバイスは無線は禁止です。ブラウニングは、数週間か、あるい
は20年大丈夫かだろうと言われたと言いました。「彼は頻繁に休まなければなりません、そして非常に疲れてい
ます。」と彼女は言いました。
 しかし、インタビューの間、ブラウニングは注意深く、そして、明らかに彼がブータン「私の好きな場所の一
つ」、マダガスカルとアフガニスタ、などエキゾチックなところで過ごした面白かった日を思い出すことを楽しん
でいました、

*旅行逸話

 サウスカロライナのエルリーで生まれて、ブラウニングは彼の生涯の殆どをこのエリアで過ごしています。彼
の「世界旅行」の一つでは、2年間家を留守にしました。しかし、オレンジバーグが彼の人生の殆どのホームベ
ースだったと、彼は言いました。
 彼が若いとき、ある時期、一家はフロリダに住んでいました。
 1941年、彼はオレンジバーグに移り、それ以来彼と彼の家族にとってここがホームでとガスは言いました。ブ
ラウニングの生涯と活動の進歩的な状況をクリアーにするのは少し難しいことで、というのは、夫人のファース
トネームが「アグネス」であるのに、彼女は「ペグ」以外は一度も決して呼ばれなかったことを私たちがわかっ
たように、ユーモラスなストーリーで話すために、覚えていることを喜んで、彼は主題をいろいろ変えたからで
した。
 「私たちがスペインのホテルに居たときに、彼女はペグと言う名前を得ました、彼女は、突飛で、誰かに言い
ました、“私の名前はペグです”それで私たちはそれ以来彼女をそう呼びました、」と彼ははっきりと言いました。
 夫人は、彼の最後の2回の旅行に一緒に行きました。
「私はブータンの病院で救急の仕事を手伝いました。そこは素晴らしい国でした。人々はあなた達ほどはする事
は出来ませんでした。」と彼女は言いました。「勿論、私たちが出かけたとき、子供達は全部成長して家から離れ
ていました。彼らが小さいときには私は旅行しませんでした。」

*ハムラジオの世界

 ブラウニングは、ハムラジオの別な方面について話して、彼のお気に入りは遠征のタイプだと言いました。
「あなたがアフガニスタンの誰かと話したら、何処の国と話したか、その時間などを記録します。あなたは出来
るだけ沢山の国と交信しようとします、そして、あなたは彼らと交信したという証拠がなければなりません」と
彼は言いました。
 彼は、現在348カ国にハムがいること、そして新開発の衛星について話しました、「あなたが信号を衛星に送
り、それをテープレコーダーが録音し、それを世界の反対側の誰かへ再生する事ができます、最近は多くの新し
いものがあります。」と彼は言いました。
 ブラウニングは1970年代にARRL(米国アマチュア無線連盟)に所属し、これが彼の人生の重要な部分である
と言いました。「それはすべてのアマチュアを一緒に集めます。」と彼は言いました。
 ブラウニングがFCC(連邦通信委員会)の公式なライセンスを得たのは1927年でした。
「初めは、フロリダの場所には電気が有りませんでした、そして私は1年ほど、電池で動作するセットで運用し
ました。」と彼は言いました。
 彼の3人の兄弟と2人の姉妹は地方に散らばりました。一人の兄弟はフィラデルフィアへ、そしてガスはそこ
で彼と一緒になり、仕事を得ました。「私は、4年か5年、技術者としてラジオに関する仕事をしました。私はラ
ジオに心を奪われました。」それから、彼は人生が変わったと言いました。組合に入り、ペグに会い、結婚しまし
た。

*旅行を始める

 1959年、彼は最初の世界一周旅行のために $3,750 ドルのお金を調達しました。彼は言います、人々が旅行
について話すのを聞くでしょう、しかし彼らは旅行のためのお金を持っています。「そして、ここに私は、$3,750
ドルで世界一周旅行をして、しかし、一回目に、それで私は向こうに行き、そして戻って来ました。」
 彼は言いました、彼はインド洋のまん中にあるセイシェル諸島への往復切符が一番安い旅行の一つだと知りま
した、そして、その途中、イタリアの中にある小さな国「サンマリノと、そして、途中の沢山の国や町を訪問し
ました。」彼はアテネに行きたいと決めました。彼は、そこにおよそ一週間半滞在しました。それから3週間滞在
したレバノンのベイルートへ行きました。
 これら全部の旅行の費用がどこからきたのかと質問されて、ブラウニングは様々な会社が資金を提供したと言
いました。彼は、そのうちの幾つかはセットの製造会社だと言いました。時々、彼が訪ねた国で運用していたと
き、無線機器に技術的な問題がありました。彼は、またときには政府のために働きましたが、しかしそれについ
ては詳しくは話しませんでした。3万ドルか4万ドルの基金、その殆どはセット会社が調達したと言いました。
 ラジオランドへの旅行は、彼をハルツーム、モンバサのような場所へ連れて行きました、そして、もし彼が一
つのシリーズの国々へ行ったのなら、彼は「全く違った道」!で家に戻りました。
 彼は話しました、セット部品製造社代表の亡くなったBuck Joinerが「再びあなたを向こうに送るにはいくら
かかるか?」と尋ねました。ブラウニングはJoinerに話しました、それはもう少し、「しかし、出来るだけ、私
はそのお金を延ばすでしょう、そして彼は15,000ドルを提供しました。」

*家に戻る

 ブラウニングは、ある時期、ラッセル通りにレコード店も持っていました。新しいレコードを求めようと、彼
はその店を尋ねたことを良く覚えているとSkip Pearson は言いました。(彼はそれを買うお金を持っていなか
った)他の誰かがそれを買ってしまう前に、「私が欲しかったものを見つけ、(主にジャズ)そして、私が買うお
金を持つまでは、誰もそれを見つけないように私がそれをカントリーウエスタンレコードの後ろに隠しました。」
と有名なジャズ音楽家でインストラクターである、Pearsonは言いました。
 彼は言いました、彼が何をしていたか、多分ブラウニングは知っていた、しかし彼は決して何も言いませんで
した。
 また、ブラウニングは最初の民間放送局を始めるのに、Frank Bestと一緒に約5年間仕事をしました。彼は、
WORG局の運用開始に関係していました。
 次に彼は、もう先に進むべき時だと決めました、そして再び世界旅行へ戻りました。
今回、彼は「エジプトのカイロへまっすぐ、それから、ブータンへの一時的な訪問の許可を得る前に、アフガニ
スタンに6週間から8週間を過ごす。」と向かいました。
 「私はインド洋のすべての島と、そして、ハムの居るすべての国に行きました、現在約50のハム局が居る、
中国。そして、我々の最後の旅行で、我々はヨーロッパの北の小さな諸島グループを発見しました。」「我々はヨ
ーロッパの国々では何も全く問題はありませんでした、鉄のカーテンの後ろへいけなかったことを除いては。」
 我々の最後の旅行は、短く楽しかったです、その前の旅行を除き;それは、アフガニスタンで4ヶ月過ごした
とき、その国のあらゆる地区に行きました。」
 彼は、ハムオペレーターに予告する手紙を送るのに、その頃75セントかかると言いました。特定の時間に無
線を聞き入るようにと、そして、彼はそのようなことはもうしないと言いました。
「うん、私は非常に疲れるようになって、長時間は無理だ。」と彼は言いました。

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