Peggy ブータン DXpedition 同行記 (3)
(The DXers Magazine #142 1969 December 10)  (アマチュア目次へ戻る

ブータンのペギー


 私たちがティンプーに着いて2,3週間たってから、2月に行われる新年の祝賀会を一緒に祝うように誘
われました。谷は、全ての小さな村村からの人たちで溢れているように見えました。女性は背中に子供を
背負い、そのほか人たちは荷物を背負って来ました。そこは、広い観覧席のようで、人で一杯でしたが座席
はなく、人々は皆地面に座らなければなりませんでした。

 王様のテント(白で、25人は十分入れるように大きい)には、地面に東洋風の敷物が敷いてありました。
テントの正面には赤いベルベットの敷物が置いてありました。いろいろなキャンディー、果物、ナッツ、その
ほかのものがのせてあるテーブルが私たちの前にありました。刺繍のある白い麻のテーブルクロスがテー
ブルを飾っていました。

 婦人と一緒のインドの何人かの役人達、王の長官など数人のブータンの役人がいました。私たちが席に
座ると直ぐにヤクバタティーが出されました。私は、あらかじめ、このデリカシーさを決して断ってはいけない
と言われていました。私はこのお茶を丸飲みに飲みこみましたが、ヤクバターティーは私ののどに引っかかっ
たと思いました。このお茶の味は塩辛く、上にはいやな臭いのバターがありました。ガスは“ダーリン、もう一
杯飲みませんか”と言います。

 陛下が私にもう一個のカップを持ってこさせたとき、私は、決してまた飲み込もうとは思いませんでした。私
は、飲み込んだものを押さえるため、口を覆いました。2,3分の間に、残りを飲みました。私の口の中は
獣脂で完全に覆われてしまったような気分でした。私は、無愛想にしたくなかったので、もう一杯のカップの
ティーを飲みました。
 この間中、数人のブータンの少女がダンスをしていました。彼女らは、腰を動かさないで、手だけを使い、
東洋風の幻想風な仕草でウェーブをしました。

 直ぐ、私たちには夕食が出されました。夕食は、いろいろな種類のとても辛い肉と沢山のお米でした。この
とても辛い食べ物は私の体の中を殆ど焼き尽くすようでした。陛下が多くの痛みを抱えているのがなぜか考
えたでしょう。

 夕食のあと、沢山の人が来て、アーチェリーのゲームを始めました。これらの人たちよりアーチェリーがもっ
と上手な人がいるとは信じられないと私は言いたいと思います。彼らが500フィート(150m)もの距離から何回
も的に当てたとき、私は心を奪われました。

 夕暮れは早くきました。夕日は地平線に落ちようとしていて、それは丁度火の玉がエベレストの頂上にある
ようでした。ガスと私は夜のけはいを感じました。私たちは、此処を去り、放送局に戻ることにしました。まも
なく、故郷のアマチュアの人たちと交信する時間がくるでしょう。

 翌朝、私は、山の上に来て、病人を診るようにと呼ばれました。私は看護キットを掴み、二人のブータンの
少年と一緒に、病人を見るために半マイルをとぼとぼと登りました。それは、誰か少し診察をしてくれる人が
来ることを知っている彼らにとっては、長い時間ではありませんでした。その人は、少なくとも70か80才で、ひ
どい咳でした。
 私は沢山のペニシリンは持っていなかったので、昔ながらの方法を使うと決めました。「幾つかの_Anacinの
アスピリンと古い方法の摩擦と彼の胸に何枚かのフランネルの布」 私は、彼の上に更にカバーを掛け、寝て
いるように、そして、私はその日遅く来ると言いました。私が戻ったとき、彼の熱は下がっていました。
 二日後には彼はベッドから出ていました。何回か、私はこのようなことをしました。

 彼らは大変感謝して、誰かはバスケットの中にライスクリスピーのようなものを私に持ってきてくれました。他
の人は、自分で編んで作ったバスケットをくれました、そして他の人は2つの小さなオレンジを持ってきました。
 これらのもの全てが、彼らが素晴らしく謙虚な人たちであることを私に教えてくれました。私の生涯に一度だ
け、私が誰か他の人にしてあげた、そしてあなたに言うことができる、それは素晴らしいフィーリングでした。

 私が不思議に見えた他のことは、彼らが祈りを人々に知らせる時に良く吹いた大きな角でした。 その音は、
山々にこだまして、本当に悲しみに沈んだ音を出しました。このホーンは早朝と夕方に鳴ります。

 私は山々にハイキングに行くのが好きでした、しかし、放送局からあまり遠くへの冒険はしませんでした。私
は、近くの丘にヒョウがいると言われました。それでも、私は小さな二人の少年と一緒にハイキングに行くと決
めました。私たちは出発しました、そして私は1/4マイルほどで疲れました。

 私は、休むために腰を下ろしました。少年の一人が木を指さして走り始めました。私はヒョウがそこにいたの
を知りました、私もまた走り始めました、転んで、起きて、そしてもっと走りました。突然、子供達が笑うのを聞き
ました。私は振り返り、二人の少年が私を指さして笑っていました。彼らは木にいました、そして彼らが私をから
かったのだと想像しました。それが、放送局から離れたハイキングの終わりでした。

 来週、私のブータンへの旅行の最後の章で会いましょう。


注:John W. Baxley:
  アスピリン:Anacin と Bayer は米国の有名な薬品メーカーです。 
  Rice Krispie ライスクリスピー・ケロッグ社の有名なシリアルの一種です。


(The DXers Magazine #143 1969 December 17)  (アマチュア目次へ戻る

ブータンのペギー

 ブータンのティンプーに滞在して3カ月が過ぎ、私は家に帰る準備ができました!
 私たちは、どんな白人もそれまで足を踏み入れたことが無かった山岳道路を重い足取りで歩きました、ほとんど
通行不能だった旅行の道路、そして、私たちがひどい寒さと、とても高い高度での大雪も乗り越えました。

 私たちは国王夫妻に会いました。私たちは最も名誉ある正月の祝賀会に招待されました。また、私たちはパレス
にも招待されました。私はここの人たちを大好きになりました、そして、この美しい国を去ることを大変悲しく感
じました。
 私が去る時には、春は始まろうとしていました。これは3月10日頃のことでした。出発の日、数人の人たちが
私に別れを告げるために集まりました。主任通信技師の妻は彼女のウエディングドレス、手織の布それにジャケッ
トを私にプレゼントしてくれました。王様は私にヒョウの毛皮をプレゼントしてくれました。王様は数週間前にヒ
ョウを撃ちました。

 これらのもののすべてが、高いヒマラヤに位置するこの小さな王国を訪問するという最もすばらしい特権の1つ
を私たちに与えられたと、私に自覚させました。実際、私はその時、ある映画スターを除いて、(彼女は短期間しか
滞在しませんでした)この非常に遠く離れた場所を訪問するのを許された、唯一のアメリカ人女性でした。

 私にとって、それらの人々は別の世紀に住んでいたように思えました。しかし、道路建設でこれは少しずつ変化
しています。
 ジープは、道路の全てでスリップと横滑りしました。解けた雪は旅行をとても危険にするように思われました、
特に私たちが道の縁にとても近づいた2,3カ所かでは。私は、二度、ジープを降りて、がけの縁を歩きました。
もう一個所では、水が滝のように道路を流れていました。
 今回は、何人かの道路作業員が、水たまりをジープを引いて通すためにロープをジープに結ばなければなりませ
んでした。

 私たちがPhuntsolingに安全に着くように祈りました。帰路の途中で、一夜を過ごしました。そして、私は、自
分がガスを置き去りにしてきたとわかっただけです。私には、息苦しくて、よく眠れない夜が沢山ありました。私
は食事が進みませんでした、そして、私の体重は103ポンド(約47kg)まで下がりました。
 私たちは、私が帰るのが最も良いと二人で決めました。私はガスと一緒に滞在することはできませんでした。私
は、まさにブータンへの旅行をプレゼントされて、再び家に帰ります。ガスはもう1カ月以内にはそこを出発する
でしょう。

 次の朝早く、私はHonchoingに行く途中でした。天気は、すこし暖かくなっていました、そして、私はスイカ
ズラと他の野性の草花の香りを感じることができました。私は、ジープを降りて、いくつかの花を摘んで、ティン
プーでの私たちのすばらしい友人を思いました。
 再びこれらのすばらしい人々には会えない、彼らに協力することが決して出来ないかもしれないとわかったとき、
涙が私の目に溢れました。
 私が彼たちに何も与えていないのに、私はここで本当の友達を見つけました。これらの人たちと私たちの友情は
非常に強くなりました。

 私は、ゲストハウスに到着して、翌朝の私のPhuntsolingからHashimirまでの旅行のために、私の衣服と手に
入れたものを一緒に再梱包しました。これは、暑く、ほこりだらけの搭乗で、私が今経験したこととは全く反対で
した。私をHashimirからカルカッタまで連れて行く飛行機に乗ったので、私はブータン人の友人に別れを告げま
した。そして、私の過ぎ去った旅行と、ブータンの高いヒマラヤの山の中の「最後の楽園」への経験を思いました。

 私が決して忘れないこの1回の旅行!
 私は再び行くでしょうか?
 私が再び王様か女王から招待されたなら、あなたは素晴らしい人生を賭けることができます!
 私はちょうどそこにいるでしょう。
 何にでも挑戦します。

 さあ、さようなら!  73 ペギーより。

注:地名について: Phuntsolingはプンツォリンと呼ぶようで、ブータン側の町でインドとの国境の町です。
  Honchoingはティンプーからプンツォリンに行く途中の町と思われますが、どのあたりか調べたのですが判りません。
  Hashimirはブータン国境に近いインドの町で、空港のある町と思われますが、ここもどのあたりか判りませんでした。
Post35/36-112005/112505  2005.11.22/26

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