Peggy ブータン DXpedition 同行記 (2)
(The DXers Magazine #140 1969 November 19)  (アマチュア目次へ戻る

ブータンのペギー

 ブータンでティンプーへの道に私たちは居ます。
 森の木々は、さえずっている鳥と一緒に、生きているように見えます。葉はサラサラと音を立てて、大型のネ
コ科(たぶんヒョウか虎)が道路を渡ったとき、それらは安全のため敏捷に動きまわっていました。絶え間なくそ
よ風が吹き始め、そして、私たちのジープのドライバーはヘアピンカーブをとても早く次々に回りました。彼は、
すいているフリーウェーのように運転しました。

 これは、世界中でもっとも地形の悪い150マイルもの道路です。この旅はまるまる二日間かかります。私たち
が非常に狭いダート道路にいる間は、2台のジープが通る余地がないほどとても狭いので、あまり遠くまでは行
ってませんでした。
 1台のジープは、いつも小さなくぼみで、他の1台が外側の危険を冒して居る間、バックアップしていました。
 コックと運搬人、(この人たちは女王がガスと私の面倒を見るために付けられた)と私たちの品物はランドロー
バーにありました。女王は、更に私たちの品物、寝具、食料と生きている5羽の鶏を用意しました。
運搬人はコックの仕事以外のすべてをする人です。
 コックは英語が判りました。運搬人はブータン人で、一言も英語は分かりませんでした。しかし、私たちは快
適でした。

 私たちは、男性より女性の方が多く、しょっちゅう歌ったり笑ったりしていることに気づきました。私たちは、
ときどき、積みすぎではと思われるほど積んだ小さなロバを先頭に、2,3のチベット人が道を歩いてくるのを
見るでしょう。多くは、小さなシートのあるフォーク状の棒を持っていました。疲れたとき、その棒を道路に挿
してそこに座り休みます。彼らは皆、背中に大きな荷物を背負っていました。さわやかで、新鮮で、冷たい空気
は彼らの頬と唇をバラ色にしました。

 私たちは、見たところ何もなく、私たちが落ちないようにするガードレールもなしのところを、着実に上り続
けました。下の方に、山の頂上から滝が谷底へ落ち始めているのを見ました。私たちは、底がないような深い切
れ目のある岩石だらけの崖を、一つまた一つと回りました。息をするのが少し困難になっていました。私は、2
倍くらい早く息をしていたのが判りました。

 他の1台のジープが鳴らした突然の警笛が私をひどく取り乱させ、こわがらせました。
 私たちは狭い出っ張りにいて、再びスタートする準備ができて、ドライバーがどうしようとしているのか?私
たちは止まって、ジープから下り、ジープのタイヤの1/4ほどが出っ張りからはみ出しているのに気づきました。
冷たい霧が流れ、雲が私の顔を横切ったとき私は小さな窪みまで這いました。

 遂にジープはそこを通りました。私は、もし私たちが出っ張りから落ちても、誰も私たちを見つけないだろう
と、何千フィートも下の方について考えました。このころ、私の神経はナーバスになっていて、そして夜が早く
来ました。

 私たちは、夜を過ごすため、ティンプーへの道の中程にあるただ一つのゲストハウスに入りました。氷のよう
に冷たい水が流れていました。私たちのコックは、暖かいティーを炭火で作り、私たちは冷たいサンドイッチを
食べました。彼は寝室に火を起こし、その部屋が暖房の有るただ一つの部屋でした。

 まだ緑色をした木が積み重ねられ、まるで私たちを煙で死なせるほど、息を詰まらせるに十分長い間、燃やさ
れました。
それから、私たちは3枚の毛布を貰い、眠りました。私たちは、ある爆破ポイントを10時に通過するために、
翌日6時に道まで来るように言われました。このゲストハウスはティンプーへの道ではただ一つのセメントの家
で、それらの材料はインドから運ばれなければならなかったのです。労働者にとってこれがどんなに危険な旅で
あったかを、想像してみて下さい。

 ティンプーまで続く家の殆どは、竹とわら造りの小屋です。ブータンの人々の殆どは裸足でした。
もっとも美しく、汚されていない山々はヒマラヤであると、私は言わなければなりません。遂に、太陽が輝き、
途中、雲はゆっくりと流れました。太陽は非常に明るかったので、それは殆ど私の目を見えなくしました。
私たちは、カーブまたカーブ、一つの山を下り、そして次の山を登り続け、いつも、毎回少し高度が上がりまし
た。

 突然、轟々となる音を聞きました、ジープは止まりました。私たちは殆どその先端に居ました。私たちは外へ
でて、道路が、大きな深い穴を残して、深い下の方に落ち込んだのを見上げました。私は、立て続けに金切り声
をあげました、ガスは私を落ち着かせようとして、私を揺すり、最後にはピンタをくれました。私たちは、旅を
続けることが出来るようになるまで何時間も待たされました。

 来週は、ティンプーまでの残りの旅と、ガスが無線局でアンテナを建てることについて見ましょう。

 ティンプーへの道路の一部が私たちの前で落下しました。このようなことはしばしば起こります、もし、それ
があなたの居るところで起きたら、あなたは大きなトラブルに巻き込まれます。
 ペギーは、インド(VU2)とブータン(AC7)の国境のAC7に居ます。
(The DXers Magazine #141 1969 November 29)  (アマチュア目次へ戻る)

 ブータンのペギー

 ティンプーへの道が見えなくなりました。私は、反対側の、大きく崩落した崖を見て、私たちがどのようにして
ティンプーに着くのかと思いました。小さなブルドーザとシャベルを持った何人かの道路工事人達が、山を廻る
違う道を造りました。高さが私をくらませるので、私はジープの中で毛布で囲われました。砂、木々、大きな玉
石が下の真っ暗な下の方に雪崩落ちた轟々と鳴る音はうるさかった。私たちは、それが次第に治まるまで、
騒音を聞きました。一つまた一つと、山々を回り回ったあと、天候はずっと身を切るように冷たく、ティンプーに
近づいたとガスは私に言いました。

 私は道に沿った、Dzong、あるいは彼らの祈りの場所に気づき始めました。道に沿った、殆どの小屋にある祈
りの旗はそよ風にに吹かていました。彼らは、祈りの言葉を書いた白い布をポールに付けると、悪魔を追い払う
ことが出来、そよ風が不吉な悪魔を遠ざけると信じています。

 私たちは多くの「位の高いお坊さん」を見ました、彼らは決して働かず、普通乗り物に乗っていました。彼ら
は決して風呂に入らず、そしてハエさえも殺しません。

 私たちが川に着いたとき、そこに二人のブータン人の番人が居て、彼らがジープを止め、幾つかの質問をした
あと、私たちは宮殿を通過して、宮殿の上にある放送局に向かいました。私たちは、宿泊のためのゲストハウス
を提供されましたが、ガスは別の考えを持っていました。私たちは、故郷の人たちと無線で話すために、ここに
居ました。これが第1の理由で、次の理由は、これらの素晴らしい人たちがガスと私を歓待するためでした。
通信の責任者と彼の妻が、数人のブータン人と一緒に、ジープのところまで出てきました。

注:JA1DM  *Dzong ブータンで、城と寺院が一緒になったような場所だそうです。


 私たちは放送局の反対側の部屋に滞在することになっていました。
 私たちの部屋には、およそ3個の衣類を掛けられる丈夫な木製のかけ具があり、そして食べ物などを入れるラ
フな木製の荒削りのキャビネットがある粗末な二部屋でした。ベッドは壁に止められた、木製のものでした。私
たちは、厚さが約4インチの2つのツインサイズのマットレスを一緒にして一つのベッドを作りました。粗末な
箱が私たちのテーブルでした。

 コックは品物を片づけながら、仕事に取りかかりました。私は2つの古い木製の椅子に気づきました。もう一
方の部屋には何もありませんでした。窓に毛布を掛けました、そこには、ガラスが無い窓の広い空間しかありま
せんでした。冷たい空気が入ってきました。冷たい空気が入らないように、毛布の上に、およそ15個の石を置
きました。私たちは、洗える場所は何処だろうと探しました。私たちは、洗い桶を使うように、そして一日に一
回、朝早く暖かいお湯が持ってこられるだろうと、言われました。

 それから、私はバスルーム(トイレ)はどこかと尋ねました。彼らは、それは丘の上の小さな白いテントであ
ると言いました。このもの柔らかな人々の態度で非常に幸せだと思って、私は丘を上がりました。私はテントの
中に入りました、そして私の気持ちは落ち込みました。地面に深く大きな穴があるだけでした。涙が私の目にあ
ふれました。私は失望しましたが、それを出来るだけ使うと決めました。

 結局、ガスは世界中の無線家のために、2回もこのように自分を犠牲にしました。(注)

 私は、その小さな丘を下って歩き戻った時、私はおまるを渡されました。これは、ガスを忍び笑いさせ、そし
て、もちろん私も笑ってしまいました。
 
 私たちのところに夜は早く来ました。私たちの夕食、チャーハン、甘い豆と小さな缶詰の魚のチャーハン、暖
かいお茶、が出されました。電灯は消され、ランタンを使うことになっていました。
 私のお手伝い人が入れ物一杯の炭を持ってきて、それを部屋の真ん中にある煉瓦の中にセットしたとき、私は
寒くて凍りそうでした。それは、ほんとに呼吸するのが苦しく、息をするのが難しかったと感じました。翌朝の
2時に私は深い眠りに落ちました。

 翌朝、ガスは夜明けに起きて、アンテナを建てるために手伝ってくれる人を捜しました。ポールが持ってこら
れました。6人の人たちが、それを支えようとしたとき、突然それが倒れ、丘を滑り落ち、それぞれの人たちが
止めようとしました。実際、二人はポールにまたがって、必死にすがりつきました。目を見張るほどのおかしい
光景。
 ポールが戻され、ガスと仲間達はアンテナを建てることを続けました。近くからの唸り声が彼らや、ガスさえ
も、散り散りにさせました。誰も、どんな動物も見ていませんでした。時間が過ぎ、そして次第に皆戻ってきて、
ガスのアンテナは立ち上がりました。

 米国からのその最初のQSOはガスが聞きたがっていたすべてでした。彼は“ペギー、バンドが死んでしまっ
たら、あなたに会いましょう”と言いました。そして、それが、私たちがそこに居た間に起きた正確なことです。

 翌朝、暖かいお茶とミルクなしのオートミールのために、私たちは7時に目を覚ましました。これが私たちが
此処に居た間のいつもの私たちの朝食でした。

 通信主任の奥さんと私は仲良しになりました。彼女は英語を知らず、私はブータンの言葉を知りませんでした。
毎日、いくらかの英語を習うために、彼女は私の部屋に来ました。

 二日後に、私はユニフォームを着て病院で仕事をしました。私たちは、食事、コック、付け人、私たちの向こ
うから此処への無料の往復旅行を与えられました。病院は非常に清潔ですが、粗末でした。シーツなしの、わら
のマットレスのベッドが使われていました。医療品は最新のものではありませんでした。人々の99パーセント
は生肉を食べるため、虫(寄生虫?)がいました。病院全体で、僅か4人の患者しか居ませんでした、そして彼
らは重症でした。インド人の看護婦とネパール人の医師がそこで働いていました。

 私は、病院からの行き帰りには恐怖を感じました。私たちのドライバーは、まるで直線道路をドライブするよ
うに、それらのカーブを曲がりました。私が病院に着いたとき、心配が一杯で、殆ど、それは家に戻る時間まで
続きました。

 人々は、謙虚で、ガスと私に非常に良くしてくれ、そして、彼らは、みな私をおばちゃんと呼び始めました。
来週は、このヤクバター、そして、ガスと私が王様の兄弟のゲストしての新年のお祝いについて見てみましょう。

ブータンについてもっと、また来週会いましょう。

  注:JA1DM
    ペギーは、ガスが大変な困難な日常を過ごしてでも世界のアマチュア無線家のため、自分を犠牲にして、
   ブータンに2回もやってきたと書きたかったようです。ペギーにとっては、それほどブータンでのカルチャー
   ショックが大きかったのでしょう。しかし、ガスはDXpeditionが大好きだった筈ですから、ペギーが感じた
   ような犠牲的な気持ちは無かったと私は思います。
Post32-110505/111005/111505  2005.11.6/11/16

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