Peggy ブータン DXpedition 同行記 (1)
(The DXers Magazine #137 1969 Octover 29)  (アマチュア目次へ戻る)

 ペギーはまた旅行します。

 今週から、ヒマラヤの山々の高い所の、私のブータンへの旅についての文章を書くつもりです。誰かが、家から
とても遠くの場所への無料の旅行を与えられることはめったにありません。数ヶ月、ガスはそれらの通信設備に
(給料なしで)取り組んで、それらの素晴らしい、謙虚な人たちとともに時を過ごしました。しかし、彼は食べ物と
滞在する場所を提供されました。ガスは首相と非常に良い友人になりました。

 ガスは私を連れて戻ってくるように招かれました。私の仕事は、貧しい人たちへ医療品を支給したり、病院での
手助けをすることでした。私達は、往復の飛行機の切符を与えられました。
これは1965 年のことでした。

 ガスはかなり興奮していました。彼はブータンとシッキムへ行ったことがありました。そして彼はヒマラヤのさらに
上の場所からの、もう一度の運用を望んでいました。私が必要とした全ては、幾つかのスラックスとセーターで、そ
して私は旅行の準備は終わりました。

 私達は、ジープが通過するのがやっとの本当に狭い幅の土の道を、3マイルよりも高い山を越え、これらの文章
の中で、何が起きたか見てみましょう。私達は、見たところ何もない、全く垂直な断崖にそって歩きました。私達は、
雲が霧のように私達の周りの近くを流れるのを下に見て。


        ブータンでのペギー

   女王と同席して食事しますか?
   王様の新年の祝賀会に出席しますか?
   ヤクバターのお茶を飲みますか?
   私達を殆ど死に至らしめる地滑り?
   現地の人たちと一緒に仕事をしますか?
   ブリザードの中で、ガスがアンテナを建てる経験。
   間近で吠える豹。
   18世紀に生きる人たちが耐える苦労。
   そのような高いところで、息をすることが出来ない私。
   王様の兄弟を私達が訪問。
   共産主義チベットがすぐそこにあるヒマラヤを飛行機で越える恐怖。
   ある夜、私の部屋にきた東洋人の男との遭遇、そのほかの沢山の経験。

   私達は、ニューヨークで機上の人となり極東に向かいました。
   ブータンの写真と一緒に皆さんに来週お会いします。

(The DXers Magazine #138 1969 November 5)  (アマチュア目次へ戻る)

ペギーブータンに到着。

 私たちは「極東」に向かう飛行機の中にいます!
 とても長い時間の最初のストップは、沢山のドイツのアマチュアが家に招待してくれた西ドイツでした。ガスと私は、
フォスと妻のヘレーネ、私たちをライン下りの船の旅と、そこにある沢山の古い城に連れていってくれたそのほか
のアマチュアとその奥さん方を決して忘れないでしょう。
 彼たちは、楽しませる話にすべてをつくしてくれました。私は、そのキャベツと子豚を決して忘れません。私はそ
のドイツ名を知りません。あなた方全員、ドイツのアマチュアの人たちをガスと私は決して忘れません。

 次に、私たちはスイス、それからスウェーデンのストックホルムへ行きました、本当に良い人たちで、素晴らしい
歓迎でした。沢山の氷と雪で凍り付くほど寒く、しかしその暖かい歓迎は誰の心をも溶かします!最高のホテル、
最良の料理、美しい宴会、鮭の詰めものやエレガントなすべての種類の上品な食べ物。私は体の調子が悪くなっ
たのですが、多くの人たちに会うことが出来ました。

 それから、レバノンのベイルート、そして、私たちは“十字架への道”のある“聖地”を訪ねました。私たちは、キリ
ストが試され、非難され、酢を与えられ、飲むのをいらだち、彼の頭に茨の冠、運ぶために重くて粗末な十字架を
彼が与えられた場所を見ました。次に、十字架に釘付けされたカルバリへ、キリストが重い荷を運び、路傍で彼
が転んだ場所を私たちは見ました。

エジプトで:
 私たちはナイルでピラミッド、ツタンカーメン王の墓を見ました。もちろん、私たちがナイルに居たあいだ、私は
具合が悪く、大変危険な状態だったかもしれません。あなた方の何人かは、アジアの国、あるいはメキシコでさへ
旅行したときに多分経験するでしょう。私は殆ど死んでいたように思います。何が起きたのか非常に心配した二
日間が過ぎて、突然私は元気になりました。

 私たちはバグダットへ行きました、そこでは人々が座って、平和にタバコを吸っている場所です。そこでは真鍮
は大変安価です。
 私たちの次のストップはニューデリー、世界でもっとも美しい寺院の一つで、世界の七不思議の一つでもある、
インドのアグラにあるタジマハールでした。そこからカルカッタへ行きました。

 ブータンのチンプーへ行く許可を貰うためにおよそ3週間待ちました。
 そこでは、物事は非常にゆっくりと進み、まるで私たちは何事も上手く行かないように見えました。私たちは、
もし出来るなら、これを終わらせるつもりで、はるばる遠くから来たようでした。

 ガスは、以前そこに行きました、そして何人かのアマチュアを知っていました。結局、アマチュアの人がガスを訪
ねてきました。VU2DK、彼の奥さん、ロリータと私はとても仲良しになりました。毎週日曜日、私たちはいろいろな
寺院と、浴槽のように大きな睡蓮の葉があった美しい庭園を訪ねました。ロリータと彼女の夫には二人の子供が
いました。そして、私たちは皆一緒に風景を楽しみました。

 アマチュアと彼らの妻達は、ある夜、心のこもったホテルの夕食で王様のように私たちを楽しませました。私た
ちの素晴らしい友人達へ、私たちは決して忘れません。ロリータと彼女の夫には、私たちは何時までも感謝して
います。

 結局ガスはブータンの女王がカルカッタを訪ねていることを聞きました、そして、彼女に会う予定を取りました。
彼が出かけたのは夜の8時頃でした。9時頃に、ホテルの私の部屋のドアを誰かがノックしました。私はドアを開
け、東洋風(中国人に見えた)に見える男が、ガスに会うために彼と一緒に来るようにと言いました。私は、どうし
て夫が私を呼ばないのか、私は出かける気がしないと返事しました。
「あなたのご主人が私と一緒に来るように求めているのです」と彼は言いました。私は、「いいえ私は頭痛がしま
す。」彼は言いました、「きっと新鮮な空気があなたを癒すでしょう。」私は「いいえ結構です。」と言いました。それ
から、私はドアを閉めました。
 これは私にショックでした、特にガスが戻ってから、彼が全く私を呼びにやっていないことを知って。

 女王は、彼女の国では、ガスが以前居たときと、事態が少し変わったため、私たちに許可を出せませんでした。
もっと遅く、一週間後に、私たち二人は日曜日に女王と一緒に夕食を食べるように誘われました。お抱え運転手
がキャデラックで私たちを迎えに来ました。
 
 
 私は女王とディナーをご一緒することに大変興奮していました。どのような動作をし、何を話さなければなら
ないかを考えました。でも、そのようなことは考える必要もなく、彼女は女王らしい気品と落ち着きを持ち、と
ても美しく、親しみやすい方でした。

 私たちは、少し話をしてからお茶を飲みました。会話は、主に子供と健康問題についてで、勿論、女王は私の
ドレスを誉めてくれました。女王はサリーのような民族衣装を着ていました。
 ディナーが始まりました、食事は数種類のカレー味の肉が盛られたご飯で、それは辛い味でした。その後、電
話があり、女王はロンドンの学校に行っている子供達と話しました。女王は謝り、私たち友人を歓迎し、女王が
出来ることは何でもすると言いました。女王は、運転手に私たちをエスコートして街の風景を見せるように言い、
その後、私たちはホテルに戻りました。

 次の日、Chana(女王の付き人のAC5PN、またガスの親しい友人で、彼はこの時私たちがこの国では得られ
ない情報を持っている人でした)から連絡がありました。私たちは、結局諦めて、私は国に帰り、ガスを別な場
所に行かせる準備が出来ました。私たちは彼と話し、女王への伝言を彼に頼みました。
(私は、女王陛下に、素晴らしい歓迎を感謝し、いつか、また女王に会うことを希望します、しかし、もう女王
の美しい国を訪ねる許可を待つことが出来ません。)彼はその夜の午後9時に去りました。

 翌朝、ガスは電話に呼ばれました。女王の国を訪問する許可を女王が私たちに与えてくれたのです。女王は、
私たちが必要とするすべての食物、道具、寝具などを買うようにChana(AC5PN)に指示しました。私が病院で
着る白いユニフォームのために仕立屋が寸法を採りました。物事が本当に動き始めました。

 ただ一つ、ガスの無線機がカルカッタの税関にあり、そこに留め置かれているように思われました。ガスは、
事務所から事務所へ、また最初の事務所へと戻って何日も費やしました:彼の無線機に関しての良いニュースは
全くありません。遂に彼は諦めて、私たちは飛行機でHashimireに出発しました。

 お昼頃そこに着いて、私たちはジープで、ヒマラヤ山麓のゲストハウスに行きました。私は、その大きな山塊
を見上げて、1マイルもの高さの山、私はそれが本当にそれほど危険かどうかと思いました。それが危険な道か
と尋ねたとき、キツネにつままれたような彼らの顔を見ました。
 
 私たちは、最後の楽園へ向かい、私たちが高いヒマラヤへの旅行を始めるとき、たくさんのいろいろなことを
見つけるつもりです。仲間とXYLの皆さん、私たちはこの記事で幾つかの素晴らしい写真を持っています。し
かし、この記事の長さと写真に必要なスペースのため、今週はそれらは省かれるでしょう、でも、来週に始める
つもりです。あなた方がこの記事と、これからのすべての私のヒマラヤでので厳しい旅行記を楽しまれることを
望みます。
(The DXers Magazine #139 1969 November 12)  (アマチュア目次へ戻る)
 ブータンのペギー

 高いヒマラヤの奥の小さな王国を見ましょう。

 ブータンは、北側がチベット、南側はインドに接している、南アジアの小さな国です。それは、高さが24,00
フィート以上もある東ヒマラヤにあります。人口は30万人以上で、人々はモンゴロイド族の仏教徒です。
 勿論、この険しい国に新しい道路建設のため多くのインド人がそこに住んでいます。これらの人々は、非常に
謙虚で、学校へ行く途中の少年、少女のグループを良く見るでしょう、そして、夜ゲストハウスに泊っている時
物音さえ聞こえません。
 殆どの人は中肉中背です。彼らの髪は、きめの粗い、短い黒髪です。髪型は私たちが「ビートルズカット」と
よぶのに似ているように思います。

 男の人は、、中央に幅の広いベルトのある、長い白のラインの縞のコートを着ています。これは、ブーコート
(boo-koot)と呼ばれます。女性は、厚く長い手編みの長い布きれに、保温のために、腕や手より長く作られた厚い
ブラウスのようなものを着ています。彼らの顔色は色白で頬はバラ色です。殆どが東洋風で、多くの人はチベッ
トから来て、皆同じような服装です。彼らの特徴はより中国寄りでした。
 勿論、ブータン人の大部分は上がり目(slanting eyes)です。

注:JA1DM
 Slant-eyed 辞書では、これは極東出身(やや軽蔑的)を意味するそうです。もっとも、英英辞書には「She has beautiful
 slanting eyes」
と用例が書いてありましたから、最近は良い意味もあるのでしょうか?
 
 ガスと私に部屋が与えられました。この部屋はゲストハウス(約2週間滞在する予定の)にありました。この
ゲストハウスは、亡くなった首相が撃たれた所です。もちろん、彼の部屋はゲストハウスのもう一方の端にあり
ました。ガスと私は彼の個人用の浴室の特典を許されました。私たちの食事は、主に何種類かの野菜と玉子が混
ぜられたチャーハンでした。時にはさやごと食べられる豆でした。Phuntsolingでは、私たちの欲しかったほか
の野菜やオレンジを食べました。

 日中は暑い気温でした。毎朝、朝食前に、ゲストハウスの子供達の一人が、バラを一輪摘んで、私に持ってき
てくれました。これは本当に私の心にふれました。彼はいつも自分の手を一緒に合わせてお辞儀し、「ブータン風
のお早う」それから私にバラを手渡します。

 私たちは、直ぐにでもティンプーに行くことを望んでいましたが、ドライバーの都合で遅れました。彼らは、
道を行くことをあまり気が進まないように思えました。私は毎日、外へでて、それらのヘアピンカーブを見つめ
ていました。
 ある日、私はその道を半マイルほど歩いて、すぐ戻りました。私は、それら全部のヘアピンカーブをどのよう
にして行くのかは見ませんでした。

 ガスは、バンドが良く開いていた時には、「天国」にいるようで、無線に夢中でした。それでも、私たちはティ
ンプーに行きたかったのです。

 私たちが待っている間、私はこのティンプーへの道を少し見ようと思いました。私は、現地の一人に、一月に
何回くらい地滑りがあるのかを尋ねました、彼は答えました「たくさん」と。私は、ゲストハウスの近くに立っ
て、山の側面を見ることによって、たくさんの地滑りがあったことを想像することができました。彼は私に尋ね
ました、これまでにそこに行ったことがありますか?私は「いいえ」と答えました。私は、彼が残念そうに微笑
んだのに気づきました。

 時は早く過ぎ、私たちの出発の日が来ました!
 女王が用意した、寝具、食料、間に合わせのストーブ(ブリキ製の)、何組かの薄いマットレス、燃料、それに
5羽の鶏、コックと運搬人、と一緒に、私たちは出発の準備ができました。
 ランドローバーは積めるだけ一杯でした。私たちは、小さなジープで続くことになっていました。ドライバー、
ガスと私がジープに乗りました。

 私たちはティンプーが非常に寒いのを知っていました、そこで、暖かい下着、スラックス、暖かいジャケット
で、私たちは目的地へ向かいました。私たちが半マイルほど行ったとき、私たちは、別のジープが通過する余地
のないほど非常に狭い、ダート道路にいることに気づきました。私たちの目の前で道路が突然見えなくなった時、
そして私が雲の上に居て、私たちがどうなったか、を来週見つけましょう。
 「ロスのフリーウェーと殆ど同じくらい危険な」この道路では、雲は普通は私たちの下にあります。

お断り:
    原文ではここに、険しい崖に作られた道路と、ペギーやジープの写真があるのですが、カラースライドをモノクロで
    印刷してあり、ハーフトーンが飛んでいて、掲載には無理ですのでご了承下さい。 
     ブータンは、首都のティンプーは高度約2,500メートル、南部の低地が500から1,000メートル前後とのことで、この
    文章にでてくるPhuntsolingはインドとの国境にある町です。
Post 29/30/31-102005/102505/103005/110505       2005.10.21/26/31/11.6

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