Peggy インド洋DXpedition 同行記(6)
(The DXers Magazine #132 1969 September 24)  (アマチュア目次へ戻る)

ペギーとセイシェル
             東インド洋にあるセイシェル、愛の島から今日は。

 この島には、普通とは違う時計があります。その時計は,正時にチャイムが2回なります。な
ぜ、そうなのかは誰も知らないようです。住んでいる人の中には、それは仕事に行かせるのに、
眠そうな人を起こすのに役に立っていると信じています。最初のチャイムは彼らを起こすためで、
2回目のチャイムは仕事に行かせるためです。たとえそうでも、この時計はそれらの人々の習慣
には少ししか影響しなく、それはまだ正時に2回鳴っています。

 時計に関する限りは、それが彼らの約束を守るのには役にたっていません。彼らは毎日、約束
して、そして決して最初は守らないでしょう。

 セイシェルの美はカクテルパーティーと人々のモラルの低さでひどく汚れています。これらの
人々の大多数が、ローマカソリック教徒で、かなりの人が教会へ行きます。多くが神父に彼らの
罪を嘆いて、それからすぐにベッドに行き、そして、見知らぬ男性と互いを慰めるでしょう。

 この美しい島には、多くの興味のあるポイントがあります。
 埠頭には、大きな亀のいる池があります。これらは、離れ島からスクーナーで連れてこられて、
生かしておくためホースで水をかけられます。それらが、食べ物として必要とされるとき、誰か
が、池に入り、ロープを彼らの首に巻き、哀れな亀はカートに入れられ、屠殺されるため町を通
って、運ばれます。これらのかわいそうな生き物は、いったん仰向けにされ、無力でとても不器
用です。
 亀のスープのことを思い、これ以上亀を食べられるだろうかと思いました。

 ある夜、ベッドに横たわっていて、私は何か重いものを頭に感じました。私は半分寝ていまし
た。私はベッドから飛び出し、電灯をつけ、しかし、何も見えませんでした。再びベッドに戻り、
そして、今度は何かが床に落ちました。ガスと私の二人はベッドからでて、しかし、私達はそれ
が何だったかは決して判りませんでした。しかしながら、私の首の横に2つの印があったのが思
い出させるものでした。―多分ネズミ!

 私達はたくさんの種類の多くの花のある美しい公園を訪ねました。この公園では、私達は「オ
オコウモリあるいは飛ぶキツネ」を見ました。これらの小さな生き物は、逆さにぶら下がり、そ
れらは4から6インチの長さで、約2フィートの幅の羽を持っていました。彼らの顔はまさに小
さなキツネに似ています。これはセイシェルの人達にとっては珍味です。彼らは、普通、夕暮れ
にこの小さな生き物の狩りをします。

注:JA1DM
*Fruit Bat, Flying Fox・オオコウモリは、果実を常食にしていることや、顔がキツネのようで
 あることから英語ではこの名前がついているそうです。セイシェルでは食べるのですね!

ここの人達の幾つかの超自然的な信仰を見てみましょう。

 セイシェルにはゾンビズムの強い信仰があり、ゾンビは“dodotia”と呼ばれます。
 ガスと私に,セイシェルのある人が言いました、ある男の人が埋葬されてからずっと後になって、
何人かの友人が彼を見たと。誰かが、彼のそばに行こうとすると、彼は姿を消すでしょう。多く
のセイシェルの人がゾンビは丘に鎖でつながれていると言い張ります。死んだ人の行き先が決め
られていないと、Malfaiteurは埋葬の後の夜、墓から死んだ人の体を呼び出、Malfaiteurはゾン
ビの周りをひもで結んで、森の中へ連れていき、鍬を与えられ、穴を掘り、埋めさせられるでし
ょう。砂糖とでんぷんだけで、土からできたものを食べることは許されないでしょう。目に見え
るボディーは日常のもの、ことによると木の形をとります。ゾンビは、通常、死んだであろう時
まであくせく働かされます。

 黒い猫は、島ではまたもうひとつの珍しいものです。
 黒い猫を7年間飼い、それから、ポットに入れて、肉が柔らかくなるまで茹で、骨をきれいに
洗い、それぞれの骨の両端をミルクに浸けます。そして、それを持てば、ゾンビ以外には、あなたは
誰からも見えなくなるだろうと言うことを、彼らは信じています。
 強力な魔法の材料を手に入れるために、全ての種類のものが、Grs Grisの人たち、最近は人殺
しにさえ、によって使われます、

 セイシェルの何人かの女性達と、山の中腹まで出かけました。しかし、ちょうど覆いのような、
何か不思議な感じが私をおそいました。私は、続けることができませんでした。私達は、ギザギ
ザのサンゴの海の中に全く消えてなくなるようでした。

 これらの奇妙な話を聞いて、特に、4インチほどのアフリカ製の小さな男性の木彫りの彫刻を
私が持っていたことから、私達が宿泊しているゲストハウスの女主人が少々奇妙な行動をしたあ
とで、私はちょっと不安になりました。
 彼女は、私の部屋からそれを取り除くように私に頼みました。彼女は、女性が私の部屋を掃除
するのを怖がっていると言いました。私は、それを燃やすと言いましたが、魔法については何も
知りませんでした。私がそれを燃やしたあと、彼女らは私達の部屋に入り掃除をしました。私の
部屋で、夜に首に残ったその2つの小さな傷跡が、判らない何かであるかもしれない。
セイシェルへの私の旅行を思い出させるもの!

私のセイシェルからの最後の章で来週また会いましょう!

 (以下は、セイシェルについて書いたペギーの詩です)

   離れた、とても遠い島
   ココナッツと椰子の木が歌い、踊っているところ
   何も気にせず、何もせず
   輝く日光と山のさわやかさ
   インディアンブルーの深く青い海
   輝く肌色のたくさんのクレオールの人
   遠くの、深い愛の島
   また、いつかは戻ってくる私の思い

注:JA1DM
 このゾンビに関わるミステリアスな文章は難解で、Johnにも説明して貰いましたが、よくわか
 りません。Malfaiteurはフランス語で、刑事、犯罪者の意味だそうですが、ゾンビとの関わりも
 よくわかりません。ゾンビとは、迷信で、死者を生かす超自然の力や生き返った死者のようです。
(The DXs Magazine #133 1969 October 1)  (アマチュア目次へ戻る

ペギーとセイシェル 
             ペギーからセイシェルへさようなら!

 私の予算が少なくなり、既に一週間も具合が悪くなっていました。米国追跡ステーションの医
者は、怪我をした二人の患者と一緒にモンバサに行ってしまい、私の必要な薬を貰うことができ
ませんでした。私は、医者(島に残っている)から腎臓結石のようだから、できるだけ早く島を
離れなさいと言われました。

 島を去る唯一の方法は、3日後に島を出るSSカランジャ号でした。
 私達は、この島に沢山の友達ができましたが、このため、彼らを訪ねるための多くの時間は
私にはないでしょう。実の所、私は多くを訪ねたいとは思いませんでした。
 
 私は、貝殻を集め、暖かく青い海の中の白鳥、釣り、ピクニックに行き、山へハイキングに、
 (離れたところで、ゾンビをちらりと見たいと思い)ガスがアンテナを建てるのを手伝い、無線
 機を梱包し、手紙を書き、ログをつけるのを手伝い、ワイヤーを巻き、ワイヤーを巻き付ける
 ためココナツの木に登り、きれいな公園バニラとシナモンの木立とコプラの木々も訪ねました。

 飛行機に漁船、列車やバスで旅をしました。
 コウモリ、トカゲ、アリ、ライオンやネズミも、そのほかの動物達にも会いました。
 恐怖で死にそうでした。

 出発の前の日、私は7時にホテルに来るように言われました。何があるかも知らないで、私は
スラックスーツを着てホテルに急ぎました。そこで、私は何十人もの友達に歓迎され、テーブル
はいろいろなエキゾチックな果物で飾られていました。
 オオコウモリのカレーがありました!ウオ!私は食べませんでした:カレーライス、魚と小さ
な椰子の新芽で作ったココナッツサラダは私にとって大変美味しかった。ジャガイモとラム、新
鮮なサラダ、トマト、キュウリとビートがありました。沢山の種類の飲み物、コーク、新鮮なフ
ルーツサラダの特別なフルーツボールまでもありました。

 私は、これが私の送別会だとわかって、私の目に涙があふれました。私は、あまりも沢山食べ
て気分が悪く、しかし、無理して2時間もそこに座っていました。
 最後に、彼女たちは私に、スライスし揚げて砂糖をまぶしたパンの木の料理をプレゼントして
くれました。

 それから、彼女たちは私が必ず再び島に戻ると言いました。
 次に、彼女たちは、ココデメールのバスケットをプレゼントしてくれ、「これは忘れられたエデ
ンからのもので、私達はこれが、あなたの覚えていてくれるエデンになって欲しいと望んでいま
す」と言いました。

 私は、この控えめな人たちをとても身近に感じ「あなた方の素晴らしく親切なもてなしと、こ
の美味しい食事、この美しいバスケットを有り難う、私は、パンの木を食べたので、私の一部は
いつもここにいるでしょう、そしていつかは再び戻ってくるのを望んでいます、あなた方皆を大
好きです。」

 私は、友人達に別れを告げて、キャビンに戻りました。私の全ての人生で、このように身近に
感じたことは決してありませんでした。
                                           
 次の日の朝9時に、私達は長い埠頭にいました。
 感情にむせんだ私と、悲しそうな顔のガス。私の予算は殆ど底をつき、病気で、その上医療の
手当もありません。

 ガスと一緒にいるのをどれほど切望したことでしょう。彼を残して、これは最大の難問でした。
私達は、お互いにさようならを言いました。私は振り返りませんでした。出来ることなら残りた
いのを、私は知っていました。

 私達は、海岸から1.5マイルほど離れているSSカランジャ号に行きました。穏やかな日でし
た。船は、翌朝まで出航できないと、1時に告げられました。コプラの積み荷をボートにおろさ
ねばならないのです。
パキスタンまでへの途中、私の面倒を見てくれるカップルと一緒にデッキに出ました。私は、3
日間非常に具合が悪く、一日に2回も医者の診察が必要でした。医者は、最初腎臓結石だと考え
ていました。幸いにも、それは腎臓の感染症でした。

 出向の前日の夜、私は再びデッキに出て、、青く緑の海面にくれる生き生きとした太陽とセイシ
ェルの山陰を見つめました。日常生活の雑踏から、はるか遠く離れた、この静かな美しい島を離
れることの寂しさを、また感じました。

 それから私は、一人のハムが私に書いたことをもう一度考えました。彼は言いました、“ペギー、
住むのにちっとも安全でない、幾つかの街のネズミのかわりに、ネズミのレースだけの島にいる
方が良いと。”

 すぐ夜が明けました。私は、プララン島の上に太陽が昇っているのを見ました、そして、船は
動き始めていました。私は、最後にマヘを見るためにデッキに上りました。山々は輝く太陽は海
のうえのいろいろな光の中に消え去り、ビクトリア港も次第に見えなくなりました。私の一部分
が実際残されたような気がしました。

 既に、私は自分自身に言いました「いつかは私が戻りたいのを知っている」と。パキスタンへ
の途中までの船の旅は順調でした、それから雨が激しくなり、常に風が吹き、船はひどく揺れ始
めました。誰もデッキには残りませんでした。私達は、東南のモンスーンが始まったと言われま
した。残りの旅は非常に荒く、殆どみなが船酔いにかかりました。

 パキスタンに2日間滞在して、そしてニューヨークから家に戻りました。そうです、それは私
にとって素晴らしい経験でした。また、その全てをしたいですか?答えは「はい」です。

(ペギーのメモ)
これまでのストーリーで、インド洋をガスと一緒に私が旅行した文章を終わります。私は、近く、
ガスと一緒の私のブータンへの旅行についての文章を始めるつもりです。ブータンについての文
章のシリーズで、私は沢山の写真を使いたいと思っています。

 さしあたり、あなた方が持っているどのような記事でも待っています。私達は、喜んでそれら
を発行します。あなたの送信機、旅行記やアンテナでも。
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