Peggy インド洋 DXpedition 同行記 (4)
(The DXers Magazine #128 1969 August 27)  (アマチュア目次へ戻る)
デスロチェス島のペギー

 インド洋のデスロチェス島に行くように物事が全部セットされました。これは、一日と一晩の
旅行です。
 島のマネージャーは、ガスが島に来る許可を発行しました。ガスは既に、私達がどの船に乗る
かの数週間も前に無線のライセンスを持っていました。
 この船は古く、コプラ、山羊、羊、魚、鶏それに現地人を運びました。無線機は全部梱包され、
ガソリン、食料そのほかの必需品が船に積まれ、私達は明朝9時までにくるように言われました。
 幅およそ1フィートの古い板が船からドックに渡されました。船に乗るときに海に落ちないた
め靴を脱ぐように、ガスが私に言いました。私は、渡し板を渡り始めました、そして、突然、私
はグリースのようなもので滑り、頭を下にして海に落ちました。(15人ほどの、汚い匂いの現地
人の笑いの中に)私は、口の中が海水であふれ、水中に20から25フィードに落ちたあと、浮き
上がりました。私は船によじ登り、最終的に、私達は出帆する11時まで待たされました。
 私は濡れた服を着替えるため化粧室(隠れ部屋)を探しました。ドアがロックされ、私が外に
でるまでに、油の匂いと熱で殆ど窒息しそうでした。

 私達は、ドアの全くない部屋を与えられました、その部屋は、年をとった塩にまみれたキャプ
テンの部屋につながっていました。そこには毛布のない3台のベッドがあり、コックローチで一
杯でした。ガスはすぐ寝付きました。私はガスの上をそれらのコックローチが這っているのを見
ました。
 ついに、一匹がガスの口に近寄りました、私が何をしたかをガスに尋ねさせるためだけに、私
はそれをたたきました。ガスは、“それらは私にはじゃまではないが、なぜペギーそれらはじゃま
なのか?”と聞きました。
 キャビンがコックローチで一杯だったのを知っているので、私は食べられませんでした。

 夜は早く来ました、そして、私は半分壊れた椅子をデッキに持ってくると決めました。
突然、船が前後にうんざりするほど揺れました。白波に月影が落ちています。私はベッドまで這
う方が良いと決めました。 私はコックローチのことを考えすぎたのではありません。最終的に、
全部のライトが消されて、私は殆ど眠りに落ちました。
 何かがドシンと私の腕にあたったのを感じて、そして、床に落ちました。
 私は金切り声で叫びました。年取ったキャプテンがドアを開けて、フラッシュライトを私の顔
にあてて、どうしたのかと聞きました。
 私は、この船には猫か何かがいるのかと聞きました、彼は私達の唯一の猫達(それは、もちろ
ん現地人の意味)は船上にいると言いました。彼は、ネズミが私の上に落ちたのだろうと言いま
した。
 この時までに、私は恐怖によって混乱してしまいました。私は明かりを点けて、ベッドからデ
ッキチェアーまで這い出しました。
 何かが私の膝と裸の足の上を這っているのを感じ、デッキチェアーの横を走っているネズミの
しっぽを感じた時、私は長い時間眠れませんでした。 私は再び金切り声を出しました、そして、
キャプテンが再び来ました。
 彼は“ご婦人、ネズミは噛みつきません、ネズミは食べたあとです”。私達の食料は全部ベッド
の下にあります。それは食べられました!
 
 私はデッキチェアーを取り、それをデッキに出して、眠ろうとしたとき、突然豪雨が私を襲い
ました。ちょうど大きな波がデッキと私に襲いかかり、私は目を開けました。私はずぶぬれにな
りました、しかし大丈夫。
 私は立ち上がろうとしましたが、結局、最終的には四つん這いで這って、小さなバッグを開け、
乾いた服を出して、ベッドに横這い、何も考えられないほど疲れました。

 その後まもなく、私達は暖かいお茶が出されて、デスロチェス島に近づいているところだと言
われました。
 島の岩に音を立てて波が打ち寄せている白い砂浜を見ることが出来ました。私は、帆がおろさ
れたのを知り、私達は岸から約1マイルの所にいました。カヌーが私達の所にやってきました。
 島のマネージャが浜に来て、私達の書類などを見たがっていました。彼は、私達を歓迎して、
私達にロープでペローグ(カヌー)に降りるように言いました。私は“ロープで下りなさいとはどういうこと
ですか?”
 キャプテンは言いました“あなたはロープを掴んで、あなたが自分でカヌーに滑り降りなさい。”
 それは、4人の現地人が操っている細く長いカヌーです。私は、海の深さを見て、もしその深
い海に落ちたらどうなるのだろうかと思いました。私はロープを掴み、降り始めました。私はロ
ープで手に火傷を負い、そこは数日間そのままでした。

 私達が岸に来たとき、海中には何匹かのサメがいるかもしれないから、私の足をボートの外に
出さないようにと言われました。
 素晴らしい考えは、私を殆ど死んでしまうほど怖がらせました。

 私たちは56人のコプラ労働者とその12人の子供に歓迎されました。大きな2つのベッドルー
ムが使え、島のマネージャの家で食事を提供してくれると言われました。
 現地の人たちがガスの無線機全部と、ガソリン、2台の発電機をゲストハウスまで運ぶことに
なっていました。

 私は、島を見てまわり、多くのココヤシの木を見ました。珊瑚礁を波打つ波の音は貨車の騒音
のように聞こえました。このすさまじい音と一緒に、小さなチャペル、刑務所、いくつかの草葺
きの小屋と2、3のセメント作りの家がありました。その時はちょうど夕暮れのすぐあとでした。
 全く、生活の印がないのですが、毎朝4:30頃に男達が、一日の活動を始めるので、そこで活気
づき始めます。

 ガスの発電機に何が起きたか、このデスロチェス島への最初の旅行でのトラブルと、とにかく
凌いだ私の帰りの旅行で、私達が学んだのを次の号で。この古いきしんだ船で、私がキャビンに
しがみついて、船から流され落ちるのを防ぎ、私になにが起きたかは、DXerの次号で見てくだ
さい。
post 23-092005  2005.9.21 24-092505 2005.9.26
(The DXers Magazine #129 1969 Sept. 3)( アマチュア目次へ戻る)
デスロチェス島からペギーの帰りの旅

 私たちはデスロチェス島にいました、そして、ガスが無線機をチェックしていた時、彼は発電
機(誰かが彼に貸してくれた新しい物)の1つが無くなっているのを見つけました。彼はすぐに、
発電機について4人の現地人の少年に聞き始めました。彼らは、それが海に落ちたと説明しまし
た! ガスは、そのために潜るように頼みました。彼らはそのチャンスはないと言いました。海に
は鮫がいました。
 ガスは、前向きに、アンテナを立てました。ガスは、バンという音で始めましたが、発電機は
動いたり止まったりしました。ガスはもう1台の方を使ってみました。両方ともトラブルです。
ガスと現地人の少年の一人は、モーターを動かすために、夜も昼も二日間働きましたが、しかし、
それは完全に止まりました。
 ガスは落胆しました。ガスはたった一つのこと、島を離れ発電機を修理し、再び島に戻ってく
ることしか望みませんでした。たとえそれを動かすことが出来なくても、ガスは決してその仕事
を止めませんでした。

 船は、3日後に私達を拾うことになっていましたが、遅れて、4日後まで来ませんでした。ピ
ローグ(カヌー)が最初に無線装置を運び、それから私達を迎えに来ました。ボートが波で揺れ
るのを見たとき、私の胃袋は縮まりました。ピローグが岸への道を切り抜けたとき、ギザギザの
珊瑚礁に打ち付ける波はものすごい雷のような音をたてていました。それは不快な気分で、風は
ボートに向けけたたましい音を出していました。やっと、私達は舷側に着きました。
 もう一度、私は上陸の時と同様に、ロープを上るように言われました。私の手は、まだ皮がむ
けていましたが、絆創膏を貼っていました、腕を上下して、痛みに襲われながら、ロープを上り
ました。遂に、誰かが私をつかみ、デッキに引き上げました。私は冷や汗をかきましたが、しか
し蒸し暑い天気でした。私はデッキチェアーまで這いました。

 キャプテンが全員乗船したと言いました。
 島のマネージャーと現地人達の乗っているピローグが私達に別れを告げました。私達は帰路に
つき、私は幸せでした。
 風は間違いなく強くなっていました。私は東南モンスーンの季節だと知っていました。東南か
ら風が吹くときは、それは沢山の雨を降らせます。

 私は、少しデッキを歩き始めました。船が一方の側に急に傾いたとき、私はもう少しで、私の
顔を床に打ち付けるところでした。私は、膝の痛みだけで、それから逃れました。私は、ペギー
もし何か感覚があるなら、あなたはベッドに行くでしょうと自分に言いました。
 突然、私は油のにおいと一緒に調理中の魚、ブタ、ヤギそれに現地人の匂いをかぎました。私
が船の横へ走ったとき、強い吐き気が次々に私をおそいました。これは私がそれまでに経験した
最悪の船酔いでした。私は座ることができませんでした! 私はキャビンまで這いました、そして、
コックローチはそこら中をうろちょろしていました。私は気にかけませんでした。私はただ横た
わりたかったのです。
 私は船酔い薬を全く飲んでいませんでした、そして、荒海を感じ始めていました。風はうなり、
そして、雨が落ち始めました。現地人達は、頭と体を覆うキャンバスを持っていました。私は、
自分のベッドから外へ出られないほど弱っていました。
 私達はランチを出されましたが、食べ物の匂いだけで、気分が悪くなりました。私は死んだよ
うになっていました。

 夜の7時頃、海は真っ白で、泡立ち、沸騰し、怒っているような海でした。私は、船酔いのた
めに何かが欲しかったのです。私はベッドを出ました。突然、船は一方に傾き、ちょうど、水が
ボードの上をベッドまでうち寄せ、私はテーブルにつかまりました。キャビン全体が海水で一杯
になったように思えました。海水が私の足をたおし、反対側に回転し、そして、私はガスのベッ
ドにつかまり、必死にすがりつきました。船は波の上まで高く持ち上げられ、そして下に落ちま
した。突然、それは波に乗ったように思えました。
 私は、ほかの波が来たとき悲鳴をあげました。それは真っ暗でした、そして私は何も見えませ
んでした、しかし風は私達のキャビンの中に雨を吹き込みました。私は何が起きていたのかを知
りませんでした。私はずぶぬれでしたが、大丈夫でした。私は、再びあえて動きませんでした。
今は、押し寄せる船酔いに巻き込まれました。私は夜が終わることを望んでいました。

 遂に、夜明けでした。船は急速にマヘに近づいていました。私は再びセイシェルに着きました。
 私には、本当に恐ろしかった旅行でした。

 注:JA1DM
 *デスロチェス島はマヘ島の西南西約250kmの所にあります。現在は、マヘ島から小型機で30
 分の距離ですから、もう、ペギーのような苦しみを味わうことはないようです。デスロチェス島
 も今ではダイバー達や観光客用のコテージが出来ているそうです。
 Des Roches島は、デスロチェスかデスロシャスかは調べましたが判りませんでした。
 Praslin島はプララン島と呼ぶようです。
 *ピローグは特に細長いカヌーのことで、アフリカの方で使われているそうです。

 私たちの友人(米国Trackingステーションの医師)が重症気管支炎用の薬を持って来てくれま
した。3日後、全く良くなり、私は、ゴードン将軍がエデンの園と呼んだ場所の、プララン島を
訪ねる計画をたてました。
 なぜゴードン将軍がエデンの園の場所と考えたのかを知るために、来週にはプララン島への小
旅行をしましょう。多分、それはこの島の珍しい果実のためなのでしょう。
(娘ジョアン)
 次の文は、過ぎ去った2月、毎週ますます言及されるようになった、母が父と一緒に旅行した
ことについての何かをはっきりさせるために、タイプしてDXers Magazineにのせることをママ
が望んだ一寸したノートです。

 4ヶ月間、ガスと一緒に旅行したことへの不満を言った友人達(きっと少数かも知れませんが)
に私は説明したいのです。
#1私の旅行はハムの予算は全く使っていませんでした。私の旅行費用は私の父の財産からでした。
#2私は、ガスを無線から離すことをはしませんでした、彼はバンドが開いていた間は無線をして
 いました。
#3私は、ログをつけることやそのほかのことでガスの手伝いをしました。私は、このことについ
 ても、私が先へ進むことができないときもいつでも、離れた場所に一人で居たことでも、全く
 不平を言いませんでした
#4彼がより長期間滞在すると決めたとき、そして私のお金がつきたとき、私は戻ってきました。
#5彼が2年間留守にしたときはいつでも、私が椅子に座って、ガスを行かせることで、決してど
 のような栄光も期待しなかったし、求めませんでした。
“ペギー有り難う、ガスがそのように長期間も出かけたのにあなたは素晴らしい協力をしました”
 と私に言った二人のハムが居ました。
#6今誰かが言っています、“もしガスがまた出かけるなら、ペギーを家に残して行きなさい”。
 私は、このことについてそれぞれの人の意見を知りたいと思います。あなたがた友人が、ガス
 と私にしてくれた全ての素晴らしいことに対して感謝します。
 私達二人は、非常に感謝しています。
(次はジョアンからです)
 まず最初に、この過去の旅行で、ママがパパと一緒に行ったことに関して、少数の人からの意
見にママは傷ついたと言いたいのです。ママが今述べたように、彼女の旅行の費用は私の祖父の
財産によって可能だったのです。私は、パパがママと一緒に居たかったのだと確信します。
 パパが留守の間じゅうずっと、ママは成し遂げたことを、私は知っています、そしてママはこ
こに残されていたのだと言うことを、私はあなた方に言いたい。自分達の夫を、そんなに長い間
留守にさせておくような少数の妻や母親が居るとは私は信じません。
 私は知っています、パパにとってママは役に立っていたのを知っています、そしてママは本当
に働くことができます。
 私は、パパと一緒に行くママに意見を言う少数の人たちが否定的な意味でないことは知ってい
ますが、しかしママは非常に純粋ですから、それは彼女を傷つけました。
 一寸立ち止まって考えてみて下さい。
 パパがこの10年間になんと多くの回数留守にしたか、それは、私がどのような女性を考える
かをあなたに示します、私の母はすばらしい人です。、
(私のパパも!!)皆さん有り難う!

post 24 092505 25-093005 2005.9.26 2005.10.5
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