W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その44)   アマチュア目次へ戻る

                                                        
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第23章 (1) 休暇から戻り、アフリカについて考える

 ペギーと私は、夏のバケーションから戻りました。物事は、再び私のDXers Magazineとともに動き始
めました。私は150フィートのタワーを建て、4エレメントのトライバンドクワッドのトップに上げるこ
とを始めました。私は、この仕事を寒くなる前に終わらせ、更に、時折バンドで聞こえる幾つかのDXの
パイルアップに私自身も加わることができるようにしようとしています。
 私は、近い内に40メーターのクワッドをあげるかもしれません、皆さん見ていて下さい。私は、踏みつ
ぶされるのに飽きています。私はオンエアーしたくて、トップレベルの人達の中に再び入りたいのです。

 先月のエピソードで、私は南アフリカのダーバンに行く途中でした。それは、途中ずっと順調な旅でし
た、列車での安い食べ物、そして列車の切符はとても妥当な料金でした。私は、ヨハネスブルグとダーバ
ンの間で沢山の南アフリカのことを見ました。
 途中ずっと、そこは非常にきれいな国で、私にはどこも裕福なように見えました。また、現地人達も豊
かなように見えました。
 それは、私が訪ねたところ、誰もとても豊かだとは見えなかった暗い大陸の他の地域とははるかに違っ
ていました。それでも、彼らは満足しているように見えませんでした。しかし、南アフリカとすべての住
民は非常に良く満足し、食料は十分だったと私には思えました。

 あなたは、これまでに、南アフリカを除いた全アフリカのハム局の合計と南アフリカのハム局数の合計
を比べたことがありますか?そして、さらにちょっと、その全人口を同じように比較してみて下さい。そ
して、幾つかの比較をしてみて下さい。それは非常に興味深い考察をすることができます。
 それから、南アフリカの舗装道路を合計し、残りの全大陸の合計を比較するのも面白いでしょう。それ
から、電話の数についてなどなど未だ続くでしょう。

 私は、ダーバンへ行く列車の中でそのようなことを考える沢山の時間がありました。また、私が持って
いる3個のサムソナイトのスーツケースに入っている無線機について考えました。それを私がそのような
国で持っていることを政府は知りません。私の無線機を持って国の外へは決して出さないようにと、私は
言われていました。
 DXpeditionにあって、これが私の心に浮かんだ問題でした。あとでその解決策が見つかりました、そ
して、私が出合った解決策はとてもユニークだったと言いましょう、同時に、それは私を含めて沢山の人
達を幸せにしました。あとで、何が起きたかを言うつもりです。

 列車が通り過ぎたすべての町、市、そして小さな村は現代的でした、街灯のある近代的な場所、着飾っ
た人達、どこにでも沢山の車などなど。

・ロイの独特なVFO

 それらの幾つかの場所には面白い名前がありました。幾つかは現地の名前で、その他はヨーロッパ風の
ひびきの名前でした;勿論、それらの幾つかはヨーロッパと現地の名前の組み合わせのようでした。

 列車は、ダーバンへ行く途中すべて静かで、絹のようにスムースでした。私はダーバンの列車の駅で、
ZS5QU、ZS5JY、ZS5JM、ロイ、オリバーとジョンの3名の有名なDXサーに会いました。
 いつものように、最初したことは私たちへのコークでした。南アフリカ連邦にはコークがありました、
しかし、私がそこを出発したときにはより少なくなりました!それは、南カロライナでのもののような味
でした。

 最初に私はロイのQTHを訪ね、彼の美しいXYLに会いました、そして、VFOをコントロールするの
が非常に大変なデモンストレーションを見ました。
 ロイは、豪華な6階建てアパートの一番上に住んでいました、(彼は銀行で働いていました)そして、非
常に古そうに見える中古の無線機を使っていました。それは水晶制御の送信機として作られていました。

 ロイは自作のVFOを組み立てました。(私はあえておおまかに「インストール」の語を使います)さて、
私は沢山のVFOを見たことがあります。私自身、私が思うに35か40のVFOを作りました。
 しかし、今日まで、私はロイが持っていたようなVFO以上に「もつれて」作られたもの、それは彼の
送信機の側面につり下げられ、更に、彼の送信機の側面が逆さになっていたのを見たことはありませんで
した。彼は、それがいつもそのように置かれていたと言いました。VFOは彼の送信機とVFOの電源から
のワイヤーだけで支持されていました。

 そして、それには同調用のコンデンサーはありませんでした。周波数を変えるには、小さなねじ回しで、
コアを廻しました、そして、ねじ回しがVFOのネジに触れたとき、周波数はおよそ43.7kCジャンプし
ました!更に、同調するあいだ、彼の手がVFOの近くに置かれたときそれは11.2kC変わりました。

 パイルアップの中で、次のチャンスのために、ロイがDX局と交信している誰かにゼロインしようとす
ることを想像できますか?彼はそれをすることができました。それをすることはとても難しいことです。
 受信機を、ゼロインしたい局より53.9kC(それは43.7 + 11.2 kC)
(注1)低く合わせることを意味し
ます。彼が使っていた受信機はそれ程よく校正されていませんでした。彼が誰かにゼロインするのを見る
ことはとても興味のあることでした。さて、私が言うことができるすべては、彼の方法では、正確には、
誰かの上に合わせることはできなかったと言うことです。

 ロイは、今は別の送信機を持っています。

ダーバン周辺の友人達を訪ねる 

 そのVFOは、ロス・ハル
(注2)を墓からよみがえらせ、T.O.M.(ベテラン・注3)を嘆かせるでしょ
う。その「もつれたもの」はARRLの博物館に置かれるべきです。それは、ARRL博物館で「そのよう
な古い」装置を見たことを私に思い出させます。
 興味がある一つの項目は、とくに新しい「店で買える」種類、送信機の横につり下げられた、ZS5QU
のVFOと1930年代のもつれた送信機を含むべきです。

 もつれた、「芸術」は、すぐ過ぎ去るかもしれなく、もしできれば、なくなってしまった古い昔の「もつ
れたもの」は私たちの前によみがえるべきです。皆さん、ニューイントンの博物館に「もつれた」送信機
はどうですか?
 それは、そこの殆どの訪問者にたいして興味を持つアイテムになり、主題について沢山論じられるだろ
うと私は確信しています。

 とにかく、その年、彼と一緒に沢山のQSOをしたあと、私はロイとパムの家に居ました。ロイは若く、
私がそこにいた時、年令はおよそ30才と思いました。彼は、若く見え、大学の卒業生のようで、洗練さ
れた素晴らしい友人でした。私がそこにいた時には、彼とパムには子供は居ませんでした。

 彼は非常に能率の良いアンテナを持っていました、自作のグランドプレーン、そして、それはもつれて
はいませんでした!
 その現代的で、最新の高級なアパートの中で、そのもつれた送信機とつり下げられたVFOの所に、ど
うしてパムがいるのか私には判りません。しかし、彼らは幸せなカップルで、彼らは非常に素晴らしい生
活をおくっていたように見えました。

 それから私たちは出発し、ジョンの運用場所(ZS5JM)に行きました、そこはダーバンの郊外のはずれ
にありました。実際、そこは海岸の近くで、市から5から10マイルのところでした。
 彼の両親は1年中そこに住んでいました、そして、ジョンとモリーン(彼のXYL)は、週日は市内に居
て、週末には泳ぎ、ボートに乗り、運用するためにそこに来ました。しかし、ジョンはDXをするために
そこに来たというのが私の強い意見です。

 彼が使っていたのは素晴らしい装置でした。それは、813を一本か二本(今私は忘れました)で、手回
しの3エレメントのビームでした。そのビームは、確実に、W/Kを熱狂させ、それらの幾つかをS9プラ
スにしました。
 私はジョンに言いました、私の装置を持ってきてセットし、そこのQTHからその3エレメントビーム
で一寸運用したいと言いました。

 ビームは、およそ50フィートの自作のタワーの上にありました。タワーは、殆ど、風車用のタワーの
ように見えました、それはステーなしの木製でした。

 コークをもう少し飲んで、ジョンの両親との素晴らしいアイボールQSOのあと、オリバー(ZS5JY)
と私は、ダーバンの海岸から30か40マイルほど離れた彼のQTHへ出発しました。オリバーはメルセデ
スベンツを持っていて、また彼はスピード狂でした!
 付け加えると、彼は車の警笛をひどく鳴らしました。それは、歩行者、動物、人力車達に注意しました。
(注1)計算では、54.9kCですが、原文のままにします。

(注2) Ross Hull ・Johnが調べてくれたところによると、彼はex VK3JUで、1930年代にVHF、UHF
    帯の開発者として、またモデルプレーンのR/C(無線操縦)の開発でも有名だった人だそうです。  
    参考資料・QST 1937年10月号p9に彼の記事があります。

(注3) T.O.M.・The Old Manの略語で、1920年代、30年代によく使われていたようです。
    参考資料・QST 1921年8月号p50、1936年4月号p73

101M060507  2007.6.7
第23章 (2) オリバーの砂糖園への旅行

 オリバーは、Ack-W4ECIの古くからの友人でした、そして、Ackは私がオリバーの所に着いたときに、
私を快く迎えるようにしてくれました。オリバーは、ルイジアナの砂糖専門学校の卒業生で、彼が米国で
学校に行っていたときや休日などにAckと多くの時間を過ごしました。それは、私がそこにいた時に、物
事をとても良くしてくれました。

 あなたが海外に行こうとしているときに、あなたが来ることを知らせて、もしできれば、あなたが着く
前に「全く好意的に」なれれば、それはいつも素晴らしいアイディアです。それから、あなたの旅行の途
中にそって、ドアが開かれ、あなたは友人と一緒にいて、沢山のホテル代も節約できます。
 付け加えれば、あなたはあちこちに行く旅行の費用を節約できます、もしあなたが、どのような期間で
も、どこかでも、こつこつやれるなら、それを沢山のお金にすることができます。

 それが可能なら、旅行する最良の方法で、いつも私が実際にしたことでした。あなたは、あなたのお金
をもっとはるかに使い伸ばすことができます。もし、あなたがいつもそのようにするなら、あなたは費用
の2/3を節約できると私は見積もるでしょう。
 もし、私が再び行くなら、私はあらかじめよく計画して、費用をギリギリまでカットして、基本の
DXpeditionの実際の費用にもっと沢山のお金を使わなければと思います。
(ボートのチャーター代、飛行機のチャーター代、旅行の費用、実際のDXpeditionの食料、ガソリン、
ポーターのチャーター代、そして、もし必要なら、あちこちで、ライセンスを貰うために必要がおきたら
少額の賄賂なども。)
 次の回に、もし次の回があれば、私は米国のもっとも近い空港から、私が行こうとしているDXスポッ
トに近い空港までの航空券を用意するつもりです。それから、私は列車、バス、人力車、ヒッチハイクな
どの方法であとを旅行するつもりです。
 それは、普通の方法よりずっと安いDXpeditionにするべきで、同時に、カントリーをより沢山みて、
現実的な人々に会うことができます。それは、そこに行く安くて素晴らしい方法です。

 さて、オリバーと私と大きなメルセデス・ベンツの話に戻りましょう。オリバーと一緒の、アクセルを
強く踏み込むハイスピードの旅で、私たちは20か30マイルかそこらを、非常に短時間で行きました。
 オリバーの家はサトウキビ農園にあり、それはとてつもなく広い面積をカバーしていました。私はそれ
がどのくらいの広さか本当に思いつかない程で、おおざっぱには、10,000エーカーほどでしょう、そして、
彼の家はそのまん中ほどにありました。
 それは非常に豪勢な家でした、いたるところに使用人が居て、そして、冷蔵庫には沢山のコークがあり
ました。

・W4BPDのためにオリバーは盛大なパーティーを開きました

 ガレージには、全く同じ2台のメルセデス・ベンツが置かれていました;一台は彼の奥さん、もう一台
はオリバーのです。

 オリバーは素晴らしいステーションを持っていました、コリンズSラインと更に30L-1、それを彼はビ
ームと呼びました!庭の片隅の、彼のプライベートのテニスコートは自作のすばらしいものでした、風車
の塔のような高いタワーのトップには5か6エレメントのビーム。オリバーがオペレーティングポジショ
ンから、二つのボタンでビームを調整できることを知りました。
 彼は20メーターバンドのどの所でもSWRを1:1まで下げることができました。二つの押しボタンは、
ガンマロッドか、なにかそのようなのに付いている、小さなコンデンサーを廻して同調する小さなモータ
ーを制御したと思います。とにかく、それは素晴らしい動作をしました。

 オリバーは、彼のステーションと彼の家を私に引き渡し、あなたがしたいときにオンエアーして、あな
たが望むだけ夜遅くまで居て、眠たいだけ遅くまで寝るようにと言いました。付け加えて、彼は、飲みた
くなったらコークを自由にとり、泳ぎたくなったらプールに飛び込むようにと言いました。
 さて、これは、デラックスなDXpeditionと呼ぶべきかもしれません、ZS5は長時間運用するほどのレ
アーではないことを除いては。

 私は幾つかの素晴らしいQSOをして、ガスワッチャーのため、私のいつもの周波数に合わせたとき一
寸したパイルアップがありました。

 私は、モーリシャスへの汽船をつかまえるためダーバンに行きました、そして私がそこに着いたとき、
汽船の到着と出発が3週間遅れていたことを知りました、そこで、私はその周辺すべてを訪ねる多くの時
間がありました。
 私は、沢山のZS5局を訪ねました、そして、いつものように、私がこれまで訪ねたすべての他の場所で
私が会った、DXサーと同じように、彼ら皆が非常に素晴らしいことを知りました。

 私は、一度もあきずに1年でも2年でもZS5JYの所に居ることができたでしょう。オリバーは、ある
晩私のために盛大な会合を開いてくれました。ダーバン周辺ぜんぶのZS5が現れました。非常に沢山の飲
み物、素晴らしい食事、泳ぎなどがありました。私の場合、私はそれ程ではありませんでした。それは、
K2HLBのQTHでのことを、私にちょっと思い出させました。

 彼らが、いろいろな飲み物を飲んでいた間、私はいつものようにコークダイエットに執着していました。
オリバーは素晴らしいホストでした、そして、集まりは・私が長く覚えているつもりの一つの非常にすば
らしいものでした。

 オリバーは砂糖工場を持っていました、すべてのサトウキビが絞られ、ジュースが煮詰められ、世界中
でもっとも良いような砂糖になります。(オリバーによれば)
 それは、最新の機械と方法が使われている非常に近代的な砂糖工場でした。オリバーは、サトウキビか
ら、砂糖の1%のその他の1/10を得るための方法を、彼らは常に探していると、そして、彼の生産高は、
南アフリカではもっとも良いと私に言いました。実際、それは世界一大きいものの一つでした。

 オリバーは、栽培を始めてから袋に詰めるまでの砂糖の仕事のすべてを知っています。

102M061007  2007.6.13
第23章 (3) 人力車と蛇   

 私の意見は、オリバーが、彼の仕事の殆どその最先端を行っていると言うでしょう。彼はとても裕福で
す。彼は、ズールー族の労働者とやっていく方法も知っています。そこで、同じ仕事をしてい
る人達に支払われて賃金と比べたとき、彼らは良い賃金を支払われていると私は理解します。
 付け加えて、彼らは良い服装をしています、いつも笑顔でとても幸せそうに見えました。オリバーのサ
トウキビ農園では彼らは良く扱われていることに非常に満足していると私は思います;そして、彼の砂糖
工場の労働者も同じです。

 オリバーが仕事で忙しいとき、私をあちこちに連れていく沢山のZS5の仲間達が近くにいました。ダー
バンで、非常にカラフルな衣装を着て仕事をするズールー族の人力車の少年達を観察することに多くの時
間を費やしました。彼らは非常に背が高く、たくましい人達で、彼らの人力車にお客を乗せたときに決し
て疲れたようには見えませんでした。
 彼らは、交通激しいまさにその中をかき分けながら、彼らの人力車の2本のハンドルを離すことさえも
しませんでした。付け加えれば、彼らは前進するのと同じように、バックすることもできるように見えま
した。彼ら二人が、お互いに並行して来たときには、交通がひどく混んでいてさえも、いつでもお互いに
競争をしたでしょう。
 彼らの顔にはいつも大きな笑顔がありました。それらダーバンの人力車の仲間達は、私が今までに見た
ことがある中ではもっとも満足している人達でした。

 私たちは博物館、動物園、そして、世界でもっとも毒の強い蛇が見られる蛇のハウスを訪ねました。も
し、私にスペースがあれば、私がどのようにしてそれらの一つを拾い上げ、私の首の回りに巻き付け、「蛇
使い」を驚かせたことをお話ししたいと思います。(これらの蛇は、歯を抜かれて、そして、誰も噛めない
ことを、私は知っていました。なぜなら、もし、蛇の口に歯があったら、蛇使いの人がしたような扱いを、
彼や彼女の誰にも許されなかったでしょう。)

 蛇使いは、この蛇がいかに致命的かの一寸した説明を少数の聴衆に言いながら、歩を進めて、群衆に誰
かボランティアを求めました。私は、前に進み言いました「蛇を持たせて下さい」それから私は蛇を私の
首に巻き付けかけました!群衆は、私はとても勇気があると、びっくり仰天しました。
 蛇使いは、驚きました!しかし、知っているでしょう、それはお笑いです、ハ、ハ。

 彼らは、私が思うに長さが30フィートの蛇をそこに持っていました。さて、南カロライナのガラガラ
蛇、あるいは私が聞いたことがある、アメリカまむしガラガラヘビの口と比べた時、それは大きな蛇でし
た。(実際、南カロライナには少なくとも三種類の毒蛇がいます;ひし紋ガラガラ蛇、沼毒蛇、アメリカま
むし。後の2種類は水辺に居ます。John)
 それらは、普通 conilla 
(注1)色の蛇です。あなた方の誰かはConilla色を知らないかも知れません。
それは、renilla 色と bonilla色の中間の色と思います。それら conilla色の蛇は、非常に独特の色です。

南アフリカのダーバンは住み良い場所です  

 南アフリカのダーバンの周辺には、沢山の見るところや楽しい時間がありました。そこは、一年中快適
な気温の海辺の街です。オレンジと柑橘類が良く育つところですが、私にはサトウキビがもっとも多く植
えられているように見えました。このダーバンは、とても繁栄している街で、大きな港の仕事と、皆がビ
ーチに群がる夏には沢山の動きがあります。
 もっとも、時に、彼らは小さな鮫の問題もあると彼らは私に言いました。多分、鮫が意地悪なムードの
時に、そこここで足がちぎられたのでしょう。しかし、全部ダーバンは住み良いところです。

 私は、何回もZS5QUを訪ねました、ある変わった理由で、そのVFOはいつも私の目を引きつけるよ
うに思えました。また、私は、何日もZS5JMのビームのある海辺の所のQTHで運用して過ごしました。
米国へのロングパスのオープンはとても素晴らしく、バンドはS9+の信号で一杯でした。ZS5JMは素晴
らしいビームと本当にすてきなQTHを持っていました。

 私がW4BPDに戻ったとき、私にとってZSはただZSでした。私はZSが聞こえてきたとき、それに
特別な注意を払いませんでした。
 しかし、私が南アフリカに居たとき、南アフリカのいろいろな場所で、バンドが開いて、閉じる時間に
大きな違いのあることを私は知りました。それらは、ここ米国での東海岸、北部、何部の局となにか比べ
られると私は思います。
 ZS5とZS1、そして、ZS2とZS6の間はかなりの距離です。ZSが聞こえてきたとき、あなたは自分で
これをワッチできるでしょう。

 遂に、出発の時間が近くなりました、それから、税関が知らないままに私が持ち込んだ、無線機を国の
外へ持ち出す問題がありました。どのようにして、私がその問題を克服したかを言わせて下さい。
 また、誰かがヨハネスブルグで、ダイアモンドを国外へ密輸したハプニングについて、私が聞いた話し
をしたいと思います。それから、私がキンバリーに居たとき、私自身がダイアモンドについて殆ど紛糾し
た私のストーリーがあります。
 これらの三つのストーリーはとても長く、このエピソードのスペースがもうなくなったと気がつきまし
た。私は、これらの三つの違ったハプニングについて、次の章でお話しするつもりです。

 それに、私がオリバーの所に居たとき、どうして、私がズールー族によって大きなポットで料理されよ
うとしたのかお話しするつもりです。
 これらの四つのストーリーと、モーリシャスへ向かいZSを離れることは来月です。それから、レユニ
オン島、マダガスカル、モザンビク海峡の島々など、それはインド洋の宝石です。

(注1) conilla 色とは、Johnによると黄色の種類だろうとのことです。
    renilla 色と bonilla色 については、調べましたが、どのような色か見つけることはできませんでした。
103M061507 2007.6.16
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