W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その45)   
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・お知らせ

 このGus Browning, W4BPDのDXpedition手記(Manuscript)は、今回の第24章が最後になります。
 
 ガスは第31章まで書いたのですが、ご家族の手元には第24章までの原稿しか残されていないよう
です。従って、この第24章でこのシリーズは終わります。
 
 ガスは、このあと、DXCCブランドニューになったFR/G、FR/J、FR/Tから史上初の運用をしたので、
その旅行記を読めると私は楽しみにしていたのですが残念です。

 私は、ブーベ島からの運用(第20章、21章)が圧巻だったと感じましたが、皆様は如何でしたか?
第24章 (1) オリバーの所で大パーティー  

 先月のエピソードの最後には、私がZS5JY(オリバーとエフィー)の家に居ました、そして、彼らの豪
華な家にいた間、私は本当に愉快な生活を送っていました。オリバーは南アフリカスタイルの「ハムフェ
スト」を開きました、皆一緒でオリバー家の裏庭にあるFBなプールで泳ぎ、食事をして、それからまた
プールに戻ります。

 最後に、日没後一寸してから広い食堂にディナーが出されました。それから、仲間達とハムシャックで
更に「アイボールQSO」が開かれました、コーヒー、コーク、ティー、そして、なにか名前を言えば、
それがすぐにそこに出されます。沢山の写真が写されました。そのあと、オンエアーで幾つかのFBなQSO
をして、マイクに向かいしゃべりました。

 それから、オリバーは寝室に行き、無線局を私にあけ渡しました;私はオンエアーして、米国の仲間達
からの一寸したパイルアップを受けて、私が次にどこに行こうとしているのか、それはいつかなどを皆が
知りたがりました。私は、近日中にVQ8に行くでしょう、それからそのあたりのどこかに行きたいと思
っているとすべてのことを言いました。
 私は全てのDXpeditionがこのようにして欲しいと思います、なぜなら、それは仲間達が必要とするあ
るどこかのカントリーの「準備をする」チャンスを与えます、そしてあなたがそこに行ったとき、彼らは
「バンドに出られる」でしょう。幾つかのDXpeditionが持っている秘密主義は、私には全く決して理解
できないものです。

 私はその夜午前3時頃に寝ました。私は、ベッドに入り、寝ぼけていて翌朝の9時頃(それは日曜日で
した)突然、オリバーが部屋に走り込んできて、私に見て欲しいことが裏庭で始まっていると、洋服を身
につけるように言いながら私を揺り起こしました。
 私はベッドから飛び出して、できるだけ早く洋服を着ました、そしてオリバーはキッチンのドアの側に
居ました。彼はそこから私に言いました、「あれを一寸見て」私は窓に走りました、そして、外の裏庭の向
こう側に私がこれまで見た中ではもっとも驚く光景がありました。

 そこには100名ほどのズールー族がドラムを鳴らしながら、輪になって踊っていて、槍が飛び、それぞ
れが豹の皮で作った楯を持っていました。彼らは豹の皮をその肩に掛けるようにして、豹の皮の帽子を被
っていました。彼らは、皆、化粧をしていてその顔は非常に意地悪そうに見えました。
 オリバーは言いました、「ガス、あなたのカメラを掴んで、外へ出てあの人達を撮ろう」

 私はカメラをとるために部屋に向かい、そして、彼は彼のカメラをとるために自分の部屋に向かいまし
た。私たちは、裏口のドアで会い、写真を撮るために外に向かいました。それらのズールー族は「意地悪
そう」なふうに、私を見ました。(それは、彼らが私をどのように見たかです、ともかく)

食人のためにガスが料理されようとした  

 オリバーが言いました「近くに行って、クローズアップで撮ろう」;米国にいる仲間達は、これらの人達
の顔の表情を見たがるでしょう。私たち二人はズールー族の人達のまん中に向かいました、突然、彼らの
5人ほどが私を「捕らえ」ました。
 オリバーに「私を離せ」と言うように頼みながら私は悲鳴を上げました。(多分印刷できないような言葉
で)

 オリバーは言いました、「心配しないでガス、その人達を興奮させないように」私は言いました「お巡り
さんを呼んで」彼は言いました「いやいや、そうしたら彼らを逆上させます」それから、最近、ズールー
族は非常に意地悪に、強情に行動していたと彼は思って、このようなことを招くのではないか、それが「私
に起こった!」のは本当に残念だと言いました。
 私に起こったことを、彼はAck-W4ECIに説明して知らせると言いました。彼は付け加えました「とに
かく、彼らがやり終えたら、送り返す骨の他には何もなくなるでしょう」それから、私の骨を家に送りた
いかと、彼は聞きました!

 さて、控えめに言いましょう、私は「怯えていました」それは私にとって良くないことでした。それか
ら、私の妻に送るために記念のために撮った写真を、オリバーは送ることを約束しました。
 私は思いました、「本当に、いよいよその時がやってきた」しかし、私が「そのようになる」だろうとは
決して思わなかったと、私は皆さんに言います。
 沈みそうな船・航空機の事故・蛇に噛まれた・どこかの山からの転落・病気、しかし、アフリカの人食
い人種によって食べられて、この世からは決して去らないと!

 それらの人達によって捕まえられて、まわりで踊られて、同時に幾つかの槍が私の方に飛び交う時に、
そのようなことが、フラッシュのように心をよぎるのは不思議です。そのようなことが15分も続いたあ
とで、その間中オリバーは写真を撮り続け、私は、ズールー族の4人が、私たちのいるフィールドのバッ
クサイドを横切り、大鍋!を持って来るのを見ました。
 それは、直径3か4フィート、深さが3か4フィートの黒い大きな鍋でした。彼らは私の方にやってき
ました。

 それは、「彼ら」を狂乱に陥れました、彼らはダンスをして、槍を投げるなど興奮の度を早めました。鍋
は私の近くに置かれました。彼らは5人ほどで、私を掴み、文字通り私は鍋の中に頭だけ出して詰め込ま
れました。
 さて、その時点で、オリバーは大きなコークを私にくれて、「ガス、これを飲みなさい、そして、あなた
は、それで味を添えるのが良いでしょう!」と言いました。私は、オリバーに嘆願しました、この鍋から
出して欲しい、そして、「お巡りさん」を呼んでと。彼は言いました、「それにはもう遅すぎます」

 私は縛られていなかったので、彼らは、私を鍋の中に押さえておかなければなりませんでした。彼らの
一人が、一抱えの新聞と薪を持ち出しました、そして、それら全部を鍋の下に置いて点火しました!煙と
火が、鍋をすぐに熱くしました。
 彼らは、それから、私を押さえているのを少し緩めました、私はその鍋から飛び出し、全速力でオリバ
ーの裏口のドアに向かいました。それらズールー族は、最大の声で叫びながら、私の方に槍を投げながら
私のあとに続きました。
この写真の出典は、W4KVXが発行していた「DXMagazine誌」1963年
3月2日号の表紙に使われた写真です。


ガスは、ダーバン・タイムスのトップページを飾りました  

 私は喜んで言いますが、彼らの誰もがそのターゲットを逃しました、それでなければ、私はここコルド
バでエピソードを書けなかったでしょう。

 数分後に、オリバーが微笑を一杯浮かべて、ゆっくりキッチンに来て、ズールー族の歓迎はお気にいり
ましたかと私に尋ねました。次に、高価そうなカメラを持った、あらかじめ知らされていなかった人達数
名がやってきました、そして、オリバーに言いました「私たちは、何枚かの素晴らしいスナップショット
を撮りました、オリバーさん」。
 それから、その中の一人が、明日のダーバン・タイムスの見出しを必ず見てくれるようにと私に言いま
した。彼らはズールー族に料理されようとしたアメリカ人の「本当のような」写真を撮る機会を作ってく
れたことに、オリバーに感謝して去りました。

 私は、オリバーにこれは一体どうしたのですかと尋ねました。彼ら、野蛮なズールー族は、彼のサトウ
キビを刈る人達とそのズールーバンドで、時々、お祝いなどで、地元の祝賀を演技しているのだと言いま
した。
 さらに、彼らは南アフリカの中で、このようなことをする最高の人達で、そのような「パーティー」で
沢山の賞を取ったと私に言いました。
 即ち、これは「冗談でした」;疑わない訪問者、なるべくならアメリカ人におこなう、オリバータイプの
ジョークの典型的な一つだと私は思います。

 私にとって、その時、それは非常に楽しかったと言えます。実際に翌朝、彼らが私を鍋に入れた私の写
真が第1面にありました。新聞は、「ズールー族がアメリカ人をほとんど捕まえました」
 それは、第1面の素晴らしい記事で、その次の中のページに続き、更に2枚の写真と記事が続きました。
さあ、私は南アフリカのダーバンで第1面を飾りしまた。

 近い内に、オリバーが訪ねてきて欲しいと思っています、そして、彼を南カロライナの「シギ狩り」
(注1)
に連れて行くつもりです、そして、彼に「バッグを持たせる」ことが本当に素晴らしいことになるでしょう。
 オリバー来て下さい。「私のテリトリー」であなたに会いたいと思います。

 私が、モーリシャスとインド洋の島々に行くための時間が近づいていました。しかし、その時、どのよ
うにして、許可書なしに私が持ち込んだ私の無線機を南アフリカから持ち出したかをあなたに言うと約束
しました。
 私が、南アフリカを旅行していた時、私の持っている無線機に惚れ込み、それを私から買いたいと言う
あるアマチュアに会いました。そこで、私のすばしこい脳は一寸計算しました。彼のために、私が持って
いるのと全く同じ新しい無線機を入手し、彼のために税金を節約し、それを卸値で入手するつもりで、そ
の結果一層節約できると彼に言いました。
 しかし、それを入手するために、彼は航空運賃代を払わなければならないでしょう。彼は、同意して、
私にお金を呉れました。私は、そこの銀行の一つに行って、お金を米国ドルに交換しました、…

(注1) シギ狩り(snipe hunt)は、1930年代頃、南カロライナの子供達の間ではやっていた遊びの一種だそうです。「シギ」
     と言うのは架空のもの(鳥)で、それを捕まえるためと言って、年長の子供が年少の子供達をかまった遊びだそうです。
104M062007   2007.6.21
第24章 (2)無線機の所有者問題は解決

 私は、そこの銀行の一つに行き何の質問も受けないでお金を米国ドルに交換しました。私は、私の米国
パスポートを見せなければならなかっただけで、それで彼らは私が米国人だと知りました。
 それから、ヨハネスブルグ空港の私宛に無線機を航空貨物で送るようにと告げた電報がAck (W4ECI)
に送られました。
 長い時間待っても(およそ8日間)無線機は到着しませんでした。それから、沢山の電報と20メータ
ーでのAckとのQSOのあと、私が思うに、PAAかTWAの社長とAckが連絡したあとで、無線機はな
にか判らない理由で下ろされてしまったガーナのアクラ空港で見つかりました。
 それが下ろされた理由について私の個人的な見解は、それが南アフリカと行き先が書かれたことでした。
もし、その追跡に高官が関わらなかったなら、それはいまでもガーナ空港に置かれていたと私は予測しま
す。

 彼らは、南アフリカに来る品物では、そのようなことは非常にひんぱんに起こると私に言いました。そ
して、およそ12日後に、無線機はヨハネスブルグに着きました。私は、税関に行き、彼らと一寸押し問
答をしたり、説明してから、私は手続きをしなければならず(彼らは、私が出発するまでそれを預かりた
がっていました)彼らはそれを私に持たせました。
 今回、その無線機を南アフリカに持ち込んだ証明の受け取りを所持することに、私は非常に注意深かっ
たです。

 あとで、それらの、張りつけられた製造番号が書かれた小さなラベを注意深くはがし、私自身の無線機
に貼り、新しい無線機はZSの仲間に渡されました。彼はとても幸せで、そして、私もそうでした、私は、
私の無線機を国外に持ち出すために必要な書類がありました。それは素晴らしかった!
 しかし、これらのQRXは、ダーバンからモーリシャスへ行く船に私が乗るのを遅らせました。これが、
なぜ、私がそのように長くZS5JY(オリバー)の所に居て楽しくやったかです。

 ダイアモンドカントリー、キンバリーを訪問したときに、私にはもう一つの「ハプニング」がありまし
た。私とあるZSの仲間(彼の父はダイアモンドの買い付け人で、彼はダイアモンドに詳しかった)に、
見かけの悪そうな人が、路上で価格の1/10の値段で、幾つかのダイアモンドを買わないかと私に聞きまし
た。
 私は「騙されやすい」のが好きで、私は「それを見せて下さい」と言いました。彼は「私についてきな
さい」と言いました。

 私たちは、小さな横町まで幾つかのコーナーをぶらついて、私たちは、まるでお互いに訪問した古い友
人のように小さなベンチに腰掛けました。
 彼は、小さな紙切れをポケットから取り出し、注意深くそれを広げ、それからその広げた紙を私の手に
置きました、そして言いました「これらは、どうですか?」
 さて、私の目玉は飛び出すようでした。私の手には、かなりの大きさのダイアモンドの財産がありまし
た。私は、その品物を私と一緒だったZSの仲間に渡して(良く知っているZSの)そして、それらは間
違いなく本物のダイアモンドかと彼に尋ねました。
 彼はそれらを注意深く見て言いました「そうです、ガス、これらは本物の宝石で、カットもまた素晴ら
しいです」彼は、それらを私に戻しました、そして、これらを注意深く見てから、私は「ペギー」の指に
一番大きいのがあるのを想像して、彼に即座にいくらですか?と尋ねました。彼は、米ドルで1,000ドル
ですと言いました。

・ペギーの指にダイアモンドの指輪はありません  

 ダイアモンドに詳しくない人でも、そして、ダイアモンドについて何でも知っているふりをしなくても、
これが本物の「掘り出し物」だと私は判りました。私が思い出せる限りで、およそ5カラットのが2個か
3個、2から3カラットのが4個か5個、1カラットのが6個か7個ありました。

 私は、ZSの友人に、これは良い掘り出し物かと尋ねました。彼は「ガス、これについてはあとで話し
ましょう」と言いました、それから、私はその日の午後4時に、同じ場所で、それらのダイアモンドとそ
の仲間と会うと「時間」を決めました。
 私たちは出発しました、その時ZSの友人は、売り手が私に言ったそれらの値段は、本当に掘り出し物
ですが、それらのダイアモンドには触れないようにと私に言いました。
 彼は、その連中は、多分私を税関に密告するでしょう、それから、私は本当に面倒なことになり、多分、
監獄で終わり、お金とダイアモンドの両方とも失うでしょうと言いました。

 言うまでもなく、私たちはその日の午後ダイアモンドとその仲間には会いませんでした。私は、その取
引に「怖じ気づいて」、きっと、私は沢山の問題を避けました。ZSでの、ダイアモンドの密輸は、大きな
仕事に違いないでしょう。

 私がそこにいたとき、そこの新聞で読んだ一寸した話はこのようなことでした;ある男が、(彼の名前を
言って)翌日、大量のダイアモンドを密輸しようとしていると言う電話をヨハネスブルグの空港の税関の
職員が受けました。彼の説明と、フライト便名さえも与えられました。フライトは翌日の現地時間10:30
の出発でした。

 彼らは、男の足のギブスの中にダイアモンドがあるでしょう、そして全く足は本当には折れていません
と知らされました。
 翌朝、実際に、電話で知らされたような男が、彼の足にギブスをつけて車椅子で到着しました。彼が、
税関を通った時、税関職員達はそこに持っていた小さな部屋へ彼を引っ張りました、それから、彼らは手
荒に彼の足からギブスを切りかけました。
 職員達は、彼が何をしようとしているかを知っていると言っていました。男は、職員達が、彼の折れた
足を傷つけている、そして、職員達が何を言っているのか判らないと、男は文句を言っていました。

 遂にギブスが外されたあと、職員達はその中を見て、ダイアモンドも何もないことを知りました。それ
から、彼らは足のX線を撮らせました、実際に足は折れていました。
 税関職員達は、その無知と荒っぽさを謝り、彼らが受けた電話に関して説明し、職員達は、単に彼らの
義務を果たしただけだと言いました。
 男は、それを素直に受け、それはOKです判ったと言いました。

 職員達は、男を連れて病院に戻り、彼らの費用で新しいギブスをつけました。彼らは、翌日のフライト
の予約さえも取りました。
 翌日、その患者はそこに来て、そよ風のように税関を通りました。全く、何の問題もありませんでした。
 およそ7日間のうちに、非常に大量のダイアモンドがアムステルダムに現れました、それは、、彼がヨハ
ネスブルグを出発したとき、その男が足のギブスで運んだものでした。

・モーリシャスへのんびり旅行  

 それらは、ヨハネスブルグと、アムステルダムの両方で、ある探偵の仕事のあとで立証されました。そ
れらのダイアモンド密輸業者は、その商売においてどのようなトリックもできると、私は言えるでしょう。
 しかし、南アフリカの税関も、また抜け目はありません。それを読んだあとで、彼らは、私よりかしこ
いから、税関を通るのはダイアモンドなしにしようと決めました。

 無線機を持って税関を通るのは、私が思いきってやった限りではまずまずでした。全部のZS5の仲間の
歓迎と歓待への感謝の最後のダーバン周辺のドライブ、それから、私はドックに行きました。
 私は、ドイツの気船でモーリシャスへ出発しました。モーリシャスの次の船のストップは、シンガポー
ル、香港、そして日本の横浜のようでした。それから、船は同じルートでブレーメンでした。

 これまでに私が乗った、あるいはその後の気船での旅では、この船の食事とサービスが最高でした。私
は船尾楼甲板にある無線室を訪ねました、しかし、無線通信士はドイツ語だけ、それに非常に貧弱な英語
しか話さないことを知りました。
 私はVQ8へ行く途中の間、私の無線機をセットアップして、/MMを少し運用させて欲しいと彼に尋ね
ようとしました。しかし、お互いに理解できないのでは、その努力は意味がないと私は決めました。

 私は、一日中日向で眠り、大抵殆ど寝ていて、バーに居てコークを飲み、ただおしゃべりしていました。
私は休息していたので、島に着いたとき良い調子でした。
 旅行をするのに、もし急がないなら、あるいは飛行機の切符が全部売り切れていたら、私がその時そこ
でしていた様に、大洋航行の船の長い旅はベストの方法です。

 船は、マダガスカルを南に見て通り過ぎ、それからレユニオン島の北を通りました。(船がどうしてそう
したか、私に聞かないで下さい)
 それから、船はモーリシャスのポートルイスに停まりました、そこでは僅かおよそ12名が降りました。
友人のVQ8AI、ラウルがドックで私に会いました、下宿屋を経営しているレニーの兄弟(VQ8BI)
(注1)
と一緒でした;それは、私がモーリシャスに居るときに滞在するために無線でアレンジを頼んでいた所で
した。

 私の全部の無線機は車から下ろされて、アンテナが立てられ、私はVQ8BIでオンエアーしました。毎
回、大きなパイルアップがあり、次はどこなどなど、いつものように皆が知りたがりました。
 私は、その時、彼らに正確な情報を与えられませんでした、なぜなら、私はライセンス当局を訪ねて、
ライセンスを確実にするために私のベストをつくそうとしたかったので。
(注1) ガスの原稿では、VQ8BBと書いてあるそうですが、当時のレポートとコールブックを参照して、
    この局はVQ8BIであると考えています。
105M062507  2007.6.25
第24章 (3) モーリシャスでのDXingは断られました

 なぜ、彼らが私に対してライセンスを発行しないか、私は様々な理由を聞きました。
一つの理由は;
 あるVQ8の局が「非・英国国民」にライセンスを発行したことについて反対しました、申請書に非常に
明確に「英国国民にのみ発行されること」とあります。

 私は、短期間の臨時のライセンスを私に発行することについて反対しないと言う請願書を書くことを決
め、島にいるすべてのVQ8ハムから署名を貰うことを試みました。島には多分4人か5人のライセン
スされたハムが居ると私は思っていましたが、およそ28名が居るとすぐに判りました。
 さて、ライセンス発行者を探す前に、フランスの車で彼とラウルも一緒にその請願書に署名を貰うため、
私たちはすべてのハムを訪ね廻ることを始めました。

 私は、反対が出される前にそれを打ち負かしたかったのです。そうだ、フランスはVQ8AMです。ラウル
とともに、島全体で、あるいはその時点で、彼らはもっとも良く知られた二人のハムであると私は言いま
す。
 私が話したフランスはモーリシャスから去りました、それに、私が宿泊していた所の仲間(VQ8BI)もまた、
つい最近去ったのを私は知りました。
  私が1964年にQSOしたフランスのQSLで、1965年2月には
  VQ8AMR (今の3B9)からQRVしました


 島は、彼らの生計を立てる方法として殆ど100%砂糖に頼っています;そして、「豊年」の時でさえ、そ
れはきわどい取引であるため、私はそれを非難しません。1年間、十分な雨が降らなかったら、予期しな
い結果、事態は非常に悪くなります。私は思います、彼らは、非常にしばしば干ばつの年があることを知
っていて、そこを去ることは島に居ないために良い時です。

 島はおおよそ35マイル平方で、私がそこにいた時は次のような人口の割合でした。
   インド人(VU2) 500,000
   混血(アフリカ、アラブ、インドネシア、その他) 90,000
   白色人種(ヨーロッパ人と呼ばれる)10,000
 これらの数字で、ヨーロッパ系はその他の人口よりずっと少数で、それらのうちのほんのわずかが公務員、
警官、政府の職員達だと知ることができます。時にはこれが彼らを軽んじる場合があります。私は思うに、
これらのことが島を去った人達となにか関係があったと推測できるでしょう。

 島に居るすべてのハムを見つけることはかなり大変な仕事だと判りました、特に、彼らの大部分が電話
を持っていなかったので。私たちは、彼らの家を見つけることはOKでした、しかし、彼らは家に居ませんで
した。彼らは島の反対側のどこかで働いていました。
 それから、私たちは反対側までドライブし、彼らがたった今、どこかへ行ったことだけなどを知りました。

 そこでの、およそ7日間、一人ずつ尋ね歩いたあと、最終的に、彼らすべての名前とコールサインを請
願書に貰いました。私は一つのことを言います。島の端から端まで、あらゆる方向の交差点、そして、
沢山のヒンズー教会を私は見ました。沢山の教会は、島にどれほど多くのインド人が住んでいるかという
的確な証拠でした。

 私は、また、非常に沢山のマングースがサトウキビ農場に住んでいることを知りました。私たちが島を
横断する旅の時、毎日7日間、それらの多くがあちこちの道路を横断していたのを見ました。

106M063007 2007.6.25
 
 ・モーリシャスを中心に運用するライセンスは拒否されました

 私は、ラウル(VQ8AI)、フランス(VQ8AM)と非常に良く判り合いました。私たちは、まるまる7日間、
至るところにドライブしたので、そのことについて話す時間が沢山ありました。彼ら二人は、とても信頼
でき、非常に誠実な素晴らしい友人でした、
 ラウルは、ある政府の仕事をリタイアしていて、フランスはある砂糖工場かそのような所で働いていま
した。
 フランスは、彼の車で私とドライブするためにまるまる一週間休みました。

 最近、私がこれを書いているとき、非・英国国民ハムへの許可は緩められたように思えます。

 請願書に島のすべてのハムによる署名を貰ったあと、ラウルと私は、翌日の朝早く、ラウルの住んでい
るバコアス(Vacoas)から、ライセンス担当者の所にバスで行きました。ライセンス当局はかなり大きい
街であるポートルイスにあります。
 私は、事務所に歩き、ラウルが私を紹介してくれました、そして、私は彼らから用件を聞かれました。

 私がライセンスなしでチャゴス諸島から運用したために、私は即座に逮捕されるだろうとジョージ
(5Z4AQ)から言われていました。私がモーリシャスにいた時、そのことについて、全く、決して聞かれま
せんでした。
 ジョージは、その情報をセイシェルの人から聞いたと私は思います、なぜなら、それはたしかにモーリ
シャスから来たようには思えなかったのです。もし、そうだったなら、私がそこにいた間、私にはそのこ
とについて決して言われませんでした。

 私は、デスクの向こうに座っている人に、モーリシャスと彼らの管轄するすべての島々から運用するラ
イセンスが欲しいと言いました。それから、私は、島のすべてのハムが署名した私の請願書を示しました。
それは彼に関心があるように思えました、しかし、それから、彼は「ブラウニングさん、私はあなたに、
ここに持っているものを見せたいと思います」と言いました。
 それから、彼は引き出しの中を見て、電報を取り出し、それを私に渡しました。

 それは、私がここに着いた数ヶ月前の日付でした(私がセイシェルか、あるいは、私がセイシェルから
チャゴスに行く途中の頃)
 私は、電報の正確な言葉づかいは忘れましたが、私が思い出せるかぎり、実質的な言葉で「どの非・英
国国民にもアマチュア無線ライセンスは発行しない」とそれは言っていました。
 デスクの後ろのその人は、それについては非常に残念に思う、もし、それが彼の権限の範囲なら彼は間
違いなく私にライセンスを発行したでしょうと言いました

 数日のうちに、ロドリゲス島に行く船が出発します。
 それは、本当に傷つきました、なぜなら、私はその時ロドリゲス島がどれほど求められているか知って
いました。誰かが、本当に、それについて私に汚い手を使いました、そして私はそれが誰であったか知っ
ていると思います。
 私は、彼らは、それら小さなレアースポットを自分たちのために取っておきたかった、しかし、なにか
の理由で彼らはそこに行けなくて、彼らの遅い、のろまな運用をするとき、その島を必要とする世界中の
沢山のDXサーが未だ残ると思います。
 ともかく、私は、ポートルイスのライセンス担当者からライセンスを貰えませんでした。島の誰が「非・
英国国民」についての決定を「くつがえすことが出来るか」を私は彼に尋ねました。
 彼は、もし、植民地の長官がしたいと思うなら出来るでしょうと言いました。彼は、私が望んだことを、
与えてくれませんでしたが、私は彼のサービスについて感謝しました。

・モーリシャスからレユニオン島へ飛行機で去りました

 私たちは、植民地の長官の事務所へ出発しました。植民地の長官の事務所は私たちの知事とほぼ同じよ
うだと思います。植民地の長官の事務所は非常に高級だったと言わなければなりません。
 入口には、軍人のガードマンが居ました、彼らは私に、誰に会いたいかと尋ねました。私は言いました
「植民地の長官」
 私が言ったとき、驚きで彼の眉が上がりました。しかし、彼らは、ブランクのあるなにかこのように書
かれた「面会の要望」の書類を渡し、私はブランクを埋めるように言われ、それを彼の秘書の一人に渡し
ました。

 面会の申請書に「何時?」と質問がありました。私は「すぐ」の様に書きました。数時間待たされてか
ら、私は非常に高級な事務所に案内されました、大きなマホガニーのデスクの後ろに、植民地の長官、彼
自身が座っていました。
 長官は非常に威厳のある人で、強い英語のアクセントで、クイーンズイングリッシュ、あるいは、それ
はオックスフォードのアクセントかなにか!で話しました。

 私は、無線の伝搬の研究、太陽黒点の周期などについてちょっと言いながら、私がモーリシャスに来た
理由を彼に話しました。
 それから、彼は秘書の一人にあるファイルを渡すように言いました。彼は、無線ライセンスの担当者が
私に見せた、同じ言葉の電報を引っぱり出し、彼の行動は封じられているなどによってロンドンの指示を
くつがえすことは出来ないと言いました。
 彼は、それについては残念で、それが、私に何も不都合を起こさないこと、私のモーリシャスの訪問が
非常に楽しいものであるように希望し、そして言いました「さようなら、ブラウニングさん」
 言い換えれば、これで終わりです。私による、これらのレアーな島々へのDXpeditionは全くないでし
ょう。

 ラウルと私が植民地の長官の事務所を出たとき、私は一番近い航空会社の事務所へ連れていくように、
ラウルに頼みました。それは一つしかなく、私たちの所から近くでした。
 私は、入っていって、レユニオン島に行く最初のフライトを予約したいと言いました。それは、翌朝、
現地時間の午前11:00時でした。
 私は、私が泊まっている、VQ8BIのQTHへ戻りました。すぐに、私はレユニオン島からオンエアーす
るだろうとのニュースを言いながら、オンエアーしました。
 それから、私がそこの下宿屋に泊まった、10日間ほどの私の部屋と下宿の請求書について、私はラウル
の息子に尋ねました。
 彼は言いました「ありません」と、彼と彼の父親の友人へは、彼は何も請求しませんでした。

 私は考えました、たしかに、請求はあるに違いない、なぜなら、もし私が「ゲスト」だったと思ったら
間違いなく頼まなかっただろうサービスをなにか頼んだりして、「お金を払う下宿人」の様に私は行動しま
した。
 私は、彼と彼の父親、彼の奥さんに感謝して、私の全部の無線機を持って、空港へ行きました。

 いつものように、、「無料の手荷物」の航空旅行バッグで私の両腕は一杯でした、しかし、パタパタと無
線機の残りの全部に44ポンドの超過手荷物料金を払わねばなりませんでした、
さて、今月はこれで終わりです!来月、再びDXpeditionを・ガス


(冒頭にも書いたように、この手記は未だ続きがあるのですが、ご家族の手元には残されていない
ようですので、今回で終わります。)


・エピローグ・ John W. Baxley

 ガスの手記(Manuscript)は、2005年おそくに彼の家族の人達により発見されました。それは、南カ
ロライナのオレンジバーグの埋め立て地に処分されようとするところでした。家族のメンバーが、私に連
絡して、それに関心があるかどうかと尋ねました。
 私はそうしましたか?
 ガスは1990年に亡くなりました、15年が経過して、私は手記があることを知ってショックを受けまし
た。
 私は、ガスの奥さん(XYLと言うべきですか?)ペギーからそれを発行する権利を得ました、彼女は彼
女の娘さん、サンドラ・ヒルと一緒に南カロライナのエルロールに住んでいます。

 手記の導入編は、インターネットで初めて2006年1月20日に発行されました。当時、私は手記の編集
に、一週間あたり4ページから5ページとして、およそ18ヶ月は確かにかかると考えていました。最後
の編集は2007年6月27日に完了しました。

 ガスは、すべての手記をタイプしました、しかし、それをすぐに発行するような方法ではしませんでし
た。彼のワールドツアーが終了したあとで、彼が手記を編集して本を発行するつもりであったかも知れま
せん。そのような考えを念頭において、失われてしまった追加のページがあるかも知れません。
 
 手記の編集にあたり、私は言葉づかいと言い回しを、出来るだけオリジナルのままにするようにしまし
た。別の方法ですることは、ガスが届けた記述とスピーチのニュアンスを手記から奪ったでしょう。私は、
ガスが意図した意味を変えないで、言葉を変えないで、適切なパラグラフにして文を短くしようとしまし
た。
 読者は、ガスが殆ど100年前の1908年11月25日に生まれたことを思い出すべきです、そして、スピ
ーチと表現は現在とは非常に違いました。
 ガスは、それらの幾つかは、2007年では理解できないような南方のスラングを沢山使いました。

 もし、素晴らしい紳士が東京に居なかったとしたら、手記の適切な編集と、適切なアマチュア無線用語
を使うことを私は出来なかったでしょう。世界的に有名なDXサー、JA1DM、マサは、私の編集した各
ページを、イーメールとインターネットにより東京で受け取りました。
 彼は、私のタイプミス、いろいろな理由で間違った幾つかのコールサインの訂正を知らせてくれました。
 マサへ、あなたのすべてのイーメールと有用なヒントに対して、私は感謝を言いたいと思います。

 付け加えて、マサは全部の手記を日本語に翻訳しました!
 彼は、ガスの手記を第2の言葉に翻訳し、ガスが記録した、次世代のジェネレーションのための歴史的
な事実を、もっと多くの人達に提供したことで賞賛されるでしょう。

 ガスは、アマチュア無線の歴史だけでなく、当時いろいろな国の人達がどのように生きていたか、決し
て繰り返すことが出来ないことを記録しました、
 私は、ガスが、手記を書くことに時間を割いたことに永遠に感謝しています。

 有り難うW4BPD!

 

・JA1DMのあとがき

  John W. Baxleyはアマチュアではありませんがガスの友人で、ガスが亡くなってからも、ガスのXYL、ペギー
  やご家族と親交を続けていて、この手記を発行することが出来たものです。 
  私が2004年にペギーを訪ねた時に知り合い、それ以後ひんぱんにメールを交換している友人です。昨年、
  彼の家で素晴らしい休日を過ごすことができました。下の写真は、その時に写したものです。
ペギーは末娘のサンドラの家に一緒に居ました。
私が2006年に訪ねたときの写真で元気でしたが・・。
ジョンは航空写真家で、彼の現像室での写真です。

  この手記を、日本語に翻訳することを許諾してくれた、ペギーとジョンに心からお礼を申し上げます。
  英語にそれ程詳しくない私が、何とか終わることが出来たのは、難しい熟語などをJohnが判りやすく
  解説してくれたお陰です。ガスの手記は、一つの文が大変長いものがあったり、南部の言葉(jargon)
  を使ってあったりで、難解な箇所が沢山ありました。  彼の助力がなかったら、翻訳は出来なかった
  と言っても過言ではありません。
  ペギーは、今年8月に94才になります。何時までも元気でいて欲しいと願っています。

  ペギー、ジョン 本当に有り難う!

  読者の皆様方には、最後まで見ていただいて有り難うございました。

  はじめのページに書いたように、ペギーは7月27日未明に亡くなりました。享年93才でした。
  彼女の誕生日は8月21日で、もうすぐ94才になるところでした。彼女の正式な名前は「Agnes Browning」
  ですが、通称ペギーで過ごしました。
  

106M063007  2007.6.27
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