W4BPD, Gus M. Browning
の手記 ・ DXpedition物語 (その43) アマチュア目次へ戻る 戻る 進む |
第22章 (1)「ガスの桃の木」は桃の実で一杯 |
この前のエピソードでは、私は南アフリカのケープタウンに戻ってジャック・ZS1OUとマージ・ZS1RM と数日過ごしていました。その時の滞在は短いものでした。 私がトリスタン・ダ・クーニャ、ゴフ、そしてブーベ島へ出発したとき、私が最後にそれらの木を見て 以来、彼らの「フルーツのシーズン」が来ました。しかし、そのような短い滞在では、彼らが手元に持っ ているすべての果物を食べることに関して、私は「義務を果たす」良い機会はありませんでした。 フリッジ(fridge・冷蔵庫・そこでは彼らはそれをそう呼びます)には、沢山の種類のブドウ、イチジ ク、桃、メロン、マスクメロン、リンゴ、プラム、それに、私が旅行をした、別のすべての場所で決して 見たことのないそのほかの幾つかの美味しい果物が文字通り一杯詰め込まれていました。 私は、それらの中に飛び込み、私の味覚をくすぐる幾つかを見つけようとして、少なくともそれぞれを 一つずつ食べました。私は、沢山見つけました。 実際、私が思い出せる限りで、美味しくないどのようなものも見つけることは出来ませんでした。果物 が大好きな人達に言うでしょう、フルーツのシーズンの時に南アフリカを訪ねることで失敗はありません。 残念ですが、私が出発するのがすべてあまりに早く来たとき、ジャック・ZS1OUとマージ・ZS1RMは 鉄道の駅まで車で送ってくれました、そして、私は再びクーロンスタッド(Kroonstad)へ出発しました。そ のかなり大きい街は、ケープタウンとヨハネスブルグの間にあります。 私は、駅で、私のすばらしい友人シド・ZS4MGに再び会いました、確かこれが彼のコールサインだと 思います;しかし、とにかく、今、彼はそこを去りました。私は、しばらく前に彼と彼の家族はどこかに 移ったと言う手紙を貰いました。この時、私はそれがどこかを忘れました。 何ヶ月か前、彼の家の私の最初のストップで、彼の裏庭にあるそれらのすばらしい桃の一つに私の名前 をつけておいて欲しいと、シドに言いました。私がそうしたのはラッキーでした、なぜなら、私がこれま でどこでも見たことがないすばらしい桃を一杯につけていたこの大きな一つを除いて、彼はすべての桃を 売り払っていました。シドと彼の奥さんは私を裏庭に連れていき、そして、その木を指さして言いました、 「ガス、それらはあなたのものです。」 私は、4日か5日ほど、彼らと一緒に過ごしました、そして、私が去る前に私はその桃の木の実の殆ど を食べたと思います。彼らは、幾らかのとてもすばらしいピーチアイスクリームを作りました。幾つかで、 彼らはピーチパイを作りました、そして、多くが、ただスライスしてそれらを砂糖と新鮮なホイップクリ ームをかけることで使われました。それは美味いものを食べることでした! 私があちこちで試食したすばらしい食事で、それらが一緒にだされたときに、新鮮な桃と新鮮なクリー ムにふれたことはないと、私は全く確かに言うことができます。それは、「ほっぺたが落ちるほど美味しい」 と言うほどのたべものです。 シドは、彼の小さな車(私はそれがフォルクスワーゲンだったと思います)で、ある日、ウェルコン (Welkom)にでかけました。彼らは、そこをフェルコン(Velcom)と発音します。 ・ゴールドの感触 ウェルコンにいる間に、シドと私が会った他のZS4の仲間がその街について私に話しました。私がそこ を訪ねた数年前に、面白いことが世界のその場所で起きました。 街はただ大きく、平らな、地面で、その中にほんの数本の木があり、そして、街が建設された土地は、 以前は幾つかの非常に大きな農場でした。なぜか、金がその場所の下に有るのを彼らは発見しました。 それから、非常に深い鉱山が掘られました、そして、その場所は非常に深い深さのところに金を含む岩 石が充満していることがわかりました。 私は、一つの旅でそれらの鉱山の一つに行きました。私は正確な深さは忘れましたが、しかし、それは 7,500フィート(約2800m)ほど垂直に下っていて、物事がどのようにそこで行われていたかを私は見ま した。 すべてのものすごい送風機、そして、幾つかのセクション、空調、その非常に深い深さのところは非常 に暑かった。それが、いろいろな手段でばらばらにされたあとで、彼らは岩石を上に上げました。地上で は、それは砕かれ、なにかの化学的過程でその岩石から金がとり残されました。 「もし片手でそれを持ち上げられるならそれはあなたのものです、テーブルの端に滑らしてはダメで す。」と書いたサインがあり、レンガ状の金の塊が一つ、小さなテーブルに置かれていました。 勿論、他の多くの人と同様に私はそれを掴みました、そして、私はそれがどのくらいの重さか知りませ んでした、しかし、私はテーブルからそれを少しも動かすことは出来ませんでした。 サイズは、普通のレンガよりすこし小さかったのですが、それはおよそ50ポンド(約23kg)の重さだ ったに違い有りません。(私は、確かにその金の「塊」を使ったかもしれません。) ウェルコンの街は全く完璧に広がっていました。あらゆる通りが直線で、すべての街区が完全に正方形 でした。そこにある家々はすべて真新しく、それぞれ空調付きでした。すべての家には美しい芝生があり、 あらゆる家の前庭には車がありました。 すべての場所に、本当の繁栄とマネーの香りがありました。皆はとてもきれいに着飾って、彼らの顔は 非常に満足な表情でした。実際、もし私が若い人だったなら、私の生涯の残りを暮らす場所に関して私が 滞在したい場所の一つでした。 シドと私は街中をドライブして沢山の家とハムを尋ねました。彼らの多くが本当のDXサーでした、そ して、彼らはいくつかのすばらしいリグを持っていました。それらの殆どは八木かクワッドでした。 その街の、それらの人達は、彼らの仕事で非常に多くのお金を稼いでいるように見えました。 そこにまる一日を費やしたあと、私たちはクーロンスタッドへ車で戻りました、そして、オンエアーで すべての「ガスウォッチャー達」に、私が次のDX QTHに着くと予想した日付を、彼らに告げながらQSO しました。 私は、私自身のリグを接続しそれを使いました。シドは、すばらしいリグで運用できることは本当にす ごいと言いました!私が持っていたそのリグの感触が彼は好きでした、そして、エレキーはすごいと考え ていました。(それは、私のすばらしい友人W3KVQ/2が私のために特別に作ったものでした。) ・すばらしい友人とFBな桃 実際、この小さな「宝石」を見て、使った人は誰でもこれとの恋に落ちました。私は、今、ここで、私 の家の局で(W4BPD)それを使っています、それはいまだに以前と同じようにすばらしいです。実際、 それは時代に応じて進化するようです! しかし、話に戻りましょう。 シドとそれらのFBな桃のところから出発するための時が私に来ました。シドは、彼の家での私の滞在 をハイライトにするように、全面的にしてくれたそのような仲間の一人でした。 そこで旅行をするにはもっとも安い方法のように思えた列車で、再び私がヨハネスブルグに出発するこ とは、したがってとても残念でした。 ZSランドのもっとも洗練されたオペレーターの一人で、そして一流の技術者でもあるランバート・ ZS6LMが再び鉄道の駅で私と会いました。ランバートは、今はレソトと呼ばれるバストランド (Basutoland)への私たちのドライブのすべてを手配しました。彼はライセンスを入手し、私たち二人に必 要なすべての許可をとりました。 さて、この友人ランバートはそのような几帳面なオランダ人の一人でした。(彼は、ZSランドに移る前 には、以前何年かPA0にいました。) 彼は、バストランドへのDXpeditionで「キャンプする」のに、私たちが持っていくための物のチェッ クリストをすべて作っていました。絶対に、何も見落とされませんでした。私たちはどのような不測の事 態のためにも用意が出来ていました。 沢山のスペアパーツ、沢山の食料、調理用ストーブ、缶詰、新鮮な果物、そして、ZD9とLH4の島で の私のストップから一緒に持ってきた、パタパタ(発電機)用の沢山の予備ガソリンとオイルがありまし た。 私がその当時使った発電機は、スパークノイズの最後のビットを除去するために、私が10,000オーム、 1/2ワットの抵抗を付けた、シールドされたスパークプラグコード付きのオナン(Onan)の1kWでした。 それは、115ボルトのもので、そして、およそガソリン1ガロンで4時間運転できました。私は、再び同 じ物を使うと思います。 私は、新しい、ブラシを使わないマグネット付きの非常に小型で、軽量の発電機を買うために私のベス トをつくしました。しかしながら、それを買うことは出来ませんでした、そして、それを私が考えたような安い 値段で私に売るのに同意してくれなかったでしょう。 多分、もし、別の旅行が有れば、私にはよい運が有るでしょう。より小型の発電機を使うことは非常に 良いでしょう、そして、道中でのすべての沢山の「余分な荷物」料金を節約するでしょう。 皆さん、無線機が一杯の3個のスーツケース、そして、発電機が入った木箱と一緒に世界中を旅行する のは簡単であるとは考えないで下さい。 非常にうすっぺらい財布ではそれはとても困難です、特にそれが良い財政状態でない時に、すべてのス トップで、あなたが、必要とするいろいろな赤帽への沢山のチップを配るのは。 |
099M052507 2007.5.31 |
第22章 (2) DXスポットへの13時間のドライブ |
勿論、それに対応する税関の奴らもいました;ときどき、彼らに「説明する」35mmカラーフィルム 100本ほどに2個のカメラと一緒に。それは、いつも旅行を面白くします。 そのようなことの何ヶ月も何ヶ月ものあと、もうそれについて心配しないでよい場所に着きます。私は、 税関の奴らに言う沢山の違ったストーリーを持っていました、普通は、それらのどのような二つとも、同 じではありません。 幾つかのストップで、税関の奴らは全く英語を話せませんでした。私が思うには、英語を理解できない それらのストップとエージェントとは全く奇妙でした、しかし私にとって、それは全く重大でした。他の 一回では、ある税関の場所でのあるハプニングについて私はお話するつもりです。 私がかなり何回も言ったように、私は、ここZS6LMの家で、彼と一緒に、バストランド、ZS8に行く 準備ができていました。私たちはランバートの車の後ろに小さなトレーラーをつけました。それは小さな もので、その中にあらゆるものが詰め込まれました。 その中には、もう何もいれられる余地がなかったと私は思います。仲間ランバートはトレーラーに積み 込む方法を本当に知っていました。それから、もし雨が降っても何も濡れないように大きなキャンバスの カバーがそのまわりに巻かれました。 ランバートはかなり正確な英語を話しました、そして、ほんの少しアフリカーンスと呼ばれる南アフリ カの方言で。私たちは、ヨハネスブルグからより遠く離れて、英語を理解できる現地の人達はどんどん少 なくなりました。しかし、ランバートはふりをしているのだと言いました。 彼は言いました、彼らは英語を話すのはOKで、理解できると言いました;しかし、かれらは抜け目が なく、その当時、彼らの感情は英国に対して非常に悪かったのでその言葉を使いたくなかったのです。 ヨハネスブルグからZS8ランドへの旅は、午前4時頃からその日の午後5時頃までかかりました。ZS8 の国境まではまさにずっと良い道路でした。私たちは、岩だらけの、山岳の、完全に現地人の警官、税関 の職員により運営されていた田舎のように見えるところを旅しました。少なくとも、彼らは英語を話し理 解しました。 最後の100マイルほどは、途中の私たちのストップでは、誰も英語を理解したり話せませんでした、あ るいはそれは私たちに示したことです。それは、ランバートと私のどちらも、愉快ではありませんでした。 私たちが,彼らからコーヒーやガソリンを求めることは非常に困難でした。 ZS8国境での税関と入国は非常に簡単で、私たちは丁重に扱われました。彼らは、まったく私たちを遅 れさせるようにはしませんでした。 私たちは、マセル(Maseru)を通って、それから国の中へ10か15マイル入り、幾つかの小さな丘や 山の間をドライブしました。それから、私たちは小さな横道に曲がり、私たちの運用に理想的な場所で、 幾つかの高い木立の下で美しい草原のある小さな湖を見つけました。 ・80フィート上のハイゲインアンテナ 私たちは、車を止めて外に出て、アンテナを建てる高くてFBな木を探しながらその場所一面を歩き回 りました。 それから、私たちは、なぜ私たちがそこにいて、そして何をしようとしているかを告げるため、政府の 官吏職員、警察局、保安局、軍隊などを探して、マセルまで車で戻りました。勿論、私たちはパスポート、 免許証などをそれぞれのところで示しました。数時間で私たちは運用が認められました。 すばらしい小さな湖岸が正確にどこにあったかを言って、私たちが何処から運用したいかを彼らに説明 しました。私たちは、その場所が政府の土地であることを知りました、そして、正しい役人のところを見 つけて、私たちはその場所に滞在し運用することの許可を与えられました。 私たちは、食料品店、パン屋の様な店に止まり、幾つかのパンの塊を買いました、それは岩のように固 く、重いものでした。私たちは車で、私たちの小さなDXpeditionのQTHに戻り、沢山のことを急いで しました、私たちは、夕暮れ前に私たちのテントを何とか建てました。 夕暮れのあとはテントの中は私たちと蚊でした;しかし、私たちのベッドの上にネットを張ってベッド に入った時、蚊からのQRMはとまりました。私たちは本当に疲れていたので、その夜は寝つくのに何の 問題もありませんでした。 しかしながら、私たちは遠くにライオンの叫び声、そして私たちから数マイル離れたジャングルから聞 こえる、沢山のその他の聞き慣れない音を聞きました。 私たちは翌日の早朝に起きて、私はアンテナを建て上げオンエアーしました。 私たちは、最初の枝が私たちの手の届かないところにあったので、木に登ることはできないことを知り ました。しかしながら、私たちがより高い木の頂上にアンテナを上げるのを考えていた間に、二人の現地 人が通りかかりました。それは老人と多分その若い息子でした。老人は、60才くらいに、そして、若い人 は20才くらいに見えました。 ランバートは、彼らに呼びかけてそれらの木に登るかを尋ねました。彼らのどちらもランバートの話を 理解できませんでした。ランバートは、彼のアフリカーンス語混じりで試しました。老人はちょっと幾分 かは理解することができました、しかし、若い方はできませんでした。しばらく説明したあと、若い男は、 私たちのために、木に登ることに同意しました。 それは、とても面白いアンテナの建設でした。私がランバートに言い、それから、私の言ったことをラ ンバートがアフリカーンス語に翻訳して、それから、老人にそれを話しました。それから、老人は、それ をバスト語に翻訳しました。 今でも、アンテナを建設している木の上の仲間への最終のメッセージは、私がランバートに与えたメッ セージとは違っていたと全く確信しています。なにかが途中で失われたと私は確信しています。 およそ6時間か7時間の叫び声のやりとりのあと、私のハイゲイン、モデル14AVQ、10,15,20と40 メーター垂直アンテナをもっとも高い木の一番てっぺんに最終的に上げ終わりました;それは、地上から 75か80フィートありましたー非常にFBな…(以後は文章が読めません) ・すばらしいZS8ランドへのDXpeditionはあまりに早く終わってしまった すばらしいDXpedition運用のための設置はすべて終わりました。発電機は250フィート延長コード2 本を繋いだ端末の500フィート離れたところに設置されました。この2本のコードは私と一緒に世界中 を旅しました。それらは何回も役にたちました。 私は、運用する場所からかなり離れた距離のところに発電機を置くことができました、そして、同時に、 もしそれが近くに置かれたときに受信機で聞くことができる、スパークプラグの小さなノイズを減少しま す。それは、10と15メーターの両方で非常に目立ちました。 午後3時頃、私が寝ている間に、私はランバートに最初にリグのところに行かせました。(私は、私の順 番のためによく休みたかったのです)ランバートは、およそ3時間リグにいました、それから、丁度日没 頃に、リグを私に譲りました。 勿論、私たちは、世界中のどこからでも、オンエアーするために、それはよい時間であることを知って います。 私たちのオールバンドの能力で、午前4時から5時の間を除いて、幾つかのバンドはいつも開いていま した、その時間は、地球上の殆どどの場所からでも、なにか運用を試みるためには悪い時間であることを、 私は発見しました。 しかし、たった今、現在のようなFBなサンスポット時期でなら、一晩中ずっと沢山のバンドが開いて いるだろうと私は思います。サンスポットは、その11年周期の最低に非常に近くでした、私のその一回 の旅のとき、そこで、私はその黒点の沢山の助けを当てにすることはできませんでした。 しかし、私たちに逆行していたサンスポット時期でさえも、私たちは、ZS8ランドから非常にすばらし いDXpedition運用をしました。当時、そこはレアーカントリーリストでした、そして、沢山の仲間がニ ューワンとして、とくに低い周波数でそこが必要でした。正直なところ、「私たちはそこでうまくやりまし た。」 ランバートのようなスペシャリストと一緒にDXpeditionに行くことは、私にとって、本当に大きな楽 しみでした。私たちは、私たち二人とも、同時に運用しようと思っても、どのようなトラブルも全くあり ませんでした。ランバートは、私たちの運用スケジュールにおいて、十二分に公平でした・DXpedition におけるすばらしい仲間。 遺憾ながら、DXpeditionに一人以上がいるとき、そのようなことがいつもうまくもたらせるわけでは ありません。 私たちがそこに滞在した5日かそこらは、とても早く過ぎていつも出発の日だけが来ます。私たちは、 アンテナを下ろすために、それを建てた二人の同じ仲間を見つけなければなりませんでした。彼らが近く に住んでいて、その付近のほかの多くの人達と同じように、彼らは全く仕事をしていなかったのでそれは 問題ではありませんでした。 そのため、彼らは家に居て、アンテナを取り外すのを喜んで助けてくれました。喜んで言いますが、そ れは建てるよりずっと容易でした。 そこにいる間、毎朝、午前10時頃バンドが開かなくなったあと、私たちは、通常,なにか食べるもの を探し、新鮮な水で私たちの水のタンクを一杯にするために町へドライブしました。沢山の美味しいオレ ンジ、マングローブ、アボガド、ブドウ、そしてメロンが、それに非常に安い値段でとてもすばらしいバ ナナが同様にそこにありました。 ・列車でダーバンへ 言いたくないのですが、サーディンの缶詰がとても高い値段で地元の店にありました。私たちは、それ を沢山食べました、しかし、それが好きだったのではなく、単に食事の場所で見つけられたからでした。 あなたは、時には、オイルサーディンと、とても固い、乾いた、もろくて古くなったパンを一日3回食べ るべきです。それから、あなたは新鮮な果物であなたの胃袋を満たすと嬉しくなるでしょう、そして、そ れがまさに私が毎日していたことです。 私はおよそ35個のオレンジと25個のバナナを、そして、多分3個の小さなサーディン、そして、3枚 のスライスしたそのひどいパンを、毎日食べたと私は思います。残念なことに、私は食事時間を楽しみに していませんでした。 私たちは、勿論、沢山のコーヒーを飲みました、そして、ランバートは非常に強いのが好きでした。勿 論、そのようなコーヒーは、私は全く好きではありませんでした。残念ですが、そのDXpeditionにはイ ンスタントコーヒーはありませんでした。 私の言う非常にすばらしい運用のあと、私たちはバストランドを出発しました。現在、私は何局と実際 に交信したか忘れました、しかし、それはおよそ4,700 QSOだったと私が思い出すことができるように 思います。 サンスポット活動が低いことを考えた場合、それはそれ程悪くなかったです。皆さん、バンドが現在の ようであれば、それはとてもすばらしかったでしょう。 もし彼が一晩中、毎晩5日か6日間の夜中じゅう運用したら、どのくらいのQSOができたかを言うの は困難です。多分近い内に、私はそれがどのようだったかを見つけるかも知れません。将来何が起こるだ ろうかは決して言えません。 私たちは、ドライブしてヨハネスブルグに戻り夜遅く着きました。次の数日は、町のそこここで、その あたりのいろいろなDXサーを訪ねるのに費やしました、そして、彼らは皆すばらしいリグと殆どがFB なビームの非常に良い設備だったのを知りました。 私は、また、そこの幾つかの金鉱山を訪ねさえしました。それらの金鉱山は、とても面白い。しかし、、 彼らの生産物のどのようなサンプルも呉れないのは確かです。ヨハネスブルグの地下には、その金がつま っているに違いありません。その街の周囲に、どのくらいの金鉱山があるのかは私は知りません。 全てあまりに早く、東海岸の街ダーバンへ出発する時がきました、そこでは仲間達が私とアイボール QSOをするために、QRXしていました。 再び、それは列車でした。それらの、すばらしい、豪奢な南アフリカの列車は、仲間達をスポイルする でしょう。それらは、絹のようにとてもスムースで、そして、また、美味しい食事を手頃な値段でだしま す。言いたくないのですが、米国の列車とは非常に違います。 休みの時間です、来月また皆さん、de W4BPD |
100M053007 2007.6.2 |
前のページへ戻る 次のページへ進む アマチュア目次へ戻る