W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その42)   アマチュア目次へ戻る

                                                        
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第21章 (1) フレンドリーなペンギンが問題になった    

ブーベ島

 南アフリカのケープタウンから、およそ1500マイル東南、荒涼として凍りついた、氷と雪に覆われた
島に、遂に私は到着しました。12月5日頃、それは真夏と言われるところに私たちはいました。浮氷群は、
島の北方およそ150マイルから始まりました。これは、そこの真夏だったことを考えてみて下さい、そし
て、その凍った大洋をとおりぬけるために、南アフリカの砕氷船が必要でした。たとえ「暖かい季節」で
も、小さな船でそこへ行こうとするのは、私は間違いなくいやです。

 離れたところからは、島は、そのトップが白い氷に覆われた、非常に大きなチョコレートケーキのよう
に見えました。島のトップは、少なくとも、その10分の9は高原で、その所は200から300フィートも
の厚さの氷河で覆われていました。氷河は、一日中、一晩中ものあいだ、全ての種類のノイズを出してい
ました。それは、割れて、飛び出して、折れて、そして、その凍った雪の大きな塊が直ぐ下の海洋に落ち
たとき、それはものすごく水をはね上げました。時に、それらの塊は、2台か、3台の動いているバンと
同じくらい大きく:しかし、たいてい、凍った雪と氷は、ほぼ普通の自動車の大きさでした。

バンドが死んでいたときに、その氷上での出来事を見たり聞いたりするのは楽しいことでした。しかし、
絶えずうろついていた沢山のアザラシとアシカと同じように、ペンギンたちと他の鳥達の生態は,私にとっ
ては、もっと楽しいものでした。時には、それらのアシカは喧嘩をして、うなり、ぶーぶー言いました。
ペンギンはしょっちゅう動いているため、その数を数えるのは不可能なことでした。

 最初は、ペンギンたちはとてもフレンドリーでした。実際、フレンドリーであることは、大きな問題で
した。それは、私たちが彼らの中心になったポイントでおきました。ペンギンを、私たちから遠ざけるた
めに、小さなアルミニュームのパイプを使わなければならないときでも、ペンギンたちは、私たちを全く
怖がりませんでした。

 私たちがそこでしたことは全てが困難でした。凍った大地にアルミニュームの一片を打ち込んでみたこ
とがありますか?さて、私たちは遂にそれをしました、勿論深くなくですが。私たちが出発する準備がで
きたとき、それは完全に凍りついていました、そして、私たちは、それを地面から抜くことができません
でした。多分、私たちが打ち込んだまま、それは未だそこにあるでしょう。テントを止める鋼鉄の鋭いア
ンカーであってさえ、その凍った大地に止めるのは、また一寸大変でした。

 私たちは、およそ4フィートと6フィートの大きさの、小さな「小型テント」を張りました。それは、
私たちの折り畳み簡易ベッドと無線機用のカードテーブルには十分な大きさではありませんでした。結局、
カードテーブルは入り口に置かれました。使用状態でフラップを広げたとき、およそ50%が遮蔽され、お
よそ50%が外にありました。

・ブーベ島の感想

 私は、簡易ベッドの端の反対側で、折り畳み椅子で運用しました。(ここは文章が一部脱落しているよう
です)
 私はシェルターの中に居ました、しかし、無線機と運用テーブルの殆どはテントとフラップの外にあり
ました。アンテナ(ハイゲインの垂直)は無線機から33フィート、パタパタ(発電機)は250フィート
離れたところにありました。いまいましいペンギンたちとの戦いのあと、組立の各ステップで、私たちは
遂に、全部がまとめられそして接続できました。

 毛皮で覆われた手袋をつけていてさえも、私の手は殆ど凍って居ました。そうだ、私は、その他の沢山
の衣類に加えて、ブーベ島で使うようにとK8RTWが送ってくれた、二組の長いレッドハンドルを持って
いました。私は、多分詰め込まれたヒキガエルのようにだったでしょう。その時でさえ、私はまだ快適な
暖かさではありませんでしたが、少なくとも凍りつきませんでした。故郷の米国で、よく暖まった家の中、
あるいはアパートで、私のこの出来事のすべてについて考える人は誰も居ないことが私の心をよぎったの
は確かです。

 今日まででさえ、仲間達にもう一つのニューワンを与えるために、凍りながら、歯をがたがた言わせな
がら、私が仕事に執着したことは、私を驚かせます。しかし、DXingの虫は、更なる興奮を世界中の仲間
達に与えるため、すべての「ひどい」大変な、哀れな仕事に、打ち勝つための刺激を私に与えたに違いあ
りません。私は、「ニューワン」のために猛烈にあなたを呼ぶ彼ら達とともに、何千人ものDXサーのよ
び出しの中心になることより、もっとエキサイトなスリルが世界中にあるとは思いません。

 私は、このフィーリングを説明できるように、私は、英語を自由に操る力を持てることを本当に願って
います。もし、あなたが真のDXサーで、そして、どこかニューワンを捕まえたら、私がブーベで感じたよう
なことを、まさにあなたは少しは感じます。さらに、最初に私が運用した、ほかのニューカントリーがあ
ります。たった今でも、南カロライナのコルドバに座っていて、この章を書いていて、それを再び考える
別のスリルを私に与えます。毎日起きる、これらのすべての物事が私の心にスライドしてよみがえります、
私は、夜ベッドに横になって、私が眠りに落ちる一寸前、私がたどったそれらのすばらしい経験を考える
時間が未だあります。私が訪ねた、沢山の違った場所、そして、私が見たすばらしい光景を考えます。

 これまで、私がたどった経験のリストの中で、ブーベ島は、少なくとも、確かに、高いスポットでした。
勿論、後には、あるいはブーベ島の運用の興奮をほとんど超えるかも知れない、私が運用したチベット、
ブータン、シッキム、中国さえもありました。

 無線機の調整をした直後、ゴフ島での運用と同じように、再び、ケープタウンのZS1RM、マージがそ
こに居ました。彼女は言いました(CWで)「ガス?」私は応答して、言いました、「そうです、私です、
マージ。」それから、世界中が私に落ちてきました。

ペンギンと連続の戦いになりました

 今日までのDXingでさえ、私がこれまで聞いたより以上のものすごい数の局のコールです。私は、ゴフ
島からブーベが見えるまでの期間ずっと、/MMを運用することで、島への途中の私の進行状況を誰にもよ
く知らせました。私は、到着予定時刻(ETA)を、仲間に知らせました、そして、私運用を始めたとき、
彼らは皆私のために待機していました。彼らの多くが、家に止まり、病気を装い、あるいは休暇をとり、
そこで、彼らは、そのニューワンを逃さなかったと私はあとで知りました。私が運用した日の毎分に、彼
ら何千もが私を呼んで、彼らの何人かが決して取れなかったのを私は知っています。彼らに対して、私は、
アイアムソリーと言います。私はもっと長時間島に居られたらよかったと思います。

 私は、4日半滞在しました、
(注)そして、そこに居た間、実際24時間連続して運用しました。その時
の終わりまでのトータルQSO数は殆ど5,000 QSOでした、そして、パイルアップは、私が最初の日にそ
こに居たよりも大きかったように思われました。皆さん、それはすばらしかったです!私が座って、ある
いは後ろにもたれて、それを考えるとき、今日でもそのスリルは未だ私と共にあります。

 勿論、私が現在していることは、より深くDXingに関連しています・私の週刊DXers誌の発行。それ
はDXingにとても密接に関連して、ハムラジオにおいて、私の第1のそしてただ一つ好きなことで、これ
は私に多くの満足を与えてくれます。しかし、それはとても大変で、非常に長い時間がかかる仕事です。
お金の観点からは、それは有利ではありませんが、しかし、それをすることが好きである私がなにかをす
るのは残念ではありません。ところで、配布数は現在1,100以上です。しかしながら、新規の購読者は、
毎日増えています。

 しかし、またブーベに戻りましょう。最初の夜に、「なにか」がありました。そうです、太陽が沈んだと
き、夜の10:30頃、私が運用デスクの上にライトを点けたとき、それらのいまいましいペンギンたちがテ
ントのまわりに群がりました。私と、南アフリカ人の仲間の二人にとって、彼らを撃退して、彼らがテン
トの中に入るのを妨げようとした連続した戦いでした。それらの沢山の小さな仲間達、よく馴れて、無力
に見える彼らは、その小さな切り株のような翼で私たちの足を打つとき、本当に荒々しいものでした。そ
れは、彼らがくちばしで、あなたをつねる時以外は。私たちは、それらの生物との、楽しみではなかった
夜通しの戦いにすぐになりました、それは時には日中でさえも。

 パタパタに、「ガソリン」を補給し、ペンギンを押さえようとすることで、私は、殆どの時間、南アフリ
カの仲間をかなり忙しくさせました。合間に、彼は暖をとるために寝袋に潜り込みました。小さなガスヒ
ーターは本当に役にたちました。私が運用していたとき、私は、普通、暖かさを保つように、私の足の間
に火を点けた石油ランタンと、私と、全部の無線機の両方に、軍用毛布をかぶせました。

 二日目の夜、吹雪になりました。夜の間中、5フィートか6フィートの積雪があったにちがいないでし
ょう。それが降り始まったとき、本当の寒さが始まりました…
(注) ガスは4日半も島に居たのですね。当時の私の記録では11月26日から28日まで、その後、資料を探して、
    29日のQSOデータも見つけましたが。
096M051007  2007.5.10 
第21章 (2) 冷たく激しい雪で問題が起きた

 雪が降り始め、南極から直接来たような本当に冷たい風が吹き始め、気温は華氏でおよそ15度(-9度
C)に下がりました。マイナス15度のように私には感じました。雪は「塊」で降ってきたように思えまし
た。
 とてもひどい寒さで、私は一寸QRTしました、そして、暖まるため這って簡易ベッドにもぐり込み、
小さなヒーターを簡易ベッドの足下に置いてフラップを閉めました。ヒーターは「最強」にして、私はひ
どく疲れていて2分後には眠ったと確信しています。

 私は、目覚ましを翌朝の午前5時にセットしました、そして、私は短時間の睡眠でよい人間だと言いま
す。私は目覚ましのベルが一回くらいなったと思います、そして、私は手を伸ばしてそれを止めました。
私は,パタパタを始動して運用しようと思い、外へ出るつもりで、一晩中燃焼していたランタンをかがん
で探し当てました。

 私は、テントのフラップを開けることすらできないのがわかりました。私は、別の簡易ベッドにいた協
力者を起こして、私たち二人で遂にテントのフラップを開け、テントが殆ど雪で覆われていることがわか
りました。そこでは、その時は白昼の時間で太陽が上って輝いていました。

 私たちは外の発電所に行きました、そして、およそ15分間トライしたあと全く始動させることができ
ませんでした。それから、私たちは、全部のオイルを抜いて、それをテントに持ち帰り、小さなガソリン
バーナーストーブの上に置きました。
 オイルが沸騰点に近くなったあと、私たちは急いでオイルを持って発電所に戻り、オイルを急いで注ぎ、
それから、生のガソリンを直接、スパークプラグの穴に注ぐことでエンジンを準備しました。それから、ク
ランクコードを非常に急いで引っ張り、彼女は再びスタートしました、そして、私はLH4Cで仕事に戻り
ました!

 私は無線機を動かしたらSWRが5:1と高くなっているのを発見しました。それから、アンテナのベー
スが雪で覆われていたのが、私には明らかになり始めました。私たちは、それをベースまで掘り、そして、
雪はおよそ4フィートの深さだったことを知りました。私たちは、外へでて、雪かきシャベルでアンテナ
のまわりの雪を取り除きました。私たちは、グランドプレーンのラジアルが覆われていることは心配しま
せんでした。

 再び、無線機に戻り、ダメなSWRは再び殆ど1:1に下がりました。最初のワンバイワンのCQは正し
い結果を生みました。それは、千人の仲間達が私をコールしたように聞こえました、そして、その最初の
コールの前では、ラグチュウをしていたたった2局を私は聞いただけでした。皆が、まさに私のために待
機していたに違いありません。「ガスウォッチャー達」は、その朝本当に仕事についていました。

 幸いに、私たちは、島の北西の角に位置していたので、米国、南米、そしてヨーロッパへのコンディシ
ョンは、ずっと非常にFBでした。お客さん達を無くするのは不可能でした。いつも、私は一つと交信し
て、それは、まるで二つと交信したようでした、そして、運用の最後の日になってさえも、ペースは決し
てゆるむようには思えませんでした。そのようなことが、それ以前に起きたことはありませんし、今日ま
でも、それについて考えると私は未だスリルを感じます。

鳥達はブーベ島での唯一の住民です

 気温が滅多に氷点を超えることがない時に、そのように沢山の鳥達が、そこでどのように暖かさを保つ
のか、私にとってそれは未だに謎です。彼らの唯一の食料は魚です、なぜなら、ブーベ島にはどのような
緑地のしるしもありません。実際、そこには、なにかが育つような裸地はありませんでした。私は、自然
には、そのようなものの世話をする何らかの方法があるものと推察します。

 南十字星は、夜、天頂の近くにありました。私たちが北半球で見たいろいろな普通の星はそこでは見ら
れませんでした、そして、「スターウォッチャーでない」私にとってそれは全部見慣れないものでした。

 私たちが島にいた間、砕氷船は写真をとったり、島のまわりの直ぐ近くのエリアの、海洋の深度図をプ
ロットしながらゆっくり島のまわりを廻っていました。彼らは、島に気象観測所を設置するための場所を
見つける可能性をそこで調べるような考えもありました。

 私は、ブーベ島の正確な大きさを知りませんが、各辺がおよそ5マイルだろうと見積もりました、そし
て、それはほぼ正方形です。私が思うには、いつも冷たい風がくる東南から風が吹いていたように見えま
した。
 この地球で、誰もが、そのような場所を所有したがっている理由が私にはわかりません。しかし、もし
何時か、地球の軸が十分傾いたら、ブーベ島はもっと北に移動して住むことが出来る場所になるでしょう;
しかし、次の何千年もの間には決してないでしょう。

 私にとって、そこでの無線のコンディションは、殆ど何時もとてもすばらしかったです。バンドは毎晩
午前3時頃にダメになり、およそ午前6時頃に再び開けました。しかし、すべてのシグナルはアフリカの
南方の局を除いて、殆どの時間、非常に遠距離からのような音でした。勿論、アフリカは1500マイルし
か離れず、第1回の反射に丁度の距離になると私は電離層から考えます。

 そうだ、マリオン島のZS2MIからのS-9+の信号をあなたは聞くべきでした。それは、フォークランド、
サウスジョージア、サウスシェットランドのVP8の局達からの信号と、南極の仲間達からの信号と同じで
した。
 それらの信号は、毎回、「驚くほど」完全なS-9+で聞きました。世界を旅行してまわるとき、QRMの
元がどのように変わるかはとても面白いことです。ブーベ島では、それはZSの局で、そして、少数のVP、
それにその他の南極の局です。

 しかし、それらの何れも多くはないので、私がQSOしている局から数kCでなければ、それは私には
問題ではありませんでした。それは、私が今までに居たことがあるスポットのうちでは、ほとんど、QRM
フリーのスポットだったと言えます。
 バンドが開いているとき、殆どの時間W/Kの局はS-8くらいで、そしてWへは殆どずっと開いていま
した。Wは実際QRMメーカーでした!

4日と半日のあと、ブーベは歴史になりました。

 交信するのがもっとも困難だったところはオーストラリアとニュージランドでした、距離ではなく、多
分、それは、私がブーベ島で位置した場所が全く完全に遮蔽されていたためでした。
 それはこのようでした;南方での正方形の四角い氷を想像して下さい。北と南に面している立方体の側
面の大西洋、そして他の側面は東と西に面して。それから、北西の角の、海面からおよそ8フィートのと
ころに、角の小さな部分を切り取ります。その立方体の、400か500フィート立ち上がった垂直な上下の
壁、、そして、その角にあなたの局を設置したと想像してみて下さい。

 VKとZLの信号がどのようにしてくるか、私には不可能に思えます、なぜなら、彼らは、それらの垂
直な上下の壁の反対側にあります。ことによると、私の方向に向けられた米国のビッグアンテナかなにか
らのバックスキャッターか、あるいは反射かもしれません。いつも、それらの全部は、私に向けていたよ
うに聞こえました、ハハ。
 しかし、私は、何とか彼らの数局と交信しました。ログを確認しないで言えば、多分1局か2局のZL
と3局か4局のVKだと言えるでしょう、普通は20局程度のVKと6局程度のZLと交信します。それ
らの仲間達に私は残念でしたと言います、しかし、私が聞いた誰とでも交信するために、私はベストをつ
くしました。

 調査の仕事をするために島を周回していた船と毎日何回もスケジュールの交信をしました。彼らが何回
周回したか私は決して探しませんでした。それぞれのさらに一寸先の周回で、彼らはブーベ島の周囲の海
域の、良い深度図を得ることができたと思います。それは、将来の日に、今までに彼らがそこに戻ってき
たいことのものでした。

 彼らが、より長く滞在すればするほどそれは私にぴったりでした。4日目の終わりに、彼らは翌朝の10
時頃に出発する準備ができているようにと私たちに告げました。その夜、私は、ずっと起きていて、決し
て簡易ベッドに入りませんでした。私は、すべてのバンドがダメになってから80メーターで、数局とQSO
すらしました。
 しかし、私が使ったバーティカルは80メーター用には作られていませんでした、そして、私が測定し
た限りではSWRは10:1かそこらでした。それは、そのバンドには、とても悪い効率で、私は、ずっとベ
アーフットでしたが私は問題なかったと思います。

 翌朝、およそ9時頃、私たちはブーベ島からの最後のQSOをしました。73誌の今後のどれかの号で、
私が運用した各場所からのこれら「ファースト」と最後のQSOについての情報を発表するつもりです。
これらの図表化は仲間達に興味深いだろうと、私は思います。

097M051507  2007.5.13
第21章 (3)ブーベ島は視界から消えました

 ブーベ島での私の滞在は、私が居たいだけ居られたのではなかったが、少なくとも島に着いて、そして、
それ自身は楽な仕事ではなかったその場所に私が到着して、少なくとも、私はおよそ5000の仲間達にも
う一つの「ニューワン」を与えて彼らを幸せにしました。
 そこに到着できる別の「砕氷船」に出会わない限り、誰でもそこに行くのは絶対に不可能と思えるとあ
えて言うでしょう。そのような巨大な船をチャーターすることは、故郷の仲間達から受け取る通常の寄付
では論外です。
 そのような船をチャーターするコストがどのくらいか、私は判りません。しかし、もっと小さい船をチ
ャーターするコストについて考えると、それは、1日に1万ドルかそこらになるだろうと私は思います。

 それから、あなたが島で運用している間、1日のチャーター代が未だ続くでしょう。そこで、一寸ざっ
と計算して、ケープタウンからそこまで2日かかり、それから5日間滞在します。それから、ケープタウ
ンに戻るために更に2日かかります、そこで船を7日間借ります。1万ドルが7日間で、7万ドルになり
ます!
 勿論、ただ一つのDXスポットをオンエアーさせるために、ハムのDXpeditionにそのような大金を、
使う余裕がないことを私たちは知っています。

 私たちは、テントを片づけ、バーチカルをたおして防水袋に戻すことができるように、それぞれの違っ
た部分に分解する沢山のことを急いでしました。付け加えると、私たちは発電機を包み、すべてのスーツ
ケースを用意するなど、それらはおよそ1時間かかりました。私たちは、小さなボートが私たちのところ
に来るまでにそれを仕上げました。

 凍りついた岩石群の上を滑りながら、ゆっくり動く氷によって上下するライフボートに再び積み込み、
私たちはボートに飛び込みました。更に、もう1時間かそこらの旅のあと、私たちは砕氷船に戻り、クレ
ーンのようなデリックで、私たちは再び持ち上げられ船の上に戻りました。

 砕氷船の船長は、LH4のあと船を南に向けることを決めました、ことによると南極に南アフリカのステ
ーションを置こうとして。船が、浮氷の間で漂っている間、私たちがそこへ行く途中、私はMM局を運用
するためにロングワイヤーを張るのに多忙でした。私は、仲間達に、私たちの進行状態を知らせたかった
のです。
 ブーベ島についての、私自身の意見は、そこは、不快で、寒く、惨めで、荒れ果てた場所で、そして人
間が滞在するには不適当なところです。これが、そこの真夏だったことを思い出して下さい。そこは、真
冬には非常にすばらしいところであるに違い有りません。
 船は、非常にゆっくり、島から遠くに行きました。島の私の最後の光景は10か15マイルほど離れたと
ころで、水面の上に島が白く大きな氷の塊として現れました。

 私は、その日の午後遅くオンエアーを始めて、まさにその最初の3回のQSOで、私は聞かれました、
「いつブーベ島に戻ろうとするかと」彼らは私を落としたと言いました!私は彼らに言いました、私が戻
るまで元気でいるようにと、なぜなら、私がそこに戻るまでには、それは非常に長い時間になるだろうか
ら、彼らは死んでしまうかも知れないと私は考えたので。もちろん、もし私にチャンスがあれば、明日に
でも私はそこに行くでしょう!

氷を割る研究  

 私たちが南へ行くほど、浮氷群はより重くより厚くなり始めました。それは、船が通過する氷を割るた
めに、何回もの後退とフル前進を要しました。その砕氷船が氷を通るのは次のようでした;
 船の船首は、非常に僅かの角度をもって、ある長さだけはみ出していました。船の舳先の底は、かなり
急でシャープなエッジになっていました。
  船が固く凍った氷原を通ろうとしたとき、それは氷からかなり後退し、それから、フルスピードで前
進します。船は固く凍った氷原の上をスライドし、船の全重量と、鋭い下側のエッジで氷を割って切るで
しょう。船が氷を割るとき、それはパキット割れます。それから、船の底が、氷の下で、海水を打ち、大
きな水煙があがります。

 それから、船は再び固い氷からバックして、再び固い氷の中へ全速前進します。もう一度、割れて水煙
があがり、再びバックします。これが何度も何度も繰り返され、私たちはブーベから離れて南極大陸の方
に近づきます。

 この後退と前進の繰り返しのおよそ3昼夜のあと、私たちは、遂にブーベの南200か300マイルに到着
しました、氷原はずっと厚くなり、天候は更に寒くなってきました。それは,難航でした、そして、また、
確かに非常に遅い前進の行動でした。
 この調子では、私たちが行こうとしている南極大陸に私たちが到着するのに、どのくらいかかるかを言
うのは非常に難しいことでした。
 しかし、私は決してそれを見つけるチャンスを得ませんでした、なぜなら、あるとき私たちは氷をどん
と打ち、それから船の後ろで氷水が凍り始めました。私たちは、どんと打つ「仕事」を続けるのは困難で
した。

 船長は、もし天候と海水が更に冷え込むなら砕氷船は氷原の中で凍りつくであろうから、さらに南へ行
こうとするのを止める時だと決めました。何回もの、後退と前進の努力のあと、船は遂に向きをかえるこ
とが出来、私たちは南アフリカのケープタウンにまっすぐに向かいました。

 氷原を割っているそのすべての動きを私がデッキに出て見守っている時を除いて、その間中、私はオン
エアーしました。今、私はよくわかりました、なぜそれらの船が砕氷船と呼ばれるか、なぜなら、まさに、
それらが氷原を通るときに、それらがしていることですから。それらは、文字通り、自分たちの道を切り
開きます。私は、それらの名前は適切だと言います。

 ケープタウンに戻るのには3昼夜かかりました。私たちは2昼夜のあとで浮氷から抜け出ました。氷原
は、正確に、急激に、決まった線から始まります、そしてそのラインを離れるとき、そこここに少しの浮
氷を見るだけです。時折、氷山がありました。
 浮氷群から離れてから、私たちは、「鯨の水域」と呼ばれるところに入りました。私たちは、沢山の鯨を
見ました、普通は群をなしているようでした。

ケープタウン・文明に戻る  

 時々、25か30ほどの鯨が潮を吹いているのが見られます。私たちが、十分近くにいたとき、私は実際
にそれらが「吹く」のを聞きました。私は、「そこで彼女らが吹く」の表現はこれから来たと思います。
 何回も、船はそれらの鯨の「群」のまん中に乗り入れました。それが起きたとき、それらの殆どは、ま
っすぐ潜水して、底の方に潜水したときに、その大きな尾鰭をまっすぐ上に支え上げます。そのような、
大きなサイズの魚について考えるとき、それらが、水中でどのくらい良く動けるのかを信じるのは困難で
す。それらのろのろした動物に関して、私が気づいたことは何もありませんでした;鯨たちはは非常に活発
でした。

 3日目の午後、私たちが港の25か30マイル南にいたときケープタウンの大きな山を見ることができま
した。突然、私たちは再び文明の中に戻りました、そして、戻ったのは良かったと思えました。
 ドックには、私の友人達、ジャック・ZS1OU、マージ・ZS1RM、が私の到着を待っていました。彼ら
二人は、すべての荷物を下ろすのを手伝ってくれ、市の郊外25マイルかそこらの、海岸で私がストラン
ドと呼ぶ場所にある彼らの家へ行きました。
 いつものように、彼らの冷蔵庫には特別に私のために沢山のコークがありました。冷蔵庫の残りは、私
のために、本当に一杯の果物とその他の食べ物が入っていました、それらは私が過去数ヶ月全く食べてい
なかったので特別に美味しく味わいました。
 やってきた彼らの「ブドウのシーズン」や「桃のシーズン」から私は離れていました。

 彼らのシャックを再び私に提供してくれました。実際、毎日、彼らが仕事に行っている間、彼らは家全
部を私に提供してくれました。その時、彼らと一緒にいる私の滞在は非常に短時間でした。
 私は、将来発行される73誌にでるだろう別のプランを持っていました。それらは、何れ発表されるで
しょう。
 ブーベとゴフ島は私と共に過去の歴史になりました、そして、私は南カロライナとペギーのところへ戻
る前に私が運用したいところの別のスポットへの途中でした。
098M052007  2007.5.31
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