W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その41)   アマチュア目次へ戻る

                                                        
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第20章 (1) ZD9AMからのファーストQSOはZS1RMに    

 前回の章では、私は丁度,島に上陸したところでした。(あるいは、その金網の籠が丁度到着したところで
した。)普通の握手と挨拶が終わったあと、私は仲間達に、私の小さなテントを建て、私が島に持ってきた
40フィートほどのマストを建てるために助けが少し必要であると説明しました。彼らは皆、元気よく仕事
にかかり、2,3時間で私は準備ができました。

 一方、船の方では、その日の残りの仕事は取りやめると言いました、それは、私が上陸すると直ぐに風
の向きが変わったからでした。その大きな波は、再び高い崖に向かって打ち付け、その日の残りの時間に
他の荷物を岸に上げることを不可能にしました。

 私は無線機を調整し、SWRの値を低くするためにグランドプレーンのワイヤーを長さを調整しました、。
7,000から7,200の40メーターで、SWRは1:2より低く、20メーターと15メーターではさらに低かっ
たです。私は、各バンド(40, 20と15 )に同調させるため、2本のグランドプレーンワイヤーを切るこ
とがそれ程大変なことではないと判りました。

 ZSとLUからの信号はローカルのように聞こえました。私は、コールサインすら言わないで丁度14065
で調整を終わりました、そして、マージ、ZS1RMが彼女のキイを何回か叩いて「ガス?」と聞きました。
私は応答し、ZD9AMからのファーストQSOを彼女に捧げました。彼女はS9+でした。それから狂った
ようにQSOしました。最初は、ZS局の束で、それから非常に多くのLUとPY、その後はヨーロッパの
順になりました。それから、W1, 2, 3, 4達でした。それは、エサ場で鳩を撃っているようなものでした。

 太陽黒点が私にはついていなかったことを考えても、確かにバンドは素晴らしかったです。実際、幾つ
かのVE8、ユーコンの局と何局かのKL7もはっきり聞こえて終わり、バンドは殆ど一晩中開いていまし
た。この場所から、コンディションが非常にFBになろうとしていることが判りました、そして、一、二
週間ほどの間に、私がさらに南へ行ってもコンディションが同じようであることを願っていました。

 太陽が沈んで、私が持ってきた25ワットのライトを点けたとき鳥達の問題が始まりました。そのライ
トを点灯してテントのフラップを開くことは殺人でした。外へでる必要がある時に、私がライトを消すよ
うに賢くなるまで、その野蛮な鳥の群に何回も襲撃されました。

 もし、フラッシュライト(そこでは、彼らはそれをトーチと呼びます。)が再び点けられると、それらの
鳥たちは私にぶっつかります。キャンバスから漏れ出たほんの少しの光でさえ、あとで、鳥達を引き寄せ
ました。これは、漆黒の闇になったあとでした。それからは、無線機のダイアルランプからのほんの少し
の光で運用しなければなりませんでした。ある時、このようなことをしてご覧なさい。私は言います、そ
れはできますがそれは決して良くはありません。

 それらのうるさい鳥たちがテントの横を打つ音は、誰かが石を投げるように聞こえました。その種類の
QRMはバンドでのQRMと同じくらい悪いものになります。パネルライトだけでの運用はその問題を克
服しました。

・寒い天候と鳥たちにも関わらずDXingは素晴らしい

 翌朝、概算しておよそ5千万羽の鳥が島に居たと、仲間が私に言いました!鳥たちの大部分は、「夜の
鳥達」と呼ばれる鳥達です。それらの鳥達は、ゴフ島に来る前は「日中の鳥達」だったのが、何羽かのど
う猛な日中の鳥達のために、夜の時間にでるようにされたと言われています。もし彼らが昼の時間に現れ
たら日中の鳥達は彼らを攻撃するでしょう。

 卵が非常に豊富であり、沢山の卵がそこに滞在する仲間達によって食べられました。日中は、島のまわ
りを散歩する機会があり、非常多くのアザラシ、セイウチ、アシカを見ました。アシカは非常に汚く、時
にはひどくほえて、そばに近づくと飛びつき、く汚れて見える生き物です。

 さらに、非常に沢山のペンギンが居ました;非常にきれいで、とても親しげで人間を恐れないように見
える小さな悪戯ものです。私のDXpeditionのあとの一部で、彼らと過剰に親しいことが非常に荒っぽく
なることを私は判らされました。これについては、その時が来たら話すつもりです。

 太陽が沈んだとき、東南の風が吹き始め、全く冷たいじめじめした天気になりました。それは、まるで
直接南極から来たように感じました。私は、一組の赤い防寒された長いハンドルを持っていたので、私は
かなり快適でした。付け加えれば、私は、素晴らしい厚手のセーターと、私の膝までもある長く暖かいウ
ールの靴下を身につけていました。

 料理などは、彼らのテントでQRXしている乗組員達によって上手に世話されました。それは、3軒の
プレハブ測候所を建設していた乗組員達でした。

 それら南アフリカの人達は非常に良く食べる人達でした、彼らは非常に自然にロックロブスターの肉を
好みました。私の場合、直ぐに、そのひどい白い肉はずっと好みではないと言うようになりました。彼ら
は、朝食でさえ大きな皿一杯のロブスターの肉を食べます!もう沢山、私はもう我慢できない。それが、
私が持参したなにかの缶詰の食料を食べ始めたときでした。

 ポークと豆が非常に美味しい味がするとは私は考えませんでした、そして、幾つかの豆入りのポークの
缶と、缶の中の小さなフランクフルトソーセージは非常に素晴らしいものでした。私は、沢山のコークも
持ってきましたが、寒い夜には、それは美味しくありませんでした。少なくとも、それは失敗でした。殆
ど毎夜、一晩中起きていて、そして日中は殆ど寝ていました。

 DXingを好きな人達にとって、私が時間を過ごすためにするのと同じくらい、それはとても素晴らしい
ことでした。しばらくして、それが殆ど仕事のようになっても、面白いことにそれでは私は決して疲れま
せんでした。しかし、あえて、私は言いましょう、それは非常に楽しい仕事でした。
(093M042507 2007.4.25)
ガスが1962年11月に運用したZD9AMのカードです。
運用していたときにはゴフ島からと言ってました。
しかし、カードにはトリスタン・ダ・クーニャとゴム印があり
どの島から運用したのか疑問に思っていました。
この章で、運用はゴフ島だったことが確認できました。

ゴフ島での17日間

 このような南大西洋の場所で、私の残りの生涯を行き詰まらされるのは間違いなく嫌です。もっと冷た
く湿っぽい、そこの冬の期間を除けば、これは、そこでのいつもの天候のようなものだ、その仲間達は私
に言いました。私は、彼らが「夏の季節」と呼ぶ期間にそこに居ました、もし冬がもっとひどいならそこ
に居続けるでしょうか。それは私ではあなりません。なつかしく、暖かい南カロライナの夏と冬の季節を
私に下さい。少なくとも、時には一寸よい天気もありました;その場所の天候について、私が言えるより
も多く。

 ゴフ島での滞在は、5,6日だろうと考えられていました。それは、私たちがケープタウンから運んだ
測候所と観測員のためのプレハブの家を組み立てるために必要な時間でした。彼らの計画には、天候につ
いて考えられていませんでした。毎朝、丁度夜明けの時、海は非常に穏やかに見えました、しかし、最初
のはしけにプレハブの部品が積み込まれる前に風は変わりました。はしけの接岸と材料を金網の籠で揚げ
ることは不可能でした。

 それが17日間続きました。実際に、その17日の間で全てが少なくとも岸に上げられ、一緒にして私た
ちはそれが終わったのが嬉しかった。そのずっと前からバンドは悪くて、かろうじて私は運用していまし
た。私は、QSOするために、2回か3回のCQを呼ばなければなりませんでした。ものごとがこのよう
になった時、DXpeditionは移動するべき時で、また、私がまさにそうしたいことでした。

 出発の前の夜、翌日の日の出の30分前に島を出発する準備ができているようにと私はメッセージを受
け取りました。私は日の出前に起き、全て取り外し、セットは再び油紙で包装されました。私を拾い上げ、
金網の籠に移すために船が上陸用のはしけを寄こしたときには、私たちは準備ができていました。

 古く、さび付いた起重機が下降し、ワイヤをゆるめ、私と私の物と一緒に、籠ははしけのところに下り
ました。私は、そのケーブルが切れて、DXpeditionがほんとうに突然に終わってしまうことを、再び、
とても心配しました。しかし、私はやりました、そして、無事に上陸用はしけに足を下ろして私は非常に
安心しました。私たちは、船に戻りました。はしけは、再び、それが収納される船の中程の位置に、つり
上げられ戻されました。

 私は船長と話しました、それは、「ロックロブスター船」の一つと連絡をとったと彼が私に言ったときで
した。その船は、ケープタウンに戻る途中でエンジントラブルを起こし、ケープタウンからおよそ250マ
イル離れたところで漂流していました。彼らは、修理のためにケープタウンへ牽引するために来てくれる
ようにと船長に頼みました。これは、ブーベ島へ行く私たちの計画を完全に覆しました、なぜなら、私た
ちの船は、数週間かより短い間、ケープタウンの乾ドックへ入らなければならなかったのです。

093M042507 2007.4.28
第20章 (2) 船はブーベ島へ行くように命じられました

 私たちは、遠くで航行不能になった船に向かいました、私はゴフ島とそれらのひどい鳥達から離れられ
て、正直に嬉しかったです。

 私は、船にアンテナを直ぐに建て、ブライアン、ZS6ANEに電話をして貰うためにZS6局と交信しま
した。私は、ブーベ島へ行くチャンスがダメになろうとしているのが判りました。ケープタウンの乾ドッ
クへの日にちは既に決められていたので、もし、私たちが、航行不能のロブスター船をケープタウンに牽
引することを続ければ、私たちがブーベ島へ行くことは不可能になるだろうと船長は私に言いました。

 それは、DXpeditionにとって最初の大きな災難になるでしょう、なぜなら、ブーベ島は、私がなぜ旅
をするかの本当の理由です。そこは、DXの処女地です、そして、私はDXマップにどうしてもそれを印
したかったのです。私は、ブライアンに、物事がどのように進んでいるか、そして、あたかもブーベ島が
ダメになるかも知れないと思われることを彼に話したあとで、彼がプレトリアの実力者になにか手づるを
持っていないかを尋ねました。彼は私に言いました、「ガス、心配しないで、あなたはブーベ島へ行くでし
ょうとあなたに言います。」彼は「数時間待って下さい、そしてあなたは行くことができるのが判るでしょ
う!」と言いました。

 私たちは5時間後のスケジュールを決めました,それから、私はQRZを出してずっと沢山の人達とQSO
しました。それから、私は食堂に下りていき、ロックロブスターの昼食をとりました。その高級な食べ物
の中身をその時食べたので、今では、それに触ることもできません。

 私はスケジュールの時間に無線機のところに戻りました。ブライアンはそこに居て、彼が最初に言った
のは「ガス、よいニュースがあります。1時間かそれよりも早く、あなたの船はブーベ島へ行く途中にあ
るでしょう!」私は、この「よいニュース」についてお礼を言い、さらにもっと沢山のQSOをしました。
実際に、一等航海士(多分そうでしょう)が私のキャビンに来て、「ガス、私たちは、たった今、ブーベ島
へ行く途中に居ます。」と言いました。私たちはそこで続けるように命令を受け取りました、そして、航行
不能の船は私たちからの何の助けもなしでいくことになるでしょう。

 私たちはブーベ島へ進むように命令を受けました。それは、私にとって素晴らしいニュースでした。私
は、直ぐに、オンエアーしてこの素晴らしいニュースを仲間達に伝えました。私は、それから無線機のス
イッチを切って、舵輪を担当している人と話をするために、船尾楼甲板へ上がっていきました。私が入っ
たら、最初に、彼は丁度方向を変えて、私たちはブーベ島へ行く途中になったと私に言いました。

 彼は、氷と雪に覆われた島の一つに寄港しました。それから、彼は、私がそこを歩くためには一杯必要
だと言いながら、沢山の防寒着を持っているかどうか私に尋ねました。そこは世界中で最も不健康で寒い
場所で、彼は1000ドルでもそこへ行かないだろうと言いました。彼は、もし私がそこに上陸しようとす
るなら、私は非常に厳しい旅の中に置かれると言いました。

 私は彼に言いました、ブーベ島へ行くことは私がこの旅に来た理由で、何ものも私を止めようとするこ
とはできなくて、これは、多分この場所に行くための私の最後の、ただ一つのチャンスだろうと。

デッキを歩きながら考える

 その人との、この一寸した話は、私が行きたがっていた以上に、私をそこへ行きたくしました。私は挑
戦することが好きです。

 その日の午後、太陽が沈んだ時、私は星を見にデッキへ出て、南十字星が少し高くなっていたのを見ま
した。風は少し冷たく更に活発でした。濃紺の空はクリアーで、何か冷たいように見えました。波はいつ
もより三角波が立っていました。私は、それから操舵室をうろつき、レーダーを見るのに魅了され、音響
測深儀を見たり奇妙な音に聞き入りました。

 そうだ、ゴフ島で起きた一寸したことを忘れないうちに言うことができました。島に数日間居てから、
3隻のロシアの捕鯨船が、私たちの船から数マイル離れて投錨しました。その船が島の観測所建設の進行
状況を観察しているのを私たちは双眼鏡で見ていました。船のオペレーターは、無線で彼らを呼んでみま
したがいつも応答がありませんでした。

 彼は数時間待ちました、そして、ゴフ島に来ると思われる米国の捕鯨船のグループを想像で呼びました。
彼は、それらにOKと返事し、それを繰り返し、彼が、OKあなた方5隻の船は明朝の日の出の時にここ
に着くことを期待していると返事したと彼らは思ったでしょう。さて、最終結果は、翌朝、ロシアの船が
出発したことでした!したがって、あなたが見たように、時に、幽霊の局とQSOするのは、アマチュア
無線家だけが唯一のものではありません。

 私は、そのことを昨日のことのように覚えています、ある冬の寒い夜、バンドは全く死んでいた時、何
が起きるかを一寸見ようと私はAC4YNとゴーストQSOをしました。私が受信にうつったら、そこでは
5局がAC4を呼んでいました。そのうち2局はDXCCオナーロールのトップに近い仲間達でした。呼ん
でいた局の一人は、AC4YNが彼に答えてきたかと私に尋ねました!勿論、これは、私が家に戻って
W4BPDの時に起きたものです。そうだ、もし、あなたが耳を開いていて、ただ受信するだけであっても、
ハムバンドではいつも面白いことがあります。

 翌朝早く、デッキに出て、私はただ見回すことを沢山しました。私にとって、デッキのまわりをただぶ
らつき、青い遠くを見て考えるのはよい時間つぶしでした、故郷の愛する人達を思い、腕時計を見ながら、
故郷では何時だろうかと計算して、それから、ペギー、ジョーアン、サンドラ、ガス2世、あるいはボビ
ーはその時何をしているだろうかと思います。それから、色々な鳥を見ます。そうだ、なにかの理由で、
あなたが海にいるとき、いつも、沢山の鳥を見ます。空高く飛ぶ鳥達、中間を飛ぶ鳥達、それから普通は
海面から100フィートかもっとで、カモメがいます。何羽かは、波の縁の下にいました。小さな海燕は、
波の谷に下がったり、波が砕ける頂上すれすれに飛んで波についていました。彼らが何を探していたか私
はさっぱり見当もつきません。

巨大な氷山が見えた

 時折、私は何百もの海カモメが蜂のように集まり、頭を先にしてヘッディングして、波間に真っ直ぐ飛
び込むのを見ました。もし、彼らが近ければ、時折、彼らのくちばしに魚をくわえて飛び上がるのを見る
ことができたでしょう。鳥達が海面に向かって飛び込むとき、ずっとギャーギャー鳴いていました。時折、
波が余り高くないとき、アヒルが池の中に座っているように海カモメは海面に着水しました。私は、彼ら
「海鳥達」は、その生涯で、殆ど陸を見ないと思いました。しかし、私は「野鳥観察家」ではないのでた
だ推測しているだけです。

 沢山の鯨が見られました、そして、より遠く、南に行けば行くほどさらに鯨は沢山になりました。鯨達
は冷たい水が好きに違いありません。

 ゴフ島からおよそ、2日目か3日目に最初の氷山を見つけました。それは、海に漂う、ただ冷たく白っ
ぽい塊でした。最初の氷山は自動車くらいの大きさのようでした。水面にあるのは、その約20%であると
言われます。私たちがさらに南へ行くと、もっと沢山の氷山を見ました。その夜、彼らが一晩中、特別な
氷山監視員をレーダーに座らせたのは確かです。ゲインをあげた時には、波が高いときでも、氷山はスク
リーンで非常に容易に見ることができました。音響測深儀でも大きな魚を見ることができました。スクリ
ーンの上の物体が判定されたら、それらの幾つかはとてもばかでかく大きかったです。それらの物体は多
分大きな鮫か、鯨かも知らないと言われました。

 その夜、いつものように、私はデッキに出ました。南十字星は、その時までに天頂にとても近くなって
いました。私たちは、順調に進行していました、そして、風が顔にあたったときは氷のように感じました。
私は、私自身に言いました、「もし、これがもっと南の方の例であったとしたら、南極大陸では、それは確
かに寒いに違いない。」

 翌朝、私のいつもの「見回り」で私がデッキに出たとき、空は完全に曇り、全く寒く冷たくなっていま
した。至るところに、沢山の氷山がありました。大きいのは10階建てビルと同じくらい、小さいのは水
を入れるバケツくらいの大きさでした。それらは、見渡す限り広がっていました。それは、K8TRWが私
に送ってくれた、一組の「ロングハンドル」を付けて、私の小さなキャビンに戻ったときでした。

 私はデッキに戻った時、私ははるかに快適だったと感じたと言えます。あとで、そうなるだろうと言わ
れて、本当に寒くなった時、それらの物がなにかと便利になったのが判りました。鳥達は、今や、前より
もはるかに多くなりました。彼らが、どうして、その氷のように冷たく、湿った空気に耐えることができ
るのか私は決して判りません。鳥達は、そうするための沢山の熱の体勢を持っているに違い有りません。
砕氷船上のガスの写真・Collins社PR誌「Signal」(1993年Winter号p12)に
掲載されていたものからの引用です。
094M043007 2007.4.30
第20章 (3)ブーベ島の周囲の海を浮氷が覆っています

 私をもっとも驚かせたのは、浮氷の上に座っているアザラシを見ることでした、そして、船がアザラシ
に近づいた時、アザラシたちは氷の割れ目や、二つの氷の間の深い割れ目に飛び込みました。時折、一匹
が残りの全部より少し勇敢で、氷の頂上に止まっていました。ストライプのアザラシ、(彼らは、それらを
「タイガーアザラシ」と呼びました)は全体の中ではもっとも勇敢だったようでした。

 この間に、私は、島への私たちの進行の様子を仲間達に伝えるために出来るだけ多くの時間をバンドの
運用に使いました。私は、もしあらゆるDXpeditionをする人達が同じことをするなら、それがDXpedition
をはるかに面白くすると思います。それは、あなたがそのレアースポットに近づくにしたがって、仲間達
に、あなたの経過を見守る機会を与えます。私は、それが「追いかける」部分の注意を引くかも知れない
と思います。

 あなたがどんどんスポットに近づくとき、あなたがいつ頃島に到着するかを仲間達は知ることができる
でしょう、その結果、彼らのボスに電話して、「私は病気だ」と彼らを騙したり、かつぐ良いチャンスを彼
らに与えます。私は、それがどこかのレアースポットから、警告なしにただ急に現れて、彼らが3日か4
日の休みを取ることなしで、沢山の仲間があなたを取りそこなわせるよりよいと思います。これは、また
彼らの給料に大きな影響を与えるでしょう。また、彼らが寄付することが出来た金額にも影響するでしょ
う、これは良くないことです!

 私たちが、ブーベ島へおよそ100マイルになったとき、海は浮氷に完全に覆われました;これはそこの
真夏だったことを思って下さい。(それは、私が思い出せるかぎりで、およそ12月5日頃でした。)
(注1)
そこの真冬の状況を思い描くのは、とても難しいです。(私は、それが7月だろうと思います。)彼らは、
立派な砕氷船のようなのでなければ、船が真冬にそこに行くのは不可能ですと私に言いました、そして、
それをチャーターするには、私の食事代、一日に3ドルに対して、多分一日に、およそ2万ドルはかかる
でしょう!彼らは、また、そこの冬の時期にはそのエリアから離れていると私に言いました。

 私が乗っていた小さな砕氷船は、浮氷をしつこく叩いて、私たちが通るように、浮氷を小さな氷の塊に
割って、浮氷の中をかき分けました。彼らは3月に、私はその頃だったと思います、氷に捕らえられたこ
とを私に言いました、彼らは、助けてもらうために米国の砕氷船が来て、脱出するための道を切り開くよ
うにに頼まねばなりませんでした。

 ゴフ島から4日目のことだったと私は思います、私たちは、遂に遠くにブーベ島を見ました。それは,
頂上が厚い氷で覆われたチョコレートケーキのようでした。島の大部分の壁は殆ど垂直です。私たちが近
寄ったとき、全部のその凍った雪と氷が、実際に、ゆっくり動いていたのを私たちは見ました。私たちは、
頂上のふちから、とても大きな割れた幾つかの塊が海面に転がり落ち、それが落ちたとき非常に大きく水
を跳ね上げたのさえ見ましました。それは、あたかも、荒涼とした、寒い、吹きさらしの、神に見捨てら
れた、南極の山の頂上の様に見えて荒々しくなろうとしていました。

・サーカムシジョン・ポイントへの寒い航行 

 私は、その夜オンエアーして、遂にブーベ島に「着きました」そして、明朝、上陸を望んでいると、仲
間達に言いました。日の出がおよそ2時15分(これはローカル時間です)であることがわかり、その時
間以後なら、いつでも私たちは上陸の準備を始めることが出来るのを意味しました。私は、その夜、およ
そ午後11時まで運用してから、短い休息のためにベッドに入りました。しかし、寝つくことが出来るか
は別の問題でした。私は、何もすることが出来ないくらいに非常に興奮していて、彼らが私を起こす前に、
多分1時間かそれ以上の睡眠をとり、そして、彼らは私を起こして、言いました。「さあ、行こう、その時
です!」


 全ての物が、キャンバスと油布の両方で非常に注意深く梱包され、これから乗り出そうとする荒れた海
で、ボートから滑り出さないようにロープで安全に止められて、大きなライフボートに積み込まれました。
私たちは、島の地図で、「サーカムサイズ・ポイント」
(注2)と呼ばれ、実際にマークされた場所がわか
りました。(誰か、フランス人が命名したと言われます。)そこは、幸いにも島の北東のコーナーで、米国、
アフリカ、南米、そして、アジアへの伝搬には、丁度、正しいスポットでした。しかし、ZLとVKへは、
南と南西の両方が切り立った崖によって非常に厳しく遮蔽されていました。このポイントは、平均的な町
の、二つのブロックの大きさで、そして、満潮時でおよそ15から30フィートの高さだったと私は見積も
りました。

 大きなライフボートに全ての物が積み込まれたあと、デリック(それはクレーンと呼ばれるでしょう)
は、文字通り、ボートを拾い上げ、そして、海面上の方へ動かし、ゆっくり私たちを下ろしました。ボー
トには我々5名が居ました。私と、一人の南アフリカ人を島に残して、調査のために船がゆっくり島のま
わりを廻っている間に3名は船に戻りました。彼らは、多分、将来そこに気象観測所を置くための場所を
探していました。

 船は、私たちが上陸したところからおよそ1000フィートかそこらのところに錨泊しました。私たちは、
浮氷の中に離されたあとで、時にはオールで氷を押して、私たちは、注意深く、舵を取り、操りました。
私たちは、島に向かって進行中でした。私たちが船を出発したときは、およそ午前4時頃だったと、私は
思います。私たちには、1000フィートかそこら行くのに、ひどく大変な、寒い仕事で2時間かかりました。

 気温は、華氏でおよそ20度か更に低かったと思いました。(マイナス7度C)風が私の顔に吹き付けた
ときは、それは絶対に殺人的でした。私は、次のような衣服を着けていました。普通のショーツ、下着の
シャツ、それから、二組のレッドロングハンドル(それは防寒下着と言われます)、それから、フランネル
の丈の長いシャツ。付け加えて、二組のウールのズボン、一組の普通のソックス、そしてそれから、私の
膝上6インチまでの一組のウールのソックス。更に付け加えて、非常に厚いタートルネックのセーター、
そして、目のスリットだけが開いているウールの帽子。

遂に、私たちはブーベ島に居ました

 私は、このために、ドイツで買った大きな厚手のオーバーコートも着ていました。これは、私がブーベ
島へ行こうとしていることがわかったあとで私に送られてきました。そして、最後に重要なことを述べる
と、毛皮で裏打ちされ、殆ど私の肘まであるような一組の手袋、それでも私は寒かった!暑いアフリカと
インド洋の島々での、決して寒さを感じなかった非常に多くの運用によって、私の血はかなり薄くなった
に違いなかったことを知ることができました。私は、まるで、「詰め込まれたヒキガエル」にそっくりだっ
たと思います。それを全部来ている状態では、動くのさえ大変でした。

 私は、南カロライナで、今、まさに夏の終わりに、これを書いています、今丁度、気温が90度もあり、
空調が壊れているところで、私のDXpeditionのその部分を思い返すのは、私にはとても難しいです。し
かし、本当に静かに座り、目を閉じて、じっくり集中し、そして考えると、それは、ゆっくり私に戻って
きます。もし、私にチャンスがあれば、再び行きますか、どうします?その質問には、絶対にイエス、

 引いたり、押したりしたあと、それにモーターの助けで、私たちは 、ボートの手すりのトップから、
およそ5フィート高いスポットに遂に到着しました。それは、南アフリカ人の仲間が履いていた、スパイ
クシューズが役に立ったときです。彼は、ずっと、滑ったり、転んだりしながら、どうにかして岸に上が
りました、彼は沢山の小さなペンギンたちと何羽かのキングペンギンに取り囲まれました。彼らは、とて
もフレンドリーに見えました。

 私の全部の物を岸に上げるのは楽な仕事ではありませんでした、そして、私たちがそれらの幾つかを海
中に失わなかったこと、特に、大きな波がやってきたときに落とさなかったことは、今日まで私は驚いて
います。そのように大きな波が私たちの方にやってくるのを見るのは面白いことでした。丁度、南カロラ
イナのガラガラヘビがゆっくり行くように、浮氷が、ゆっくり高くなるのを見ることができます、しかし、
実際それは私たちを助けました。私たちは、大きな波が到着する時を見積もりことができて、そして、そ
れから、私たちの材料を、岸の仲間の近くまで上げるのにそれを使いました。

 全てを岸に上げるには、少なくとも1時間はかかったと私は思います。岸に上げる最後のものは「私」
で、私の中央に結んだ長いロープの助けを借りて、そして、アフリカ人の仲間が一方の端で引っ張りなが
らでした。しかし、私はそこに到着しました!私は、遂にブーベ島に居ました、私とアフリカ人の仲間と、
そして、何千羽のペンギンの友達も。

 ライフボートが出発したあとで、私たちはすることが沢山ありました;テントの設置、凍った大地への
アンテナの建設、、パタパタを動かすこと、私が置きたいとして選定した場所まで、ガソリン50ガロンの
ドラムを転がすこと。タンクがあった、いいえ。それは圧縮された2個のタンクでした、そして、小さな
ガスヒーターさえも。もっともすばらしかったのは、そのヒーターでした。それは、私、それにエンジン
をスタートするとき、暖かくしました。

 来月は、ブーベ島とペンギンについて、もっと。

(注1)私の資料では、ガスがブーベ島にいたのは11月26日から28日頃まです。
(注2)サーカムシジョン・ポイントは、Circumcision で、これは割礼と言う単語です。
095M050507  2007.5.5
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