W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語
 
 
これから新たに掲載するストーリーは、Gus が1965年2月から書きためていた手記で、昨年彼の息子
さん が発見し、Gusの友人John W Baxley氏に届けられたものです。
 この手記は、200ページ以上にものぼるそうで、この一部は1967年4月に創刊されたGusのDX情報誌
「The DXers Magazine」に掲載されていた可能性があります。しかし、その膨大な量からみて、ほとんどは
未発表であろうと考えられます。
    
(第7章 (4) の初めのところに、73誌の名前が出てきます。従って、この原稿は米国のアマチュア無線誌「73誌」
      に掲載されていた可能性がありそうです。そのうち調べてみたいと思います。 JA1DM)

 このたび、Gusのご遺族の了解を得て、John W. Baxley 氏が彼のホームページにこの手記を掲載する
ことになりました。そこで、これまでのGusの記事と同様、私のホームページにもその翻訳をのせること
にしました。
 手記の量が非常に多いので、完結するまでには、少なくとも1年半はかかるだろうとBaxley氏は考えてい
ます。
 この手記には、GusがQRVしたアマチュアで始めてのブーベ島からの運用手記も含まれています、
どうぞご期待ください。

(Baxley注: ガスは、まえがきのページの最後に「まえがき」は1965年2月8日に郵送したと記していました。)

 なお、この手記はGusのご遺族に著作権があり、Baxley氏の原稿には同氏の著作権があります。
従って、私のこのページにも著作権が設定されますことをご理解ください。

W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その1)   アマチュア目次へ戻る
 
導入編

 高い峰がそびえるヒマラヤ山麓のブータンで、AC5PN, N. Chhawna の家にある私のベッドルームのタイプラ
イターのところに座ったこの瞬間から、この物語を始めるとあなた方にお知らせすることからスタートしたいと
思います。

 今は、全部のアマチュアバンドが閉じられています。

 さあ、この物語をきちんとするため、私の人生の始まりからスタートするべきで、そうすれば、あなた方は、
なぜこの世界一周旅行の全ての作業が、ハムバンドの幾つものレアーカントリーの一つから運用するために、
それで、世界中のアマチュアが「ニューカントリー」と交信するチャンスが得られることをあなた方は理解するで
しょう。

 私は、最初から始めるつもりです。
 私はあなたがたに、物語のある部分はドライだろうし、あるものは時々忍び笑いをすることを私が望むことを
あらかじめお知らせしておきます。


 殆どの人と同じように「私は生まれました」。
 これは私にとって、サウスカロライナの小さな町で、1908年11月25日、火曜日に起きました。(ドイツ製の
電卓によると、それは火曜日でした)
(Baxley注:最新の
カレンダーによると、この日は水曜日だそうです。

 私の生後数ヶ月の時に、家族はサウスカロライナの小さな町エロリーに移りました。それは、なんと言うか、
私の少年のスタートでした!
 私は、サウスカロライナ、エロリーの近くの貧しい綿花農場の子供でした。私は何か世界を見たいと思ってい
ました。正直には、私の古い故郷、エロリーから21マイル離れた小さな町、オレンジバーグよりも遠くを知る
ようなどのような希望も私にはありませんでした。

 しかし、物事がたまたまこの全てを変えたのがあなた方にはわかるでしょう。
 ある日曜日、私たちの年取った黒人のコックがオレンジバーグに行き、家に戻ってきて、彼女が見た飛行機の
全てについて、私たちに話したことを私は良く覚えています。彼女は、翼の上のロッキングチェアーに白人の人々
が座って、そして、飛行機が飛んでいる間、彼らは椅子を揺らしていたと私たちに話しました。
 これが、世界中を廻ることを、私の心に決めました。
 もし、あなたがまるまる一週間、そのようなロッキングチェアーの一つに座っていたとして、そして、飛行機
はその間中飛び続けるなら、いったいあなたは何処にいるでしょう?おそらく、砂漠を横断してくるラクダのキ
ャラバンと一緒に、「ベールを被った婦人が」いるアラビアに、あなたはいるだろうと、私は想像しました。
 多分、大きな槍と、耳から長い飾りを下げた土着人達と一緒に、あなたはタンガニカの中央にいるでしょうか、
あるいはまた、大きな満月のもと椰子の下で、島の女性達の踊りを見ながら、椰子におおわれたインド洋の島々
の一つに多分いるでしょう。

 さて、ずっと何年ものちに、私は、それらの全部の場所、そしてもっと多くの場所に行きました。
 もし、私が確信していたことが有ったとするなら、そのような場所を見ていたと、私は正直に言うことができ
ます。

 毎年一回、カントリフェアーを見るためにオレンジバーグへ行くことですら、訪ねた前や後の何日も何夜も、
その話しをしたほど本当に冒険でした。そのころ、私たちは古いバギー(4輪馬車)と乗馬服で旅行をしました。
私たちは午前4時に出発し、フェアーでは余り長時間居なくても、帰宅は真夜中過ぎでした、
 私は、かつて、ノースカロライナかジョージアのような遠い場所に行くだろうなどとは思いましませんでした。

 私たちの農場の状況はひどく良くなく、そして更に悪くなりました。父の綿畑の綿花につくワタミゾウムシは、
害を加えました。しかし、このミスター・ワタミゾウムシに感謝するべきだと私は思います。なぜならば、それ
がサウスカロライナの父の綿花畑から父が去る決心をして、「楽に儲かる」フロリダへ向かうことを助けたのです
から。父は、フロリダには沢山のお金とオレンジがあったと私たちに言いました。
 さて、「沢山のオレンジ」の話は、私たち子供には興味がありました、なぜならサウスカロライナでは、もし一
週間に一個のオレンジを貰えればラッキーでした。もちろん、クリスマスには、私たちはいつも「2個のオレン
ジ」を貰いました。

 最終的に、私たちは農場を売り(たぶん数100ドルで) ました、そして、私たちがフロリダへ移る予定である
と父は言いました。その夜、たくさんお祝いをして、私たちは、本当に遅く(9時)まで、寝ずに起きていて、多く
の話や計画をねりました。

 この旅行のために、父は3代目の中古のモデルTフォードを買いました。私たちはみなその車の運転を習い
たがり、その後のいろいろな経験を話しました。(talk about a "time")
 それは、そのころの「腕を折る」モデルTでした。私の父は2回、私の一番上の兄、ジョンは2回、腕の骨を
折りました。私たちは、ジョンを「バッド」と呼びました、なぜか知りませんが。付け加えれば、友人の何人か
も、腕を一回か2回は折りました。
( Baxley注:最初のモデルTのクランクハンドルは自動的には離れませんでした、そして多くの人の腕が折れ
ました。その後のモデルは、エンジンがスタートするとクランクが自動的に離れるように作られました。)

 私たちの誰も、父がこの車を買うまでこれまで車を運転したことはありませんでした。
 私の一番上の姉、ロリーナを覚えています。
(はい、私たちはこの車をロリーナと名付けました、なぜでしょう?それが車の名前です、なんと)
. 彼女がそのモデルTでした話しに戻りましょう、私たちはそれででかけ、彼女が運転していました。さあ、彼
女の運転はOKでした、しかし、彼女はブレーキをかけるのを忘れました、そしてまっすぐガレージを通り抜け
て、エンジンが止まるまで、耕された畑の外までまっすぐ走りました。

 さあ、今度は父の番です。
 父はフォードTで道路を走り、向きを変えるため教会の庭へ向かいました。教会はお祈りの最中でした、そし
て父はフォードTの止め方を忘れてしまいました。そして教会の階段をフォードTは登りました、もし教会のドア
がフォードTを止めなかったなら、教会の中へ車は飛び込んだでしょう、その間中「ワー、ワー、助けて!私
はワーと叫んだ」。

 さて、数ヶ月の練習のあとで、父、ロレーヌ、バッドは多少ともその安物フォードTを動かすことを学びまし
た。そこで、私たちはその旅行のための準備をまじめに始めました。(フロリダへの私の最初のDXpedition)

 このころ、学校の先生が言ったように、地球が平らなのか、丸いのか私には確信はありませんでした。それは、
私には平らであるように思えました、なぜなら、私が見たところは何処もただ平坦でした。

(1DM注:この記事の内容に関連した記事が 「W4BPD半生記 その1」にもあります。) 
01M-012006 introduction page 1/2 2006.1.23

 サウスカロライナの以前の家では数マイルの範囲に小さな丘さえも有りません。
 私は、フロリダのこれらのオレンジについて考えていました。
(私は、いつもフロリダについて詳しく説明し、そこの学校でこれらのことを学びました。商工会議所も私に
は注目しませんでした、私は彼らがそうすべきだと思います。さあ、ガス、話に戻りましょう。)

 私たちは、ママ、パパ、それに6人の子供、何匹かの鶏とそのほかのものがその中古自動車に詰め込まれ、
お金とオレンジの豊かな土地フロリダへ去りました。
 その当時、サウスカロライナのエロリーとフロリダのオーランドとの間には舗装された道路は1インチもあ
りませんでした。これの全てが、本当にアメリカのロビンソンクルーソーの旅でした。私たちは、何度も何度
も泥濘にぶっつかり、橋はほんの少ししかありませんでした。私たちは、岸の反対側にいる馬からの長いロー
プに引かれたフェリーで幾つもの川を渡りました。

 この旅が「旅行をする」ことを私の心に植えつけたと思います。この旅行はおよそ一週間かかりました。
(今日では、私は(カルカッタで)朝の4:05のパンナムに乗って、同じ日の夜の9:05にニューヨークに着くこと
が出来ます、これは、インドのカルカッタで飛行機に乗ることを意味します。

 さて、私たちがフロリダ、オーランドの近くまで行ったとき、私たちにはオレンジ畑が見え始めました。父
は、“すばらしい人”で、さあ、袋に一杯のオレンジを“借り”ようと何度か止まりました。子供達はオレンジ
を食べました。私は、沢山食べました。

 今でさえも、私は袋に一杯のオレンジを食べるのが大好きです。私は決してオレンジを嫌いにはなりません。
私はオレンジを一杯食べましたが、いつでも1ダースのオレンジを食べられます。
(ブータンのオレンジはこれまで私が知っているうちでは最良のもので、私がいま6個か8個食べている間一
寸待ってください。)
 
 オーランドから北東へ約5マイル来たとき、大きな日よけのような木の下で停めました、そして、あなた方
はテントを張ったと思うでしょう。そこが誰の土地であるかなどと聞くようなことは、誰も気にしなかったよ
うに見えました。(その場所は、いま1エーカー$6,000,000以上で売られています。)父は、彼の数百ドルを持
って土地を探しに行きました。 父は、大きなフェアービュー瑚の岸の近くで良い小さな場所を見つけ、そし
て買いました。

 しかし、父のお金は殆どなくなってしまい、そのため、オーランドで何軒かの家を壊していた人と一緒に父
は働きに行きました。毎晩、父は沢山の中古の材木と1〜2個のバケツに一杯の中古の曲がった釘を家に持っ
て来ました。それらの曲がった釘をまっすぐにすること、材木を分類して積み重ねることが子供達の仕事でし
た。私たちが家を建てるために十分な釘と材木が集まるまでには何ヶ月もかかりました。
 父は一ヶ月休み、そして私たちは皆元気に家を建てました。私は、フロリダで、これより少しでも安く建て
られた家がいまでにあったとは思いません。父は、家の後ろに、小さな小屋さえも建てました。

 殆ど毎晩、私たち子供達はオレンジハンティングに出かけました。私たちは、普通南京袋を持って、袋を一
杯にして、次に私たちは地面に座りました。オレンジの木の下で、私たちそれぞれが1ダースあるいはそれ以
上をその場で食べたでしょう。

 父は、全員が友人だったというような人でした。彼は近所の人たちを全員知っていました。私たちの大好き
なオレンジの畑の所有者の一人が、オレンジを人が盗むことは彼は気にしないが、しかし、そのオレンジをそ
のオレンジの木の下で食べることは、彼を怒らせると私の父に言いました。もし誰かが彼のオレンジを盗み、
まさにその木の下で食べるなら、それは、「もし彼がオレンジの木を持っていた」なら、また、彼は怒るだろう
と、父は言いました。

 さて、家が完成した時、私たちは家に入りました。しかし、知っているように、フロリダでは、パルメット
と呼ぶ木があります。(Palmetto 椰子の一種)さて、私たちの場所にはパルメットが沢山ありました、それら
のパルメットの木を掘り起こすために、父の気持ちを変えることが出来たのは子供達だけでした。根と全部の
ことを意味します。根は時には地上の部分より大きかったのです。

 その他の問題はフロリダのサンドスプールでした。これは、私たちの土地には何百万もありました。さて、
外で6人の子供が、その暑いフロリダの太陽の下で、パルメットを掘りながら、30分ごとに冷やすため湖に向
かい、そして私たちは皆裸足だったのをあなたは描けます。この日まで、私達の裸足の足は、私たちの土地か
ら全てのサンドスプールを取り除くと私は思います。これで、私の父はいつもジレンマに陥ってました。
(getting in a fix)

 ある日、父はきれいなチェーンの付いた可愛いい、美しい犬の首輪を持って家に戻ってきました。それから、
見た目のきれいな迷い犬が私たちの家に来ました。さて、私の父が、その犬にいくらかの食べ物をあげて、犬
がそれを食べている間に、彼は犬にこっそり忍び寄って、犬に首輪を付けて、チェーンを掴みました。犬が食
べ終わったとき、犬は首に首輪があるのを見つけ、父がチェーンを手に持っているのを見ました。それから、
犬は父に走りより、父に飛びかかりました。父は、チェーンで犬を彼から離そうとしました、犬はしつこくて、
それから父は叫び始めました、“子供達、私に犬を食いつかせないで“私たち全員が叫んでいた間、”犬を自由
にして“、そして父が言いました。“私の新しいチェーンを犬から外して”。この日まで、この小さな興奮の結
果を私は覚えていません。

 そのころ、湖には鰐がいたので、私たちは一人が鰐を見張っていて、残りの人たちが泳いでいました。今で
は、全部いなくなりました。
 そのほかに、よくしたことは、当時、その湖での魚釣りでした。しかし、1963年に私はそこに釣りに行きま
したが、ほんの少しも釣れなかったので、それらは全ていなくなったと思われます。

 キールの深いヨットを作るのを父は手伝ってくれました。ある土曜日、私は湖の中程まで行って、激しい風
が後ろから吹いて、時間がかかって、そしてぶっつかりました。ヨットのキールが砂州に当たり、私は空中を
飛び、ヨットから約30フィート離れた所に落ちました。そこは、固くしまった砂州で、次の日、誰かが私を
見つけて、家に連れ帰るまで、私は湖のまん中で一晩過ごさなければなりませんでした。
(私は、もしこれがセイシェルのVQ9HB、ハービー・ブレーンに起こったらどうだろうと思います。)
 それは直りました。
1DM注:

 ガスの原文(英語)には、辞書を見ても判らない言葉が時々使われています。これは1950年代当時の米国
の習慣やスラングなどから来ているもので、Baxley氏に訊ねて訳しています。
 そこで、私が訊ねた言葉についてここに記すことにしました。なお、私の訳に誤りがありましたら、訂正した
 いと思いますので、ご指摘下さると大変有り難いと存じます。

*「talk about a "time"」 このTimeは、主題について(今回はTフォードを買い、運転を練習すること)、遭遇
        した、珍しい経験などを意味するそうです。

*「sandspur」 サンドスプール・sandburとも言われ、フロリダなど南部の砂地に自生している植物になる非常
        に小さな実で、沢山の小さな棘があり、砂地に落ちていると見分けがつかない。裸足の足に刺さ
        ると非常に痛く棘を抜くと更に痛みが増すそうです。次のホームページに写真と解説があります。
    
http://www.cdfa.ca.gov/phpps/ipc/weedinfo/cenchrus-longispinus.htm

「getting in a fix」 どうしようもないジレンマにはまったり、苦境に陥ったりすることだそうです。

002M012506 introduction page 3/4   2006.1.28

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