W4BPD 半生記を始めるにあたって
 W4BPD, Gus M Browning 氏は、このホームページでも取り上げているように、1960年代
から70年代にかけてインド洋を中心に世界をDXpeditionしたDXサーです。彼が1964年に米
国へ帰国する途中東京に寄ったときJA局が開いた歓迎会に私は出席することができました。
彼に会ったのはこの一回だけでしたが、親しく語りかけてくれる人柄が私の印象に強く残る
さわやかなDXサーでした。 その時からちょうど40年もの時が流れました。私は仕事をリタ
イアーして時間に余裕ができるようになりました。その時思ったのです。私のDX人生にすば
らしい影響を与えてく
れた人"Gus"の墓参りとそのご家族に会いに行こうと。しかし、
ご遺族の消息を探すのには大変時間がかかりました。

 このこととは別に、全米最大のフェアー「デイトンハムベンション」に参加しないかと米
国の友人から誘いがありました。この様なことから、"Gus"の故郷、オレンジバーグ詣でが
実現したのですが、そこにガスの生前からの友人だったJohn Baxley氏が来てくれたので
す。勿論、この時には初対面でしたが、帰国後毎日のようにメールをやりとりする親しい友
人になりました。 このJohnが、今回の"Gus Story"をウエッブで始めてくれました。この
ストーリーは、1960年代から70年代に Mr.Gusが発行していたDX情報誌に、彼自身が自分の
半生記を8回にわたって書いたものです。
 そこで、Johnのホームページの記事を私のホームページに翻訳掲載することにして、John
とGusのご家族の了解を頂きましたので、ここに「W4BPDの半生記」を掲載することにしました。

 なお、翻訳を続けていくうちに、Gusの文章には南部なまりの、今ではほとんど使われてい
ないような単語や表現がよく出てくることがわかりました。このような表現はJohnに問い合
わせて、尋ねるのですが、彼も初めて聞く言葉もあるそうです。
 もともと、それほど英語に自信があるわけではない私ですから、正しい翻訳ができている
かどうか心もとないところです。日本語の表現の不適格な個所や、誤りにお気づきの点は
お手数ですが、どうぞ私宛にメール(jarl.com)で教えて頂けると大変有難いと存じます。

 
 
以下の記事は、JohnおよびGusのご家族に著作権があります。
 
(Copyright (c) 2005 John Baxley and Gus's Family. All right reserved)
 従って、この記事に関連する私の記事も著作権を設定いたします。
 (Copyright (C) 2005 JA1DM, Masa Ebisawa, All right rexerved) 


                                    -JA1DM-      
                                    
Gus M. Browning・1964, By Letty Hulmes
この肖像画は、ブラウニング氏のDXers Magazine
の大事な広告主、Mr. Letty Hulmasにより描かれ
ました。肖像は20X24インチで、サンドラ・ヒル夫人
(ブラウニング夫妻の娘)の家の居間に掛けてあり
ます。ブラウニング夫人は、エルロールのサンドラ
夫人の家に住んでいます。
Mr. John Baxley Web. より転載:
Mr. Radio, W4BPD, Gus M. Browning"  1908年から1990

 ミスターラジオ、W4BPDそしてガスブラウニングと一人で三つも名前を持っている人!
タイトルに表される数年間アマチュア無線に関連した人は誰でもガスブラウニングを知っているで
しょう。彼は無線機のセッティングで世界中の海を何年間も航海しました。
 このページのこれからの数ヶ月間、故人ミスターブローニング、彼の妻ぺギーの名誉をたたえ、
お天気衛星、コンピューターやインターネットができるはるか以前の時代に、いくつかの探検ライフ
で辺境の地へあなたを連れていき、笑いとあこがれに誘うでしょう。

まえがき

 次の話は、もともと、コルドバ、サウスカロライナ州のガスブラウニング・エンタープライズにより発
行された「DXers Magazine」で発表されました。それらのストーリーは、ブラウニングの雑誌に印刷
されたとおりに、ここで発表されるでしょう。
 この感謝は、日本の東京でブラウニング氏の雑誌219冊を集めて保存した海老沢氏です。
ブラウニング氏が1964年日本のアマチュア無線愛好家グループに会ったとき、彼はブラウニング
氏にもっとも感動しました。彼は退職した放送技術者で、ブラウニング氏の墓に花を手向けるため
東京からオレンジバーグまで旅行しました。私は、その時彼に会って以来、毎週のように、いやもっ
としばしば、インターネットで連絡をとっています。最近、彼は「DXers Magazine」の中の記事をコピー
したCDを送ってくれました。私は、これからの数週間、あなたがこれらの話を楽しんでくれることを願
っています。
 彼は、アマチュア無線で非常に活躍し続け、日本の無線連盟のシニアアドバイザーです。
 あなたは海老沢氏のウエッブをチェックしてください。

 
http://www.qsl.net/ja1dm/englishtop.htm

 ペギー・ブラウニング夫人は彼女の娘のサンドラ・ヒルさんと一緒にエロリーに住んでいます。彼女
の許可で、これらの話をインターネットに掲載することが可能になりました。
 私は、米国陸軍を除隊した直後の1956 年、アマチュア無線に関心を持っていたときにブラウニン
グ氏に会いました。しかし、その時は私の関心が飛行機の方に向いてしまいましたが、それでも引き
続きガス氏を訪ねていました。

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W4BPD半生記(1)
DXers Magazine #195 (1971 January 27) (アマチュア目次へ戻る)
「From Dechenchholing to Timbucktou 」

 サウスカロライナ州中部のこぢんまりした私の家に居て、私が世界中の多くの国を尋ねたと実際に
信じるのが非常に難しいのが判ります。私自身のバックグラウンドを知っていることが、実際に次の
話を信じるのを更に難しくします。
 私は、丁度ここサウスカロライナの今住んでいる所から15から20マイル程離れた所で生まれました。
私の両親はもっとも貧しい「自作農」でした、そして私たちの生活は、私たちの農場生活から受けたも
のが全てでした。
 私には、2人の姉妹と3人の兄弟がありました、その頃の米国では小さくも大きくもない家族でした。
 私が思い出す限り我々は幸せな家族でした。我々は十分食べ、十分着て、学校へ行かされ、我々
は正直で日曜日には日曜学校へ、毎週水曜日の夜には祈祷会(プロテスタント)に行きました。一寸した
良き若い人生の私の住んでいた小さな町はサウスカロライナ州エロリーと言う名前で、それは未だ地
図に残っています。勿論、何年も前に私たちが住んでいた時、そこは小さく、舗装されてない道と、ケ
ロシン街路灯だけのある路の町で、その幾つかが点灯されていた夜、ケロシンがある間は非常に小
さな光のプールを投げかけました。太陽が沈んだ時に町をぶらつくのを誰一人心配しませんでした。
 実際、心配することなど思いもよりませんでした。1971年の今でも、多かれ少なかれ、当時と同じで
す。

 私が生まれ、育ち、そして人生の殆どを過ごしてきた環境が、どのようだったか、それらが未だどの
ようにあるかを皆さんにお話ししたいと思います。
 誰かが、かってそれらのしつけに置いて利点を持っていたならば、それはとても間違いなく私ではあ
りませんでした。どちらかと言えば、それは殆ど正反対でした。できるだけ殆ど平凡な人生になるよう
に、殆どの誰へのも私の人生を切り取ったか、またはそれは見えました。これを変えることができるか
どうかを見るのは、私と私だけ次第でした、それは多くの”すること”がまちがいなく必要でした。
 私の話のこの部分をできるだけ短くしようとするでしょう、あちらこちらハイライトを示すだけで。
 私は、これらの詳細の幾つかは、幅広いストーリーにするように話されるべきであると思います。

 誰でも私の旅行と脱線の大部分をたどることは、まちがいなく可能です。特に、あなたが「冒険家」タ
イプの仲間で、あらゆる岩石の下に、不治の病をあなたに与えるためにそこに潜んでいる細菌を恐れ
ないなら。確かに、私は冒険家のように大きくて、強くて、健康ではありません。私は小さい人で、生涯
145ポンド(約65kg)以上になったことはありません。病気に関する限り、私が3才になる前にかかった3
種の非常に重い肺炎を除いて私は幸運でした。これは多分いつも私が小柄の人だった理由でしょう。
 多分3種のこれらの肺炎が、多くの「抗体」で私の体を満たして、私の人生の殆どで多くの病気を遠
ざけました。 
 しかし、話を続けましょう。
 私は1908年11月25日サウスカロライナ州、オレンジバーグカウンティで生まれ、第1次世界大戦に
ついては少ししか記憶していません。ある数日は肉なしで済まし、他の日には砂糖なしで済ましたの
を思えています。また、何か半分はコーヒーのような味のする、ある種の乾燥し、焼かれて、火にあて
られた豆を使ったのを覚えています。これらは、砂糖なし、コーヒーなし、肉なし日と呼んだ日に使われ
ました。
また、私は、彼らの息子が週に2回の列車で到着したとき家族が喜んで、何人かの兵隊が家に来
たのをかすかに覚えています。それは実際に何台かの乗用車が取り付けられた貨車だったように見え
ます。
 戦争が終って、誰もが最後には家に帰り、農場では全ての物事が本当に悪くなり、流通するお金は
少ないように思え、あるいは少なくとも我々家族には実際ほんの少ししかなかったことを覚えています
 その頃(1922年頃)父は、フロリダのオーランドへ行きました。その理由は忘れていますが。
 とにかく、父は背中と両足のひどいリュウマチで苦しんでいました。父がフロリダにいる間それらの痛
みは全くありませんでした。父が毎晩苦しんでいた痛みを和らげようと、母が連夜、父の背中と両足を
さすっていたのを覚えています。
 フロリダへのその旅行のあと、私たち皆が父から聞いたのは、言うまでもなく、フロリダへ移ろうでし
た。どのように未だその両足と背中の痛みを感じているかを見て、父がフロリダにいたときには痛みが
表れなかったことから、私は父を非難できませんでした。
 父は全てを売り払いました。父が、列車の有蓋貨車全部を借りて、我々の友人(3番目か4番目の従
兄弟たち)と一緒に、我々家族の所有物、何匹かの牛、犬それに一匹か二匹の馬が貨車の中にいて、
行ったことを覚えています。有蓋貨車を全部借りるのに、僅か $300だったように思います。父はお金の
価値を得たとあなたに言うことができます、貨車は上から下まで、端から端までいっぱいに混んでいまし
た。
 我々が新型フォード「T」を買って、それに乗ってフロリダまで旅をすることでまちがいなく節約できたこ
とを覚えています。 誰かが、私たちの誰も運転できないことを忘れていました。私たちがフロリダまで
フォードでドライブしたときに実際に多くのことが起こったことは確かです。そうです、いくつかの折れた
腕と手首を覚えています。これらのことは車を始動させるときに良く普通に起きました。
 日曜日の朝、一番上の姉(ロリーナ)がドライブの練習のため全員で外出したときのことです。
彼女は上手に運転しました。彼女は車を完全に動かしました。さて、私たちは入り口まで沢山の段のあ
る大きな教会に着きました。教会はいっぱいでそしてお祈りの最中でした。しかし、姉がフォードの止め
る方法を忘れたとき、教会のお祈りは突然中断されました。私たちは車にすし詰めで、教会の正面の入
り口に向かっていました、そして姉は「ワオ、ワオ」と叫んでいました。姉は、馬の群を止める方法を知っ
ていますが、小さな古いフォードTの止め方を忘れてしまったのです。車は、階段を上り、教会の入り口
のドアにドンと当たりました。車のそのような動きで、お祈りは突然中断されました。
 10年代、20年代のその頃は本当に古き良き日々だったと思いますが、しかし、私たちにとってすばらし
かったとは見えませんでした。
 父と我々少年たち皆がアライグマとポッサム狩りに言ったこと、時には金曜日の夜、土曜日一日中、
土曜日の夜、そして日曜日の朝の少しの時間でさえ、日曜の朝早く、洗って、洋服を着て、教会に行くこ
とができるように十分早く、注意深く帰宅したことを覚えています。
 父、(名前はJohn Bunyon Browning)はこの狩りの旅行の間中、それらの猟犬とベストをつくしました。
 私たちは週末の狩りの旅行でサンティー川に向かって、私たち皆がワゴンの中にいたときのことを良く
覚えています。ワゴンは犬と子供達でいっぱいに混んでいました。私たちは郊外の深いわだちのある長
い道路にいました。実際、私たちはどこからでも遠い道のりでした。
 車(多分モデルT)はそのような深いわだちの道路で彼の車(多分モデルT)と会いました。私たちが彼
のじゃまをしないように、彼は警笛を鳴らしました。彼は、父がとても良い人だとは知りませんでした!
 私の父はただ、止まるために車を引いただけで、ワゴンのシートの中に座って、道路からは動かない
つもりだと仲間に言いました。 私たちは凡そ2時間、座り込んだままで、誰も動かず、とうとう、相手の
車の中の男が怖じ気づいて手を引き、長い距離を彼の車をバックして綿畑に引き揚げ、私たちが通る
までそこに留まっていました。 私たちは、その車を通すために、その道路でどのくらい待たねばならな
かったのか、父に聞きました。父の答えは大変短かく“永久に“!そして、私は父がちょうど自分が言っ
たことを意図していたと信じています。父はこのようでした。
 私は、当時の生活の中で、多くの他の同じような事柄に、父は“がんこ”で、物事が難しく見えるとき、
いそいでギブアップするような男のタイプではないと言うことを信じられることに気づき、私に影響を与
えたかも知れません。
 いつも、物事はこの様に進みました、そして、いつも次々とことが起きて、人生は大きくて楽しいジョー
クでした。 ブロウニング家は人生を思う存分楽しみ、家庭の廻りでは、いつも何かおかしいことが起き
ていました。時には、母さえもその中に入りました。私たちは本当に生活を楽しみました。
  もし、父がフロリダにいたときにリューマチの症状がなくなったことに気づかなかったら、私たちの人
生は完全に違ったストーリーになったと思います。もし、ブロウニング家がフロリダに移らないで、サウ
スカロライナに留まっていたら、物事は決して解決しなかったと確信します。
 多分、人生はより良いか、または悪いかでしょう--だれが判りますか?

 私は、私たちのサンティースワンプ(今は美しくなり、景色のすばらしい国立公園)への狩猟旅行で、
かなり綺麗な子犬の野犬が私たちのキャンプに来たときのことを覚えています私たちは、おとうさんか
ら新しいきれいな犬のチェーンを借りて、犬の首にそれをつけて、私たちのためにチェーンを持つよう
に父に頼みました。父がチェーンの端を手に持っていたとき、面白いことが始まりました。
 そのダメ犬は、父の近くに寄って、何回か父に食いついたり、かみついたりし始め、父は新しい犬の
チェーンをなくしたくないと言いながら、私たちに"何とかしろ”と叫びました。最後に、私たちは犬に何
かの食べ物をやって、犬の首からチェーンを外して、犬を放ちました。犬は遠くに逃げ、父はバギーに
チェーンをしまいました。(おおそうだ、私たちはその頃、馬とバギーを使っていました。)
 私の父は毎年、「荒馬を使いならす」という希望で何頭かの荒馬をよく買っていました。時々、馬が私
たちを使いならしました!私は良く覚えています、馬の上で手綱との戦いが始まり、私たちの一人が馬
の背中にのり、それから彼らが馬を自由にするでしょう。なんと沢山の跳ね上がりや続けてその馬がし
たでしょう、馬の背中の上にいた人なら誰でも、普通、払い落とされ、そして、それから支配された馬
を得る興奮とそして誰かが再び馬に乗って終わりました。
 私たちは、夏にはいつも裏庭で私たち自身の「ロデオ」がありました。  
 いつかは、良い乗用の馬で終わり、いつか、私たちは、「調練できない」馬を得て、次に、その馬を
誰か他の人に売ろうとするでしょう。私が思い出せるかぎりでは、馬の当時の時価は、貨物列車から
直接買うときには、馬の当時の時価はおよそ$35でした。私たちが売ろうとした、それらの「調練でき
ない」馬はおよそ$25前後でした。
 牛の尻尾と、野犬の尻尾に紙袋で縛るようなことは私たちの農園の別の楽しみでした。時に、それ
は私たちの近隣の良い人の動物で、彼らにある悪い感情を引き起こしました。何人かの、より大きい
少年が時には私の父の「自家製ビール」やワインボトルを飲んで、時々二日酔いになり、私たちの隣
人は、彼らの息子が酔っぱらったことで私たちの両親を責めます!
 そうだ、私たちの農場のまわりにはいつも何かが起こり単調な瞬間は決してありませんでした。
 フロリダに移る前のサウスカロライナの農場での私たちの人生のなんと多くの「エピソード」。フロリ
ダへの旅行はそれ自身がストーリーです、その当時、道路は実際に全部ダート(土)で、殆どの川は
フェリーで横断しなければなりませんでした、私たちがどこへ行くのかを知らせてくれる道路地図や
標識はありません。私たちがこれまでにフロリダを見つけたのは驚きです!
DXers Magazine #197 (1971 February 10) (アマチュア目次へ戻る)

 例えば、サウスカロライナのエロール(オレンジバーグの近く)からジョージアのサバンナまで、ぞっ
とするような経験の、揺れて、騒々しい木製の橋を乗り切って、私たちは完全に一日かかりました、
それから、私たち全員がもう一つの初めてのジョージアのサバンナの大きな市を見ました。私たちは、
世の中のことを経験して、愉快にやっていました、そして、それを消費していました。結局、私たちは
サバンナからフロリダのジャクソンビルへの路を見つけました。
 これがジョージアの最も野性的な地域であり、近代的なこのごろでも、最新の道路から遠く離れた
ら、あなたはワニ、山猫、アライグマ、フクロネズミなどを多くの湿地帯で見つけるでしょう。(また、
あなたはいくつかの自動「スピード違反取り締まり区間」を見つけるでしょう。“私は知っています!”)
「エディタの注:ジョージアの、JesupとLudowici、は1950年代と1960年代にスピード違反取り締まり区
間として悪名高かったところです。」
 私たちは馬の画が描かれたフェリーですべての川をわたらねばなりませんでした。フェリーは通常
向こう河岸にいて、これは、普通、船頭が、私たちを反対側に引っ張り、横断する準備がよくできる
までの数時間の待ち時間を意味しました。このジョージアの小さな箇所を横切るのにまる二日もかか
りました。

 私たちの古いモデル「T」は私たちの旅行のこの箇所で何回も泥沼にはまりました;それは、私たち
を引き抜くために馬かラバと農場の人たちを探さねばならなかったのを意味します。私をまだ驚かせ
ていたことは、私たちのだれもこれらのすべての遅れや、待たされることや他の遅れに、興奮したり、
焦らされたりしなかった事実です。
 私は、その頃は、人生が現在より悠長に、そして、ずっとゆっくりだったと思います。
その当時のような遅れが、同じような旅行で経験されるなら、まさに最近なら何が起きるかを想像す
ることができます。私たちにとっては、このすべてが、「正常で」多少は予期されていました。

 私達はまだ現代文明によって甘やかされていなかったと私は思います。
とにかく、私は旅行していて、たぶん、これが私の強い性格の初めての時だったでしょう。その頃、
フロリダの道路がジョージアよりずっとよかったわけではなく、その時も今と同じようにに多くの湿地
帯があり、これらの湿地には多くの大きいワニがいて、特別に良く見たり狩猟をしなくてもワニを見る
ことができました。
 私達はすぐ「オレンジのカウンティ」の中に入り、手を触れるなと言っているサインが全くありません
でした!私達は、「オレンジに飢えている」カウンティの出身であり、私達の目の前にオレンジがあり
ました。私達はただ停止し、少し自分自身を助けて、私達はしばしば停止しました。しかし、最近は
そのようなことをしないでください:あなたは撃たれるでしょう。

 私たちは、サウスカロライナよりフロリダの方がはるかに暖かいことがわかりました。(私達は10月
に旅行をしました。)私達は何度も停止し、そこにあったそれらの全部のきれいな湖で泳ぎました。
 そのあと2日ほど後に、私の父が私達のために建てた小さい木造の家に着きました。父は大工で、
家は非常に小さく、それは中古の材木から造られてました。釘でさえ中古でした;それぞれを父自身
がまっすぐにしたもので。私は、あなた方のうち何人の読者が、私たちが本当に貧乏だったかについ
て想像することができるだろうかと思います。しかし、誰も、それまでに私達がそのころどれほどみじ
めであったかを言ったことがなく、私達は皆幸せでした。

 私達の新しい家は丁度きれいな大きい湖のそばに建てられました。それは、また今でもフェア
ビュー湖と呼ばれています、私たち子供6人全員は、放課後に毎日10回も泳ぎに行きました。私たち
皆はウインターパークにある学校に行き、私たちは学校までの4マイルを歩きました。スクールバス
はそこにはまだありませんでした。
 私たちは不平や不満を言いましたか? いいえ、私たちはもっとすばらしいことは知らなかったの
で、私たちは言いませんでした。 

 私の父は、もっと大きい家を再び中古材木で建てると決めました。これは、私たち子供が、すべて
のその中古材木から釘を引き抜き、それからそれらの釘をまっすぐにしなければならないことを意味
していました。(これは、私が海外で訪問したいくつかの国で、彼らが家を建てるときの問題を私に思
い出させます。)

 私たちは夜ごとに外出し、他の人たちが持っているオレンジの果樹園やスイカ畑をおとずれて、そ
こで「すばらしい時間」を過ごしました。私たち子供はただオレンジとスイカが好きでした。私は、それ
らのものが私達のものでなかったことを私たちが決してわかり始めなかったと推測します。もちろん、
私たちには、このすべてを父や母に言うことができないくらいの「大まかな常識」はありました。もちろ
ん、私たちはそれらから何を受けたかを知っていました、そして私たちは水ぶくれなしに、1週間座る
ことはできなかったでしょう。私は知っています、全く快適ではありません。

 私達の両親は、ムチを惜しむことは信じませんでした−しかし、それは私達がそれに値した時だけ
でした。私達がその様なことに憎悪を抱きますか?いいえ!
 私達の両親は意地が悪くはありませんでしたが、彼らが「シッ」と言った時にはそれを意味していまし
た!そして、私達はこれを知っていました。私の父は頑固で、そして貧しかったので、私達の家に電気
を引くことは考えなかったでしょう。

 これで「無線」は控えめに言っても少し難しくなりました。私は、ラジオに一寸使われた中古の「B」
バッテリーを買うために、フロリダのオーランドの通りで新聞を売ったのをよく覚えています。時々、
バッテリーはもっとたくさん使われていましたが!(それらはサバと同じくらい死んでいました。)
 私たちが皆、少し成長するにつれ、結局フロリダのオーランド高校に行きました。

 私はラジオ修理店で午後と土曜日の仕事につきました。マネジャーは私を「マルコーニ」と呼びまし
た私は、その時、どのようにほうきを持ち、モップで掃除するかをならいましたが、結局、私は真空管
をテストするのを許されて、しばらくして、それらのラジオを少し勉強することを始めました。
彼らは午後の仕事に25セントを、土曜日の仕事のために1.50ドルを私に支払っていました。私は、
古いラジオのパーツと中古の「B」バッテリーを私の給料として、通常、受け入れました。

 1LM Cockaday、1球式セットの、まるまる1年間かかった製作ののち、6ドルの真空管2本を壊して
から、私はついにピッツバーグの放送局KDKAを聞くことができました。私の父はKDKA放送を聞き、
母に「ダラス、これは動いているよ」.(私の母の名前はダラスでした。)と大声で言いました。
 これは私達の家のまわりに非常に多くの無言の興奮を起こし、また、たくさんの「友人」が突然立ち
寄り、全員がその「物」が動作しているのを聞きたがりました。この目新しさ(私への)は6ヶ月ほどたっ
て消えました。
 注:* フェアヴュー湖はフロリダ、オーランドの4マイル北にあります。
   ** ウインターパークはフェアヴュー湖の東です。誰でも、オーランドがDISNEY
   WORLDの地元であると知っています。
   *** マルコーニ、イタリア人は「無線の父」と考えられます。
   ****KDKA局は1920年11月2日に初めて放送した、世界で最初の民間放送局でした。 それは
   まだ放送しています。

 私は、「ハムラジオ」について聞いたり読んだりして、モールスコードを受信できなければならないこと
がわかりました。

 私の姉ロリーナはウェスタンユニオンの仕事につきたがっていました、そして、彼女もモールスコード
を学びたがっていました。私は、ドアブザーと中古のキーを入手し、近くのウエスタンユニオンのオペ
レーターからモールスコードの記号表を手に入れてから、私たちがモールスコードの練習に使えるよう
に組み立てました。姉と私はおよそ6カ月の間モールスコードを練習して、私たちは更に上達しました。

 それから、私は近くのアマチュア、W4ACZ−トニーに会い、私たちのモールスコードの練習について
彼に話しました。それは、彼が私たちを訪ねてきたときに終わってしまいました。私たちは、モールス
コードの成果を彼に示すのを熱望していました。私たちは、ブザーシステムをセットしスタートしました、
そして彼は"オー"ガスさんと言いました。私はあなたに言いたくはないが、あなたは間違ったモールス
コードを練習しましたね!モールスコードには陸上通信に使われるのと国際モールスコードがあるので
す。ウエスタンユニオンのオペレーターは彼が使っていたモールスコードを私たちに呉れたため、私た
ちは陸上通信用のモールスコードを習っていたのでした。

 姉は、ウエスタンユニオンで使われていた音響式でなく、ブザー式で練習したので、陸上用のモール
スも受信できないことがあとで判りました。私たちは、間違った練習をして6ヶ月もロスしてしまいました。
 実際、姉は非常に失望してモールスコードを習うのに見切りをつけてしまいました。姉のそのようなこ
とが私に影響しなかったと私は喜んで言えます。そのことは私が一寸いらいらしただけで、正しいモー
ルスコードを学ぶことに一層の決心をさせたのでした。

 私は、私の1球式ラジオのコイルの巻き線の一部をほどくことで多くの局がいろいろなスピードでモー
ルスコードを送信しているのを聞くことができることを見つけましたこれは私のモールスコードの練習の
ためのものでした、そして、私がどのようにしてモールスコードを学んだかということです。私には、他に
モールスを学ぶ方法が全くありませんでしたが、私の姉は完全にあきらめてしまいました。私は、1分間
12語のモールスを受信するのを学ぶのにおよそ6ヶ月かかりました。

 政府の人が次にオーランドに来たときに、私のハムライセンスの試験に合格するためにいくつかの
本を見つけて、全部読みました。試験官が来て、私は試験に合格し、NU4ADBのコールを割り当てら
れました。私は、これで正式に送信できました。
 これは私の人生にとってすばらしい日でした。私の最初の交信はオクラホマの局とでした、そして2
番目はワシントン州の局でした。私は、これらの交信が“ふるえるような”ものだったのを認めます
 私のふるえるような部分。

 私は、父と家族にそれらの交信をのことを伝えましたが、QSLカードが届くまでは、家族達は私が
からかっているのだと思っていました。その当時の送信機は非常に簡単なもので、フィラメントには自
動車用6ボルトの蓄電池から、そして、いくつかの45ボルトB電池からのより高い電圧が201A真空管の
2本並列接続のプレートへつながれました。時には、キイが下ろされるまでは、600ボルトより高い電圧
でしたが、次にはその電圧は多分150ボルトに下がったようなすばらしいレギュレーションだったと私は
言えるでしょう。

 私がオーディオ発振器を組み立てて、それを私の送信機の変調に使うまで、完全な直流(電源)の、
400サイクルで変調されたNAA 局のトーンを良くきいたものです。私は、私のこの“トーン”について多
くの賛辞をもらいました。すべては、私の自動車用A蓄電池がダメになるか、沢山つないだB電池が
ダメになるかどちらかまでで、それから私はもっと多くのB電池かA電池の充電器のサラサラと音の
する、いやな仕事がありました。思いだして下さい、私たちの家には電気がなかったのです。

 その送信機で、私は多くのDXを得ました。私はWACを完成し、よそ35カントリーと交信したと思い
ます、(それは全部交信でした)整流されたAC電源の音(私のと同様にフィルターされてない)のNU4
ACZ局を聞いていました。彼はおよそ500から600ワットで運用していたと私は思い、私はいやでしたが、
彼がS8を貰って、そして私はS3を貰ったでしょう。その頃、フロリダのウインターパークのNU4XE局を
訪問して、彼が水晶発振子で周波数をコントロールした世界で最初の人たちの一人だったことが判り
ました。しかし、これらの水晶の値段は私の小さなぺちゃんこのポケットにとっては長い道のりだった
ことが判ったのです。

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