W4BPD半生記(2)
DXers Magazine #199 (1971 February 24) (アマチュア目次へ戻る)

 
電気を使えるような希望が全くなく、このため、電池で動かす無線設備より大きなものは決して使え
ず行き詰まっていることに、あなた方読者と共に、正直なところ私はうんざりしていました。
 これは、もし私たちの田舎の小さな家に電気があれば、私が使えたであろう多くのプラスがないまま
に、無線についてもっと学ぼうとしたことと、最低の出力だったのを意味しました。私は、また、何か外
の世界を見たいと考えたかもしれないと思います。そして、それはもっと世界を見たい「虫」がきっと私
にかみついたのでしょう。
 幸い、長男のバッドが、フィラデルフィアに移って、そこで良い仕事に就きました。兄は、家に来てし
ばらく一緒に居ないかと私に言いました。問題はそこに行くためのお金が殆ど無いことでした。そこに
行くのに「ヒッチハイク」すると決めたことでこの問題は解決しました。
 私のポケットにある10ドルでヒッチハイク旅行を始めました!
 私は、私の人生においてわが家から離れたことは決してなく、また、10ドルで、この1200マイルの旅
行を始めることに何の考えもありませんでした。この旅行では、何も驚くようなことは起きませんでした、
そして私のように、所持金の少ない時に眠れる素晴らしい場所を見つけました。地方の拘置所がこの
問題の答えで、ここは完全に無料でした。何回かは「挽きトウモロコシと太い豚肉片」(注・当時南部の
一般的な朝食)の無料の朝食さえとりました。ある朝、夜勤デスクの巡査が、私を外へ出すようにとの
メモを朝のデスクに残すのを忘れたので、外へ出して貰えるのに午前11時まで待たされました

 私はもう少しで囚人になるところでした!
 小さなノースカロライナの巡査が私を止めて、彼の町のヒッチハイクの罪で、実際に私を逮捕しよう
としました、そこの町には「ヒッチハイク禁止」という規則がありました。この巡査は、ヒッチハイクする
ため車を止めようとして、私が手を挙げていたのを実際に見たと言いました。私は、すぐ、それらの
無礼なヒッチハイカーのひとりではないと彼に言いました。私たちが話していた時に、グレーハウンド
バスがやって来ました、そして、私はバスを待っていたと巡査に言って、私はすぐにグレーハウンド
バスに跳び乗りました。

 バスドライバーは、どこまで行きたいかを私に尋ねました。私は、次の停留所(僅か数マイル先)だ
と言いました。私は、そこまでいくらかかるのかと聞きました。料金は25セントでした。私はすぐにバス
を飛び降りて、そこから先へのヒッチハイクの旅を続けました。
 フィラデルフィアに着いたのは午前1時頃だったと覚えています。
兄は、ジャーマンタウンへ連れていってくれる市内電車の24番に乗り、クイーンレーンで下車するよう
にと言っていました。私は、ここ大都市にいて、私はそのトロリーを降りないで、迷ってしまいました。
 その夜の残りの時間を私がトロリーで過ごしたのが終わりました。夜明けに、私はクイーンレーンで
下車して、兄が働きにでる前に兄を見つけてOKでした。

 私は、フィルコがラジオの修理技術者を募集しているのを新聞の求人広告で見ました。私はそこで
数年間働きました。私の仕事は、本当に「岩塩坑」(注・大変な仕事)でした。私の得たすべてのお金は、
勿論マーケットストリートにある「ラジオストリート」と呼ばれた場所に行き、そして時にはニューヨーク
市のコートランドストリートへの小旅行に行きました。

 私は、遂に、2本の852のプレートに3000ボルトを供給した私自身のフルkWを手に入れました。私
は本当のDXerになる準備ができていました。そこでの私のコールサインはW3BHH で、この大電力で
多くのDXと交信しました。私にはとても楽しいときでした。

 その頃、私と一緒に住んでいた友人が、私のために素晴らしいブラインドデートを用意してくれたと
言いました。その夜はアマチュアバンドは死んでいて、彼のブラインドデートの招待に応じました。
このブラインドデートは、アグネス・スミスというYLに会ったときに終わりました。(彼女の名前がどう
して最終的にペギーになったのかは別のストーリーとして、後でふれるでしょう)私は、すぐに、彼女が
長い間求めていた女性であると思いました。本当にこのYLと一緒になりたかったのです、そして、
私は最も良い道が彼女のOMに働きかけることであることを計算しました!

 それは、彼が、うまく動かないフィルコのラジオ(ご存じのように1929年にはTVはありません)を持っ
ていたことで始まりました。私は、何個かの真空管を入れたり、調整したりしてラジオの修理を始めま
した。勿論、この仕事ではお金は受け取りませんでした。私自身が「良い青年」になりたかったのでし
た、そして計画は進んだと思います。私はOMに招待され、そして私は、勿論、彼のFBな娘と再び会う
ことことができるのを知っていて、勿論彼の招待を受けました。

 2回目の夜の夕食が終わったすぐ後で、父は寝るために2階に上がっていきました、そして、電灯を
消すように大声で言いました、私は彼の叫び声に「はいスミスさん、あなたの電気代を節約したいです」
と答えました。ディープサウスのゆっくりした話し方で、私はあなたにとっての正しい選択であることを
納得させようとペギーに働きかけました。その夜から、前方へ、私たちは素晴らしい形で問題を消し、
そして、その日から今日まで、私たちは良い選択をしたと確信しています。
                                              

  この2年後に、私たちは婚約するようになり、そしてフィルコの事業は、私が思うには、その
 後数年間米国に起こることになった不景気でひどい不況になりました。私は、数千人の他の人と
 ともにレイオフされました。事業は非常に厳しく、フィラデルフィアで仕事は見つけられません
 でした。このため、私のできた唯一のことはフロリダに向かい両親と一緒に住むことでした。

  この時までに、私は1927年型フォードTを持っていて、フロリダまでこれを運転し家に戻りま
 した。私のペギーのために、その6ヶ月は10年ものように思えてひどく寂しかったことに、私は
 気づきました。フィルコから、仕事のために戻って来るようにとの手紙が来たとき、私は飛び上
 がって喜びました。私は、車を運転して北へ戻り私のペギーに再び会うまで待つのは非常に大変
 でした。勿論、私が彼女に会うために戻り、到着したとき、そしてそれは私たち2人の「幸せな
 日」でした。

  私は仕事に戻り、未来は素晴らしいように思われたので、私たちはすぐに結婚すると決めまし
 た。しかし、ペンシルバニアで結婚したいと思うなら30日も待たなければならないことが判りま
 した。私たちは、メリーランドにドライブし仕事をするための治安判事を、そしてここは結婚の
 ことも行われる所で、訪ねることに決めました。
  フィラデルフィアに戻り、私たちは、小さなアパートに引っ越しました。勿論、私たちが引っ
 越す前に、私の無線機をそこに設置しました。私たちは、長い、幸せな結婚生活を始めていまし
 た。私は、私の彼女と無線局を持って、そしてフィルコで楽しみながら仕事をしていました。
  もっと私が何か欲しいですか?

  一つのことを除いて、すべては素晴らしくなっていました。私がその工場に入るまでは、「素
 晴らしい」と感じていました。タイムレコーダーをパンチするのがすべての最大の難所でした。
 私はそのタイムレコーダーがものすごく嫌いでした、そして、いつかは、出勤、退社するときに
 毎回パンチするタイムレコーダーのあるところでは、私は働かないだろうとまさに私は決心しま
 した。この大嫌いなタイムレコーダーは私がそこを通った時にはいつでも私の一日を台無しに
 しただろう。

  フィルコに戻り、およそ1年間働いたあと、組合が進出し、従業員は皆加入しました。数週間
 のうちに、流れ作業はもっと多くの賃金と時間短縮を要求しました。フィルコは拒否しました、
 そして彼らはストライキに入りました。数日間後、すべての工場は休業しなければならず、仕事
 も終わりました。これは、自分に加えて養う妻がいて、私が失業したことを意味しました。私は
 2週間かかって、フィラデルフィアを去るのが一番良いと決心しました。

  ペギーは、彼女の生まれたところで、また、彼女のすべての親戚が住んでいるニューヨークの
 バッファローに行きたいと望んでました。私はフロリダへ行きたいと思っていました。私は、それ
 の中間の場所に移動することを提案しました、そして、私が以前地図でよく測っていた、ゴムバ
 ンドは中間の地点がサウスカロライナであると示しました。サウスカロライナは実際に私のふる
 さとの州で、私の多くの親戚がそこにいるところだということを、私が見渡して彼女に言ったこ
 とが今では可能です。

  私たちは、家具を非常に安く売り、勿論、そして私の無線機をサウスカロライナへ送り、私の
 モデルTフォードで私たちはサウスカロライナへ向かいました。私たちのポケットには合わせて
 129ドルがありフィラデルフィアを出発しました。私たちがサウスカロライナについたとき、私
 のポケットには101ドルありました。
  それから、私は基本的に、何事にも心配しない人で、少しのお金しか持っていない事実も全く
 私を心配させませんでした。

  私はオレンジバーグで1週間に7ドルの仕事を見つけました。これは不況の日々で、1ドルは
 使いでがありました。私たちがその時でさえ幸せであったと正直に言うことができます、そして
 その上に、852を2本使った私のkW機を持っていました。

 私達は小さな一部屋を持っているだけでした。私達はそこに住み、そこで炊事をし、私はそこで
無線をしました!ある日、私が送信機を働かせたら、電気のメーターが非常に早く回転することに
気づきました。また、私がジャンパー線をメーターに接続したら、回転が非常に遅くなると気づき
ました!女主人が、ジャンパー線を見てこれは何のためにそこに置いたのですかと私に聞くまでは、
これはすべて順調でした。私は、それがメータを減速させて、たぶんそれが焼けてしまうのを防げ
るだろうと説明しました!

 彼女が私のメータプロテクターについて他の誰かに話したにちがいなく、彼女が私にそれを外さ
せるまで、数ヶ月動作しました。
私は見事にうまくやっていっていて、このエリアのよいラジオ修理工になっていました。最終的
に、不況は、私が働いていた人を倒産させました。
それから、私は目抜き通り(月の使用料はほんの6ドル)にある小さい部屋を借りて、私自身の「ラ
ジオ修理」看板を掲げました。遂に、私自身ビジネスを始めました。

私は私自身のボスであり、パンチするタイムレコーダは全くありませんでした!私は、私自身で
この手段を選び、踏み出したことを悔やんだことは一度もありません。
この頃までに、私はオレンジバーグの町の境界から約1マイルの所の田舎に、小さい家を購入し、
そして、いくつかのVビームのためのより十分な場所を持っていました、そしてそれは実際にレアー
なDXと交信し始めた時です。数年後に、私たちのまわりに家が建ち始め、私たちが更に田舎の遠く
へ移転することになるか、あるいは、すべてのアンテナを町の小さなスペースに置くことを強いら
れるかは時間の問題だろうと、私は知ることができました。

2005.7.6
DXers Magazine #203 (1971 March 24)  (アマチュア目次へ戻る)
 
 不況の間、どうにか、すべて私たちは順調でした、勿論、仕事が少ないときには、私たちのベ
ルトはきつく、順調なときには私たちの胃袋は満たされました。実際、私たちが空腹だったこと
は決してなかったことをよく思い出すことができます。

 私達は、どのように物事が進んだかについて2人とも大変満足しました。すべては安く、収支
を合わせるのにあまり多くのお金はかかりませんでした。これに加えて、私は素晴らしい妻を持っ
ていて、彼女は1ドルをその究極の限界まで延ばすことを知っていました。彼女は、毎晩、私が
無線局とともに家に居ることが好きで、すべてをもっと良くすることで、私達2人はお互いを愛
していました。

 私達にとって、毎日は、前よりは良いように思えました。そして、私はいくつかのDXと交信し
ていました。お金はその答えではありませんでした。
 何かが欠けているように思えました、それは、少し“活気づける”ために家に赤ん坊が欲しい
ということが、突然、私たちにわかり始めました。私たちは、このプロジェクトに取り組み始め、
私のDXに少し影響したと思います。それは、本当に厳密な意味では仕事ではありませんでした。
 この間に、ラジオ修理の仕事は非常にゆるやかに回復していて、最終的に、私を助けるために、
誰かが必要になり始めていました。

 このころ、ある日背の高い有色の人が店に入ってきて、彼が仕事を捜していて、安く働くだろ
うと言いました。彼はかなりよい人のように見えたので、彼は「固定しない」給料で雇われまし
た。彼の正式な名前は ジェネラル・リッターでしたが、彼は6フィート、6吋の長身で、“女好
きの男”だったので、彼がたくさんの他の名前をもっていたことがあとで判ったのでした。
 私達は彼を「ポケット」と呼び、他の人は(たいてい背の低い仲間)“高いポケット”と呼び
ました。彼は、大きく太った女性が特に好みだったので、 どこで“長い足の女性の友人"を見つ
けることができるかを、彼らの一人が私に聞きました。

 ポケットはある時、“大きな人”がたくさん住んでいる町のある地域ではどんな石も投げない
ように、石が“彼の子供の一人に当たるかも知れないと心配して”彼は一度そうだったと言い、
私に頼みました。(おかしい所はそれです、当たったかもしれない!)
 彼は、何回も私に、不意に、ご主人が家に帰ってきて、彼は、寝室に彼の全部か殆どの衣服を
残して、寝室の窓から飛び出したと、話しました。
 そのようなことがいつも起きていたように思えました。
 そして、保安官が彼を捜しに来たことが何回かありました。普通、“夕食での熱い”問題のた
めに。(たいてい、魚かチキンのフライ)

 私は、そのような“古き良き時代“の人生は非常に面白かったと言うことが出来ます。
 時に、ポケットの彼の運転は、仲間を“興奮”させるのに十分でした。私は、かつて、そして
いつものように、彼と一緒にいて、道路の交差点で、停止信号でも止まっていませんでした。
 彼は、彼の停止をスライディングストップと呼びました。私は、警棒を持った男が来て“彼を
捕まえる”だろうと彼に警告しました。さて、この交差点で、彼のスライディングストップをし
て、そして、彼の陽気なやり方で続けました。

 偶然、警棒男(ポケットにとってだれでも警官は警棒男でした)がコーナーの角に隠れて居た
ことがありました。そして、サイレンを大きく鳴らしてやってきて、私たちを引っ張り、ポケッ
トに寄せるように言いました。警官はポケットに聞きました、停止信号を見なかったのか?
ポケットは言いました、はいお巡りさん、しかし私はあなたを見ませんでした!
ポケットは何年も私たちと一緒に居ました。
彼はよい器用貧乏でした。

 私は、「あなたには、現在、何人の子供がいますか?」と何回もポケットに尋ねました。彼は、
いつも「それは私の家でですか?」と聞き返しました。そのような男性がかつていたなら、彼
は本当のカサノヴァでした。
 彼が言った話しのいくつかは、実際その多くは、印刷できないようなものでした。控えめに
言っても殆どがおもしろいので、残念です。私のこの話には「X」(注:成人指定マーク)で
はなく「GP(一般向け)」があって欲しいと思って、私は多少これらの種類の話を避けるつもり
です。

 何れにしろ、この間、ペギーは彼女ができることで私を手伝い、ずっと店にいました。私は
ペギーに出納をまかせました、それは、仕事が順調でないときですら、私たちが何とかやって
いくことができるくらい、いつも大丈夫なように見られたことが理由だったと私は思います。

 勿論、ときどきは、無線のニーズのために、誰かが私にそれを呉れたとペギーに言って、こ
そこそと一つか二つのお金を隠したでしょう、私はペギーがよく知っていたと思いますが、
彼女はそのままにしたでしょう。私は喜んで言いますが、今日まで彼女はこのようでした。
もし、私が他の誰かと結婚していたとしたら、うまくやっていけたのだったろうか、としばし
ば考えました。私は、ペギーより素晴らしい人を見つけるためにたくさんのハンティングをし
たのだっただろうか(しなかった)、そして、その後の年月の間に時はすぎ、これが本当であ
ると更に確信しています。

2005.7.14

アマチュア目次へ戻る       前のページへ戻る                次のページへ進む