W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その37)   アマチュア目次へ戻る

                                                        
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第18章 (1) ランバートの感動的なシャック      

 前回の章の終わりは、丁度、私がベチュアナランドから南アフリカに入ったところでした。そこは、私
がこれまでに見たことがある中でもっとも荒涼とした場所、あるいは少なくとも部分の一つでした。少な
くとも、私が南アフリカで見たそのような良い道路は、がたがた音を出した古いバスに乗っていてもはる
かに楽になりました;そして、私の入れ歯が落ちる心配もなしに、再び、私は物を言うことができました。
それは素晴らしいことです!

 私たちは、国境にある税関の小さな家で停まりました、そして、私とそれらの純粋のアフリカ人達は全
員中に入りました。私は、バスでただ一人の「ヨーロッパ人」で、私は「場違い」のように見えました。
私は、普通にアフリカ人についている、通常の何かの「におい」を吸収したと思います。

 税関の職員が、何らかの理由で、私にあまり近づかないことに気づきました。それは「におい」がその
原因だったと私は思います。彼は、私をそのようなアフリカのバスに乗った、何か非常に貧しいクレージ
ーなアメリカ人だとレッテルをはったと思います。(彼は正しくレッテルをはったと、また私も思います。)、
私のような誰かが本当に価値のある何かを持っている可能性はないと彼は感じたと私は思います。なぜな
ら、彼が私に聞いた質問は、何か次のようなものでした;あなたはどこで生まれましたか、国籍は、両親
のカラーは何ですか?(多分、彼には、私が少し日焼けしていて、元気がなさそうだったのでしょう。)付
け加えて;何か銃器を持っていますか、何か弾薬を持っていますか、何かトランジスターラジオを、そし
て、政治的組織には、そして誰と。彼は、税関の用紙に幾つかのマークを記入し、言いました、「ここにサ
インするように。」私は喜んでサインしました。バスに関してはどんな検査もありませんでした。私と、そ
れらのアフリカ人達はバスに群がり、彼らがジョーバーグと読んでいる方へ出発しました。(ヨハネスバー
グへ)

 私は、ランバート、 ZS6IFと会いました。すべての物が、彼の車に積み込まれました、そして、彼と
私は彼のQTHへ出発しました、そして、私の色と臭いを変えるために私はシャワーへ向かいました。私
は本当にそのシャワーが必要でした、そして私がそこから現れたとき、私は本当に人が変わったと感じま
した。皆さん、それは素晴らしいことでした。

 私たちは、彼の家の後ろ数フィートの所のガレージの裏にある、ランバートのシャックに行きました。
ランバートはオランダ人で、何年か前にZSにQSYしてきました。彼が1955年かその頃と言ったと思い
ます。その時までに、彼はオランダ人から南アフリカ人へ、そして彼の信念も100%変えました。

 私がシャックの中に入ったとき、私がこれまでに見た中では、最高にきれいで、最高に円滑で、最高に
なめらかなハムシャックを彼は持っていました。すべてがホームメードで、それは見事に作られていまし
た。すべてが、きれいに、磨き上げられていて、それがまるで昨日作り上げられたように見えました。(そ
れもまたそうです!)

 ランバートは、そのような典型的なオランダ人でした。名匠によって作られた、彼がなした仕事を見る
ことができます、それぞれのネジはきちんと締められてネジの溝は正確に並んでいました。それぞれの半
田付けされた接続は、そのような見事な物の一つでした、私たち米国のハムは時間がないか、その様な努
力をしません。彼のキイヤー、キイレバーなど、すべてが自作でした。ランバートがしたような、そのよ
うな名人芸の仕事をしようとして苦労する仲間が未だハムの世界に居ることを知って、私は嬉しくなりま
した。

  このページに書いてあるランバートがZS9(今のA2)へDXpeditionした時
  のカードで、当時ZS9は非常にレアーでした。


 
087M032507  2007.3.23

・ランバートと奥さんは完璧なホスト

 私たちは、彼のハムシャックの中に座って、世界の遠くのDX局の誰かとそれをしたいものだと思うよ
うなアイボールQSOをしました。彼は、何年もの間に彼が聞いたり、交信した沢山のW/K局のリグにつ
いて知りたがりました。

 彼は、使われていた送信管のタイプ、プレート電圧、電流などを知りたがりました。また、米国のトッ
プDXサー達のアンテナの種類についても知りたがりました。幸いにも、私は、彼が尋ねたすべての仲間
達について個人的に知っていて、そして、私が思うには、彼らのリグについても多くを知っていました。

 しかし、私は彼らが運用していた正確なプレート電圧や電流は全く知りませんでした。私が彼らを訪ね
たとき、多かれ少なかれ彼らの多くはキロワットで運用していましたが、その時には、何もレアーの所は
聞こえませんでした。その時、状況は悪い方ではなく、丁度1キロワットでした。

 あとで、電圧と電流に何が起きるか、あなたは確信は持てないでしょう。とにかく、ランバートと私は、
そこに座っていて、ときどき、彼のオランダ人の奥さんが私たちに運んできた、素晴らしいオランダコー
ヒーを飲みながら無駄話をしました。

 ランバートには、未だ、いくらかオランダ語のアクセントが残っていて、奥さんにはそれが非常に強く
残っていました。彼の子供達は完全な英語を話しました、そして、彼ら全部はオランダ語、英語、そして、
多分そのほかの幾つかのヨーロッパの方言、多分、南アフリカの現地の方言も混じった、「アフリカーナ」
と呼ばれる複合語の、現地の言葉を話したと私は思います。

 それは、学ぶのが大変難しい方言だと言われます。複雑で、話すのが難しい方言で、私はその言葉の二
つか三つ以上の単語すら覚えようとしませんでしたから私は判りません。

 翌朝、ランバートと私は彼の裏庭に行って彼のビームを見ました。それはクワッドのようでした。それ
から、彼が組み立てていた月面反射用のディッシュを見せてくれました。それは本当にきれいで、完全な
造りでした。ランバートの現在の興味は、月面反射、あるいは衛星の追尾かUHFの活動であると聞きま
した。そのため、私はバンドで彼をずっと聞いていません、これが事実だろうと私は思います。

 ランバートと彼の奥さんは、私にとても良くしてくれました。彼は、ヨハネスバーグの周辺を何回もド
ライブして、私にいろいろな所を見せてくれました。そこで、見るべき古いものの一つは、土の内部から
移された、白っぽく、黄ばんだ土の山の幾つもの大きな山でした。金鉱石が何らかの化学的手段で抽出さ
れ、そして、残滓がヨハネスバーグの周辺や付近にあるそれらの土の山々です。

 私たちは、それらの一つの横で停まり、それらの一つをよく見るために私は車から降りました。それは、
殆どセメントのように固いように思えました。その丘で育っているどのような草の葉も見られませんでし
た。私はランバートにこれはなぜですか尋ねました、彼は、地面の上の岩から金を抽出するために用いら
れていた化学処理について私に説明しました、そのため、そこでは何も成長することは不可能です。

 私がそこを訪ねてから数年後にZSの局と話しました、そして、彼は、ある化学者が、今では、土の処
理の方法で、その岩の上で草が生長することが可能であることがわかったと言いました、そして、それら
のマウンドの上に特別な草の種をよくまいたと彼が言ったと私は思います。彼は、今は、誰かがそれらの
一つの上にドライブインシアターを建てたと言いました。そこで、これからは、それらが絶対に無用のも
のでは無くなるだろうと私は思います。

・南アフリカのクルーンスタットでの素晴らしい訪問

 ZS6ANEが彼の所で夜を過ごすようにと呼んでくれたので、ランバートが運転して私を連れていきまし
た。彼の名前はブライアンでした。私がそこにいた時、ブライアンには3才くらいの小さな女の子がいて、
若くて結婚している人でした。彼は、非常に好感の持てる仲間で、素晴らしい奥さんがいました。

 私たちは、彼のハムシャックへ行き、夜遅くまで、そこで素晴らしいアイボールQSOをしました。そ
この冷蔵庫にはコークもあり、そのため、私は彼と彼の奥さんと一緒に居ました。

 次の数日間は、沢山のZS6の仲間を訪ね、彼らのハムシャックを見ることに費やされました、すべてが、
非常に良い無線設備とアンテナで、皆素晴らしいオペレーターのように思えました。

 そうだ、ランバートが、私がこの国に入ったとき、私の無線機を税関に申告したかと聞きました、そし
て、私は「いいえ」と答えました。彼は、それでは私が出発の準備ができたとき、無線機を国の外に持ち
出すのが非常に難しくなるだろうと言いました。

 私は、ものを持ち出すときには、決してどのような問題もなかったと彼に言いました;入るときには「イ
エス」で、しかし、出るときにはそうではないと。彼は言いました、「さて、あなたは南アフリカからもの
を外に持ち出そうとしたことは未だありません。」私は、後ほどこの問題の解決法を見つけました。それは、
別のストーリーで、それは、私が去るときのストーリーになったとき、そこで全部書かれるでしょう。結
局、それは全くうまく解決しました。

 私は、トリスタン、ゴフ、そしてブーベ島への船の出発までの時間を待ちながら、5日か6日をそこで
費やし、実際にヨハネスバーグの周りのどこかの地方を見ました。

 私は、ヨハネスバーグとケープタウンの間で過ごすために、もっと何日か有ることが判ったので、ヨハ
ネスバーグからケープタウンへの距離のおよそ三分の一のところにある、クルーンスタットのZS4MGに
連絡をとりました。私はDXの有線電話をして、ヨハネスバーグへの列車がそこに着くときに、彼と会う
ための調整をとりました;彼の名前はシドでした。およそ、午前1時頃、列車はクルーンスタットに着き
ました、そして、そこに、小さな車と一緒にヤギひげのシドが居ました。車は「シムカ」あるいは、多分
「フォルクスワーゲン」だったと思います。

 私たちは、彼の家に着きました、そして、彼の可愛い奥さんが未だ起きていて、私のためにテーブルに
素晴らしい夕食までも用意していました。彼らと一緒の私の滞在は、私が靴を脱ぎ、ズボンを巻いて、私
が望むとき、冷蔵庫に突っ込むことができるようなものの一つになろうとしていることがすぐに私はわか
りました。言い換えれば、そこにいる間、私が自分の家でくつろぐようにと私に言いました、そして、そ
れは滞在でまさに私が望むことでした。

 私は、彼の局を運用することもできました、それまで私はあまり運用していませんでした。私は、彼ら
が自分たちをそう呼んでいる、ガスワッチヤーと沢山のラグチューをしました。私は、今後予定されてい
る島々への私の旅の進行状況について彼らに言いました。可能であるなら、私がレアーなカントリーに
着いたとき、本国の仲間達がオンエアーできるように、彼らとよく情報を保つように、常に私は考えて
います。

 

  このページにガスが書いたZS4MGのカードです。
087M032507  2007.3.23/26
第18章 (2) ケープタウンに到着し、市長の出迎えを受ける 
  
 私と交信するために、仲間達の何人かは仕事の休暇を取ることを私は知っています。何時病気になるべ
きかを、彼らの多くが知りたがっているのも私は知っています。彼らの誰かが、ただニューワンと交信す
るためだけに、休暇でいたテキサスからオハイオの自分の家に飛行機で戻ったのを聞いたことさえありま
す。私がオンエアーしたと、仲間の一人が彼に有線電話をした時、診察台に彼の患者を残したままのニュ
ーヨークの医師が居たと私は言われました。

 アイマック社のビル(Bill Eitel)が、私がどこかの場所に上陸した最初の日に、彼の仕事の部下達の多
くが病気になり、それが彼らの生産高を非常に急激に削減したと私に話しました。もちろん、彼がそれを
言ったときは、私をからかっていたと思います。

 正常な状況なら、もし私が次にどこに行くかを知っていれば、私がDXpeditionのスケジュールを発表
しない、どのような理由もありませんでした。できるだけ多くと交信するために、私はDXpeditionに行
きます、そして、これは、「珍しいところ」から運用を始めるとき、私をコールする沢山の人がいることを
確実にする方法です。

 時には、あなたが行くのを計画していることを、前もってあまりに早く発表するのは得策ではないこと
を私は知っています。あなたを妨害する、あるいは、ロンドンに電報か航空便を送って、あなたを止めよ
うとする、ある度を越えた熱心な人が居る可能性があります。そのような状況では、冷静に、そして、口
をつぐんでいるのが、何時も最良の方法です。私は、チャゴスへの厳しい旅でこのことを学びました。な
ぜドンミラーが、彼が行こうとしている、あるいは行こうと計画している所に関して、殆ど、そのまま言
わないことを、それが説明するかも知れません、

再び、ストーリーに戻ります

 ZS4MG、シド(Sid) は、まさに彼の裏庭に素晴らしい桃の果樹園を持っていました。桃は、完全に熟す
るにはおよそ1,2ヶ月でした。それは、私が行く途中の島嶼からの帰りに、そこに立ち寄って見るのが、
もっとも確かだと彼と彼の奥さんに言いました。私は、桃とスイカが最良に育つ米国の地域からきた私に
ついて、そして、桃と生クリームを食べるのが、私がどんなに好きかを彼らに言いました。(ウムウム)彼
は、幾つかの完全な木を、まさに私が戻って食べるために残しておくと言いました。

 私がそこにいた間に示してくれた、それらの素晴らしい家庭料理と、本当の友情の両方があったクロー
ンスタットを本当に去りたくありませんでした;しかし,ケープタウンからの船の出発、「D」デイが私に
忍び寄っているのを私はカレンダーで見ました。

 ある夜遅く、私はケープタウンに行く列車に乗りました、そしてシドと彼の奥さんと娘さんが私を見送
りました;そして、私はケープタウンに向けて出発しました。この旅は、そこに着くまで本当にスムース
でした。それらの南アフリカの列車は非常に豪奢で快適な乗り心地で、そして食堂車の食事は非常に素晴
らしく、値段は適正でした。また、料金も手頃でした。

 翌朝の日の出の頃にケープタウンの近くに到着し、市と周辺にはかなり山が多かったのを私は見ました。
ZS1RM、マージ(XYL)とZS1OU、ジャック(OM)に列車の駅で会いました。彼らは、市長と一緒でし
た、そして、素晴らしい歓迎を受けてから、私たちはコークを飲むために冷たい飲み物のバーに行こうと
言われました。

・コカコーラはボトルで飲むのが最高

 いつものように、私たちは椅子に座り飲み物を注文しました、(私たちは全員コークを頼みました)私は
ウエイトレスに必ずボトルで持ってくるように言いました。彼女は言いまし「OK」そして、いつものよ
うに、彼女はグラスに入れたコークを持ってきました。私は、飲むのを断って、私はボトルに入ったコー
クが欲しいのだと言いました。彼女は半分しかめ面で代わりを持ってきました、今度はボトルで、その時、
市長が言いました、「違いはないでしょう。」それで、私が言いました「それはそうです、私はコークの目
利きです。」いつがもっとも良いかを私は知っています。

 彼、ジャックとマージは、グラスに入った自分のを持っていました、それから皆は次のコークを注文し
ました、今回はボトルに入ったのを。この飲み物のバーで、彼らは少しずつ飲み、そして、コークのテス
トをしました。彼らはグラスから少し飲み、そしてそれからボトルからがぶ飲みします。この、テストの
少し後に、彼らは三人とも、「違いが有る」と決めました。彼ら全員が、ボトルから直接飲むのがはるかに
良いと言いました。そこで、もし、私が南アフリカで他に何もしなかったとしても、私は、コークを飲む
には、ボトルから直接飲むのが正しい方法だと3名を転向させたと思います!

 この小さなエピソードのあと市長は出かけました、彼の事務所へだと思います、そしてジャックとマー
ジと私は、海岸を望むストランド(The Strand)にあるアパートの上の階の、彼らが住んでいるところに向
かって出発しました。ケープタウンのストランドは海岸に沿ったリゾート地で、休日のスポットのような、
週末には皆が泳ぎ、釣り、ゴルフなどに行くようなところです。

 マージは美容院で働いていました、そして、ジャックは保険のセールスでした。彼らは、ちっとも裕福
なクラスではありませんでした。彼らは、普通の、現実的な人達の種類で、高級アパートには住んでいま
せんでした。彼らは、私のために特別にベッドルームを用意していました、そして、彼らの冷蔵庫は沢山
のコーク、新鮮な果物、ケープタウンのブドウ、マスクメロン、スイカ、その他の美味しい食べ物で一杯
でした。

 彼らは、私を彼らの無線シャック(それは普通のもの)へ連れていき、そして、無線機の使い方とビー
ムアンテナの回し方を教えてくれました。彼らは、「ガス、あなたが私たちとここに居る限り、無線機はあ
なたのものですと言いました。あなたが、自分の家に居るようにして、あなたがしたいだけ遅くまで寝て
いて下さい。」

 何時間もの素晴らしいアイボールQSOのあと、シャックに私を残して彼らは寝室に向かいました。私
は、すぐにオンエアーしました、私のDXpedition周波数の14065でCQをCWで呼んで、そして、トリ
スタンダクーニャ、ゴフ、そしてブーベが、絶えずどんどん近付いていると彼らに言いながら、米国のか
なりの局と交信しました。

 私は、沢山の交信をしながらおよそ午前3時頃まで居ました。未だ私を呼んでいるパイルアップの中か
ら私は抜け出して、翌朝の午前10時まで寝ました。

 私が起きたとき、私がそれを見るに違いないと、マージとジャックはリグの上にメモを残していました、
それは、彼らが仕事に出かけなければならず、私に自分の朝食を作るようにと告げていました。さて、そ
れは、本当に自分の家に居るようでした。彼らは、家全部を私に引き渡しました;更に、彼らは言いまし
た、あなたが使いたいだけリグを使うように、私たちは正午にお目にかかります。

 私はゆっくり、のんびりした朝食、コーヒー、マスクメロン、そしてスイカの大きな一切れ迄も朝食に
食べました。やれやれ、これはサウスカロライナに戻っているようでした。

このカードに書いてあるアワードの数を見ると、当時、彼ら夫妻が熱心なDXサーで
あったことがよく判ります。
088M033007 2007.3.30
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