W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その36)   アマチュア目次へ戻る

                                                        
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第17章   (1) ルワンダ国境で質問を浴びる        

 前回の章で、私は9U5BH、ブルンジのジョンと一緒でした。沢山の素晴らしい食べ物と彼の小さな家
族との滞在はFBでした、そして、昼は一日中よく眠り、夜中は一晩中運用しました。また、仲間達と交
信するために一日中起きていた時に15mと10mが開いていたらどんなだっただろうかと私は思います。
今の状態のようにすべてのバンドが開いていたら、あなたはとことんまで交信したでしょう、

 別の旅行に出発することを、私は多分すぐに知るでしょう。そうなっても驚かないで下さい。現在、私
の小さな週刊DXers 誌は、毎日14時間から16時間私を働かせています、しかし、それは順調で、遅か
れ早かれ、私が別の旅行に出発することができることを確信しています。その期間には、すべてのDXサ
ーの情報を知らせるために1ページの会報が発行されるでしょう。

 ブルンジでのおよそ5日間の運用のあと、私はジョンにルワンダの情勢について尋ねました、そして、
そこでは、なにか「政治的な問題」が起きていると言われました。そのような国々の多くで、殆どの時、
「政治的な問題」があることが後で判りました。それは、時には悪く、そして他の時には穏やかです。翌
日、私をそこにドライブで行くとジョンは言いました。

 私たちは朝早く起きました、そしてそこの土地によくあるような荒れた土の道路へ出発しました。それ
は一つの丘を登り、そして下る、その連続でした。沢山の現地人が道路を歩いていました。それらの全部
がどこに行こうとしていたのか私は判りません。ある人達は、背中にとても大きな包みを背負っていまし
た。その多くにはバナナの葉がありました。私は、それをマーケットかどこかへ運ぶのだろうと想像しま
した。誰がそれを買うのか私は判りません、なぜなら、そこの人達は皆が草葺き屋根の家のまわり全部に、
とても大きなバナナのプラントを持っているように思われます。

 およそ25マイルか30マイル走ってから、私たちはブルンジとルワンダの国境に着きました。ブルンジ
の警備官は私たちに手を振っただけでした。しかし、私たちがルワンダに入ったとき、ライフルとピスト
ルを持ったおよそ5名の警備官が家から道路の中央に出てきました。彼らは、私たちをジョンのシボレー
から降ろして、小さな国境警備小屋に入らせました。私たちは、そこでなぜ私たちがルワンダに行こうと
しているのか、私たちの仕事はなにかとエンドレスの質問に答えさせられました、

 私たちは、友人を訪ねようとしているのだと主張し続けました、彼らは、それは誰か、何のために彼に
あうのかを知りたがりました。私たちは、古い友人のフロリン神父(Florin)、9U5BHに会いに行くつもり
で、彼とは長い間会っていないとジョンが言いました。

 私は、不意に「素晴らしい」アイディアを思いつきました。なぜ彼らの中央で私と一緒にそれら警備官
全員と写真を撮らないのでしょうか?私たち全員は外へ出て、並び、沢山の写真を撮りました。私は彼ら
に、これらはカラー写真で、現像のために米国は送らなければならないと説明しました。

 私は、写真撮影の事で彼らの質問を彼らの心から取り去ったようだと思いました。この時は、すべての
無線装置がジョンの車の中のサムソナイトのスーツケースの中にありました。もし、彼らが私たちに「開
けるように」させたら、私たちはルワンダに入ることは決して許可されなかっただろうと確信しています。

 それは、その国には二つの派閥があったように思われます、そして、それはお互いに互角でした。最後
に、国境の警備官は現像されたらその写真を彼らに送る約束と一緒に私たちを通らせました。

2007.3.9 

・アフリカ深部での歓迎は疑問

 私は、それらの写真を彼らには決して送りませんでした。

 実際、私は彼らの名前と住所をずっと前に忘れてしまいました。少なくとも、私の意志はいつも善良で
した。

 その国に入ったあと、私たちは、道路に沿って、まるでパーティーにでも行くように派手な服装で着飾
った、非常に見事な髪型を見せびらかしている、それぞれ異なった人々達のグループの横を通り過ぎ始め
ました。

 彼らの頭のトップには、約半インチから1インチの巾のギャップの両側に、髪を大きく積み重ね、普通
は片側が反対側よりも更に高くなってます。彼らの髪型は遠くから見ると帽子のように見えました。

 私たちが道路で会った人々は、私たちに向かって手を振り始めました、そして、彼らがこれをした時は、
彼らの何人かは指を1本上げ、他の人達は3本の指を上げたのに私は気が付きました。ジョンに、それは
何を意味するのかを尋ねました、そして、それは彼らがどの仲間に所属しているかを表すことを知りまし
た。ジョンは、いつもまず待って、彼らに先に手を振らせ、彼らがどの指を上げるかで、私たちも同じよ
うにするように勧めました。

 ジョンは、車の中で誰かが間違ったジェスチャーをして、彼らのフロントガラスに石を投げられたと彼
が聞いたと更に説明しました。さて、ずっと前から「手を振るベテラン」になるのは私の得意のことでした。
私は、その時からその仲間になりました。

 更に数マイルで、私たちは道路のそばの広場で、非常に大きな人達の集まり出会いました、そこら中で、
彼らが手を振っている小さなプラットフォームの上にスピーカーがありました。さらに、彼らは大きな音
を出す非常に大きいスピーカーシステムを持っていました。「車を止めて!」と私は大声でジョンに言いま
した。私たちは止まりました、そして彼らの大騒ぎ全部の何枚かのショットを撮るために私はカメラをつ
かみ実際私は何枚のショットを撮りました。

 すぐに、群衆は私たちを見ました、私たちは注目の的になりました。彼らは、私たちが好意的と呼ぶも
のとははるかに遠いものでした。ジョンは言いました「ガス、今すぐ、ここから逃げよう!彼らが私たち
に向けている視線が私は嫌いだ。」私は彼に同意して、私たちはアクセルを踏みました、そして私たちは「お
びえている野ウサギ」のように離れました。それは、私がそのあたりをうろつきたいと望まなかった場所
の一つでした。これは、私がアフリカの中央の「未開のカントリー」と呼ぶところでした。

 私は、ウェインがアフリカのそのエリアのサファリから帰ったら話しができるような幾つかのストーリ
ーを書くだろうと思います。彼がそれに使った費用を私は聞きました、そして私の言うことができるすべ
ては、私がそこに行ったとき、彼が言及したお金を持ちたかったと確信しています。彼の一日の予算は、
私が一ヶ月に使ったものと殆ど同じだろうと私は見積もります。しかし、私のこの「ちっぽけな」予算で、
ウェインがしたのと同じような素晴らしい時間を過ごしたと私は確信しています。

 私たちの意志は首都に行くことでした、しかし、フロリン神父のところに一寸訪ねるため止まったとき、
私たちに、首都がいかに不安定であるかと言うことを彼は話しました。フロリン神父のところに滞在する
ように「招待」したとき、私はまさしく、半分のパンでもないよりはましとすぐ決めました。私は、無線
機の梱包をほどき、そして、全部の神父が住んでいるところの自分のプライベートルームを示され、食事
の時間には、私の食事のために食事テーブルにいるように言われました。フロリン神父と私は数百フィー
ト離れた、無線シャックに私のすべての設備とともに向かいました。

・フロリン神父の学校から9U5BHで運用

 フロリン神父の英語の知識は非常に限られていて、彼の母国語はフランダースだったことが判りました。

 私たちは多くの話はできませんでしたが、私たちはトライしました。それは、「アイボールQSO」のよ
うで、しかし、驚くほど、私たちはお互いに判りました。私は、いまだにどのようにしたのだろうかと思
っています。

 私がそこにいた時には、全部がAMフォーンで、15メーターだけの沢山の装置をフロリン神父は持っ
ていました。彼は、私にそれを使わせると言いました。私は、私自身のものを使いたいと説明しました。
彼は3エレメントビームと米国向けの素晴らしいVビームを持っていました。

 私たちは、彼のデスクにスペースをとり私の無線機を接続しました。すべてがチェックされて、私は
9U5BHのコールで運用始めました。私の仲間達全部が加わり、沢山の局が私はニューワンだと言いまし
た、これは未だ私は疑っています!

 20メーターの伝搬がなくなってから、私は40メーターに調整し、40メーターの運用が再び始まりまし
た。(私の、52オームパイ出力でVビームを使うため、私は、小さなアンテナチューナーを組み立てまし
た。)私は、80メーターもトライしましたが、しかし、あまりできませんでした。バンドは、毎晩およそ
午前4:30まで開いていました。

 私はフロリン神父にその付近のライオンについて尋ねました、そして彼は、時折数匹はいると言いまし
た。これは、無線シャックから私の部屋までの、毎晩4:30頃の一寸した散歩を楽しくしました。私は、遠
くの方で何匹かのライオンがないているのを実際に聞きました、しかし、ライオンは私がいたところから
大分遠くにいたので、私は安心でした。それらがどこか他の場所にいる間は、私は絶対に安全だと感じま
した。ライオンは夜間に彷徨するので、日中はライオンの国の中でも安全です、

 フロリン神父の居た場所は、2000人ほどの子供が通学する非常に大きなカソリックの学校でした。彼ら
のかなりの数が学校に住んでいて、そして残りは村に居ました。彼らの年令は、私が見たところで6才か
らおよそ16才まででした。

 私は、まだフロリン神父はそこに居るだろうかと思います。実際、その頃アフリカの場所で起きたすべ
ての「変化」で、私は学校が未だそこにあるのだろうかと思います。ブルンジとルワンダはコンゴと合流
し、フロリン神父はベルギーからきています。(注)それらのコンゴの人達のいくらかは、なにかの理由で、
ベルギー人を好きではありません。

 フロリン神父の学校がある場所はコンゴと非常に近いです。そこのすべての生徒は現地人で、彼らの髪
のメーキャップ、ドレスやその他の違いにより表現される沢山の異なった部族で、お互いに殆ど話すこと
ができないと言います。

 フロリン神父は、そこに小さな「放送局」を持っていました、それはパイネットワーク出力で、それを
彼はVビームに接続していました;Vビームの片側はグラウンドで。当然、それはうまく動作しないでし
ょう。Vビーム用のチューナーを組み立ててから、私たちは、それで運用に入りました。フロリン神父を
含め皆が喜びました、私も同様でした。

 彼は、非常に沢山の数のレコードを持っていて、私が思うには、村とその近くの聴取者に向けて毎日数
時間放送したがっていました。

(注)ガスがブルンジとルワンダから運用したときには、両国ともコンゴから独立したあとですから、このように書いた
   理由はよくわかりません。
084M031007  2007.3.11 
第17章 (2) 目的地ケープタウン    

 そこの神父の全員と一緒の滞在は最高に楽しいものでした。空中状態は非常にFBでした、そして、私
が出発するときがやってきた時、神父は、アフリカの他の地域を訪ねたあと私が戻ってきて、彼らと一緒
に3ヶ月か4ヶ月滞在するようにと力説しました。

 無線の交信で、誰かが彼の「放送局」のために変調トランスを送ったと知りました。私が去ったあと、
それが無事届いたことを願っています。もし、未だ彼がそこにいるなら、再び彼を訪問し彼の放送局がど
のように発展しているかを見るのは素晴らしいでしょう。

 ジョンは、ブルンジからドライブして来て、私たちは、私の無線機を積んで彼のQTHへ戻りました。
私たちは、ある夜ウサンブラ(Usumbura)までドライブし、ジョンのコールサインの代わりに私のコー
ルサインを使う許可を求めるため、そこの郵政のトップを訪ねました。私たちは彼のOKを貰い、9U5JH
のQTHで9U5ZZのコールを使うことが許されました。(注)

 私は、このコールを使って、帰りの時におよそ3日か4日そこに滞在しました。私が良く覚えている一
つのQSOをそこからしました。それは、SSBでヨハネスブルグのZS6ANEとでした。ブーベ島へ行き
たいと思うかと彼に聞かれました。さあ、これは間違いなく私にです!もっとも、費用は自分が持つのだ
と告げられました。これは、私の厳しい予算にとって一寸心配でした。私は「そっと」と聞きました「ど
のくらい」。それは、私が船に居るときの食事代として、一日あたり3ドルだろうと言われました!

 また、船はトリスタン・ダ・クーニャ(Tristan da Cunha)とゴフ(Gough)諸島を通ってそこに行く予
定であると言われました。この進展は、私が全く考えていなかったことがやってきたものでした。更に、
ZS6ANEはブーベから運用する私のライセンスを貰うため、当局へ行くようLA5HEに求めたと言いま
した。また、既に私がトリスタン・ダ・クーニャとゴフ諸島からZD9AMのコールサインを使うことがで
きるようにしたと言いました。

 私は決められた日に間違いなくケープタウンに居るようにと告げられました;その日はあまり先ではあ
りませんでした。これは、私のブルンジでの滞在を短くしました。ジョンは、私をタンガニカの西部にあ
るキゴマ(Kigoma)まで車で送ると言いました;私たちが滞在しているブルンジからはかなりの距離で
す。

 ケープタウンの船に間に合わせるために、私のすべての旅程が突然逼迫したことで、ブルンジでの私の
滞在は最小限に短縮されなければなりませんでした。世界のこの場所では、輸送手段は遅れるのがあたり
まえです;そうです、間違いなくあなたは遅れます。

 翌日の朝早く、午前1時頃私たちは出発しました。私は、その日の午後にキゴマに着かねばなりません
でした、さもないと一週間に二回の列車を逃します。その列車を逃すとケープタウンに着くのが遅れるで
しょう、そして、遅れることは許されないでしょう。最悪ではブーベ島への旅行を逃すでしょう。ブルン
ジからキゴマへの旅は本当に髪の毛が立つような経験でした。

 私たちは、非常に深い峡谷の上の揺れる橋を、そして、全く標識のない非常に悪い道路を旅しました。
その夜、とても沢山の動物が見られました。ヒョウ、ライオン、3頭のゴリラ、とても多くのハイエナ、
そして、数え切れないほどのそのほかの動物が居ました。それらの殆どは、私は名前さえ知りません、そ
して、幾つかはジョンがこれまで見たこともないと言いました、そこに長年にわたり住んでいたジョンが
です。道路は、皆さんが私のカラースライドで見たことがある、ブータンのチンプーの道路と殆ど同じほ
ど悪い道でした。

私がこれまで訪ねたアフリカの最悪の場所 

(この時には、ブータンに行ったことはまだ有りませんでしたから、このティンプーの道路が実在するこ
とを知りませんでした。)
 私たちは、沢山のスペアガソリン、オイル、水、いくらかのサンドイッチ、それにコーヒーを入れた二
つの魔法瓶、(これらは、キゴマへ行く旅で全部消費しました)を持ちました。

 ここは、私がこれまで、また、その後でも見たアフリカのもっとも悪い地域でした。それは本当に「未
開の国」で;非常に原始的な現地人達で、ある人達は服は下半身だけ、ある人達は全く裸で、男達は皆
民族的なペイントをしていました。彼ら全員の誰にも笑顔はありませんでした。

 それは、車には大きなダメージを与えたような旅の一つでした。運良く、私たちは車のトラブルは有り
ませんでした。私は2カ所の間の正確なマイル数を忘れましたが、しかし、私が思い出す限りでは、それ
は125マイルほどでした、そして、そこに着くまでに翌日の午後までかかりました。125マイルをドライ
ブするのに15時間ほどかかりました;さて、それはとても遅い進行でしたが、しかし、それは私たちが
その原始的な道路でできたベストのことでした。

 そこでの物事はとてもおかしなことでした。あなたが、どこかの村、町、市のどこにでも着いたとき、
たとえ、僅か数分あるいは数時間そこにいるだけであっても、最初にすることは警察に出頭することです。
私が、何もしないで、殆どすぐ立ち去ろうとする事実もこの形式的なことには関係有りません。そこで、
私たちは警察に行きました。

 警官と話をして、半ダースもの書類に書き込んだあと、私たちは僅か2時間そこに滞在することを許可
されたと告げられてから、私たちは出発することを許可されました。そこにいるそれらの人達はチャンス
があればその権威を示すのが好きです、そして、ここの人達も例外ではありませんでした。彼は、私たち
が彼の事務所に入ったときから私たちが出発するまで、私たちにそれを示します。(喜んで、また)

 私たちは、まっすぐ駅に向かいました。私が列車で食べるために、非常に大きなバナナの束を47セン
トで買ったマーケットの場所に途中で寄りました。(それは、また、南アフリカのヨハネスブルグまで持ち
ました。)おかしなことに、私は、未だバナナが好きです。

 バナナを買ったあと、私はマーケットの場所の何枚かの写真を撮ろうとしました、そして、これが大き
な騒ぎを引き起こしました。一人のきちんとした身なりの現地の人が、私とジョンに向かって、彼らの言
葉で何か大声で叫びました、そして、人々は彼らの顔に意地の悪い表情を浮かべて、私たちの方に来始め
ました。ジョンは、車に乗ろうと言いました、そして、私は車に乗ってひどいQRMの中をQSYしまし
た。

 人々が逆上しているのかを知りたいとき、人々の言葉を理解する必要はありません、そして、それらの
人達は興奮していました。彼らの許可なしにそこで写真をとるようなことをしてはいけないことの一つだ
とすぐ学ぶでしょう。彼らは、これを許可するためにいくらかのお金(シリング)が欲しいのです。

 とにかく、私たちは駅に着きました、そして、そこの現地人達の列に並んだ時までに、私は、そこに広
がっている臭いを吸収したと思います。チケットを手にして、私たちは列車の私のキャビンに向かいまし
た。私は落ち着き、列車は出発しました。

 私は、遅れることが嫌いな人達の仲間の一人です、しかし、今回、警察のチーフが私たちを彼の事務所
と待合室で非常に長時間遅らせたことを、私たちはただ呪うのができただけでした。それらの人達は、絶
対に急がないでしょう;彼らを急がせようとして時間を無駄にしないで下さい。

・タンガニカでの列車とバスの旅行 

 実際、私はあえて言いますが、それは本当に彼らが遅くしたときでした。歯をきりきりさせて、状況を
堪え忍んで、そして、次回にはするだろう、そのほかの方法を考えようとします。

 ジョンは列車から飛び降り、「ブーベ島でのあなたに会いましょう」あるいは何かそのようなことを列車
がキゴマからダラッサラームへ向かって進んだときに言いました。

 私がそのバナナの一つを食べながら旅行はスタートしました、そして私自身に言いました、「ガス、あな
たは自ら災難を招きました、これがそれです。」あなたがアフリカの深部を見たいなら、さて、あなたはそ
れを見ています。(そしてどのように) 「その列車には空調がなく、一等席の予約なども有りませんでし
た。」あなたはただ現地人の群衆に交じっていました。もし、あなたがそれを嫌いなら、下車するだけです。
他の唯一の方法は歩くことです。バス、航空機や道路もありません。列車か徒歩です。

 私を南アフリカへ連れていってくれるバスをつかまえる所、タンガニカの中央にあるイチギ(Itigi)と呼
ばれる場所に向かっていました。イチギへの旅は一晩かかりました、そして翌日のおよそ午後4時に私た
ちはそこに着きました。

 今回、私は汚れ、臭く、疲れて、そして、多分現地人のように見えました、私は、全く歓声を上げませ
んでした。私は、さあ「現地人になろう」と言いたかったし、私はそうなったし、あるいは、少なくとも、
それを私がどう感じたかです。

 列車から降りて、私の無線機の全部を3名ほどの運搬人に持たせ、一緒にバスの駅に向かいました、そ
して、私はずっとそれを注視していました。私がブーベ島に着いたとき、何も失うことはできなかったの
です。

 私がしているような旅行をあなたがしている時、ものは無くなるという悪い習慣があります、そして、
私の荷物の各部分はまさに一連のものです。もし、ただ一つでも無くなったら、それはNGです。もしそう
なったら、あなたの進路はその場で完全にストップです。私にそのようなことが起きるのは望みません。
それが、何時も私が無線機のすぐ近くにいるという理由です。

 その地域でのいつものようにバスは遅れました。実際、あえて言えば、バスは非常に遅れました。私が
乗るバスはナイロビからで、バスはおよそ2時間遅れて着きました。私は、既にチケットを持っていまし
た、そして、バスが着いて、すべての人達がそのバスを待っていたのを見たとき、私はその乗客の一人に
なろうとしていると決めました。

 私は、運搬人全員を荷物と一緒に待機させ、何をするかを指示しました。バスが止まったとき、彼らは、
すぐに私の荷物をバスの屋根の上に積み重ねました。私は、バスの運転手にチップを手渡し、それから切
符を渡しました。運転手は身振りで、私に一番前の席を示しました。待っている彼らのおよそ半分があと
に残されました。バスは、誰も立つこともできないほどに一杯に詰め込まれました。

 アフリカのそこの地方には舗装道路はありません、私がそこにいた時には、少なくともそれらは舗装さ
れていませんでした、そして、私は、今それらが舗装されたとは思えません。「洗濯板のような」道路と言
えるような、そして、洗濯板のそれぞれの溝を感じさせるような厳しい速度で運転手は運転しました。

 バスの屋根の上の、私のかわいそうな無線機、飛びはね、そして、のちに私の頭痛を引き起こした、接
触不良が起きることを私は考え続けていました。バスの屋根の上は、自転車、箱、無線機、鶏、そして、
何が入っているか誰も知らない沢山のバッグが積まれていました。そうです、私は列車からバナナを持っ
てきていました。それと前後して、気持ちを楽にするために私はバナナを二本食べました。暫くすると、
喉が乾きます。さて、どこから水を手に入れるのでしょう?

(注)最初にブルンジに滞在したときからガスは9U5ZZのコールを使っていましたから、9U5ZZのコールを後半から
   使ったとここに書いてあるのは彼の勘違いだろうと思います。
085M031507  2007.3.14
第17章 (3) 上着とネクタイ着用で入場可      

 バスは、何人かを降ろして、そして、更に何人かの乗客を乗せるために結局止まりました。
皆が、錆びたバケツを持って井戸に向かいました、そして、黄色に見え何か悪臭さえした水を汲み上げま
した。私は、イチギの列車の駅からとって置いた紙コップに、その汚れたように見える水を一杯にしまし
た。

 私は、「浄水用錠剤」から一つををとり出しその中に入れました、そして、錠剤が溶けるまでコップをか
き混ぜ、水を喉に流し込みました。私が思い出す限り、それは湿っていて、ぬるく、汚く、しかし、少な
くともそれは水でした。

 現地の人達は、バスが止まるように道路に沿って手をあげ、そして、押したり動かしたりしながらもう
一人乗りました。もし、私が目が見えなくても、私はアフリカに居たと言うことができたでしょう、なぜ
なら、皆が、汗と、汚れ、そして全く洗濯したことのないと確信する衣服でしたから。しばらくしたら、
全く何も臭いを感じないようになります。その時には、私も彼らのように臭っただろうと思います。

 それにも関わらず、私はずっと敬意を持って扱われました。バスが立ち席だけで一杯の時でさえも、彼
らは、私に席をきちんとくれました。バスは、一日中走り、そして日没に、道路に沿った「旅行者用ヒュ
ッテ」の一つに停まりました。

 そのような場所は、一晩を過ごすのに1ドルかかります。そこでは、あなたが到着したとき一杯のお茶
が出されます、そして、朝にはバスの時間に間に合うように起こしてくれ、もう一杯のお茶が出されます。
そのような場所のそれぞれに、かなり良い蚊帳付きのベッドを見つけられることになっていました。

 通常、バスが来て私を最初に乗せ、それからバスの小さな停留場に行き、そのまわりの地面に寝ていた
他の乗客を乗せるでしょう。昼食の時には、道路沿いにあるかなり良いディナーを適正な値段で食べるこ
とができるティールームの一つに私を連れて行ってくれました。

 これが、毎日食べた私の唯一のきちんとした食事でした。午後になると乗客は腹が減ります。最後には、
現地人が食べる、干した、そのような塩漬けの小さな魚、それに、塩味のその他の干した食べ物に、私も
行きつきました。それは、何も問題はありませんでした。これは、あるとき私が「現地人になった」ので
した。

 私は覚えています、ある日、私たちは北ローデシアの道路沿いにあるティールームに停まりました、気
温が華氏でおよそ110度で、そして、そのティールームには、外にこのような看板がありました。「ネクタ
イ、上着着用者のみ入場可」

 私は、半ズボンと白いシャツだけで、歩いて入りました。(それは、ともかくまえは白でした。)彼らは、
「私にでて行くように。」言いました。私は、気温が100度もあり、非常に暑く、ネクタイと上着を着るに
は暑すぎると説明しようとしました;そして、とにかく、私の全部の衣服はバスの屋根の上にあると。付
け加えて、私は空腹で、何か食べ物が欲しいと。いずれにしても、それは役に立ちませんでした、そして
そこでは何も食べられずに終わりました。

 私は戻って、現地人達と一緒に食べました;もっと乾いた魚、そのほかの干した肉、そして、何か非常
に固いバンがありました。それは、非常に黒ずんで汚れて見えたものでした。そこで、私は、ハイクラス
の場所に入れなかったことが判りました。私は、彼らに倍の値段を払うとさえ提案してみました。私は、
そのような処置は全く嫌いです。私は、三日か四日かそれ以上、白人を見ませんでした。そうです、私は
厳しいアフリカを見ていました、これは私が認めます。

・ショーティVQ2EWは楽しい訪問でした

バスは国境のすべてで停まりました、そして、私たち全員は税関の小さな家に行き、何時も質問は殆ど同
じでした。何か銃器を持っていますか、何か弾薬を持っていますか、何かアルコール飲料を持っています
か、何かテープレコーダーを持っていますか、何かトランジスターラジオを持っていますか。私の答えは、
勿論、そのすべての質問にノーでした。

 私の荷物は、ただ一カ所のチェックポイントでも開けられず検査もされませんでした。すべての無線機
器は一度も開けられずにタンガニカのイチギから南アフリカのヨハネスバーグまでずっと移動しました。
アフリカをバスで旅行する様な人は誰も価値のある物をもっていないと、彼らは計算したと私は思います。

 私が最初に止まったのは、ショーティ(Shorty)VQ2EW (これが彼のコールだと思います)と彼の素晴
らしい奥さんの所でした。ショーティの冷蔵庫には沢山の冷えたコーラがありました。
ショーティと彼の奥さんは、今は、彼らが元々いたZS6に居ると思います、

 彼は、車を運転して、現地人の地域、市場のすべてを私に見せてくれました、そして、そこに居る彼の
友人達に会いました。ショーティと彼の奥さんは、私にとって素晴らしいホストでした。

 彼の運用デスクに私の無線機を組み立て、そして、米国とそれに他の国々の私の友人達と沢山のQSOを
しました。私は、ブーベ、トリスタンダクーニャ、ゴフ諸島への提案されている旅について彼らに言いま
した。

 ショーティは素晴らしいクァッドを持っていました、そして、それを私の無線機に接続することにしま
した。SWRは非常に高く、3か4対1くらいだったと私は覚えていますが、私が言える限りでは特に悪い影
響はありませんでした。そこの人達は、米国へのオープンは素晴らしかったです。そこでの毎時間のその
ような徹底的なS9+++の信号を、あなたは聞くべきです

 私は、仲間達をバンドの端から端まで、良く聞いていました。時には、誰かが「今、ガスはどこにいる
だろうか」と言うのを聞きました。私は、コールして言いました「私は今ここに居ます、何かできますか?」
それは、彼らを一寸うろたえさせただろうと私は思います。しかし、それはとても楽しかったです。

 私は、ショーティの家ではもう空腹を感じませんでした、しかし、出発の時が来ました、そして、私は再び
アフリカのそのバスでヨハネスブルグへ向かいました。それは、再び、すべてがもっと古い同じことでした。

 私たちは、途方もなく大きいザンベジ(Zanbezi)の滝を過ぎました、今まで見た、ナイアガラよりもっと
大きく、荒々しいように思えました。私たちがそこに停まった時は、午後の遅くでした、そして、写真を
撮るには遅すぎました。私は、何枚か撮りましたが、それらの一枚も、十分な光がないために結果は良く
ありませんでした。

 私たちは、食事の時を除いて全く停まらずに南ローデシアを過ぎ、そして、ベチュアナランド(ZS9)を
通りました。私は、ブーベへの船の旅のために、ケープタウンへ行くこのタイトな日程のため、「運用許可」
を得られるようなチャンスはありませんでした。ベチュアナランドは、少なくとも私たちが旅行した所の
中では非常にみすぼらしい場所のように見えました。

 その後で、南アフリカに来ました。それは、私が今までに見たことがある風景でのもっともドラマティ
ックな変化でした。それは、1800年代のアフリカから近代的なアメリカへ移動したようでした。まさに、
国境では、舗装のない、荒れた洗濯板の道路が、幅の広い大きなハイウエーに変わりました。それは、ニ
ュージャージーターンパイクの半分を思い出させるようでした。この種の道路が、実際に、南アフリカの
すべてで見られることが、あとで、私は知りました。
 今月はここまでです、皆さん。さあ、ブーベへ行きます。

このページで書かれているVQ2EWのカードです。


086M032007   2007.3.21
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