このページは、Baxleyさんが5日ごとに新しいページを掲載することにしていますが、先月後半は Baxleyさんの都合で、このDXpedition物語が10日間ほど更新されませんでした。ところが、これを取り 戻すために、彼は#8,#9と新しいページを追加しました。 このため、私の作業が遅れ気味になって いますがご了承下さい。 なお、この内容がいよいよ無線の話しに入ってきましたので、面白くなってきたと思います。 Baxleyさんによると、全部で29章まであるそうで、ブーベ島への上陸レポートは第21章にあります。 このDXpedition物語は私も初めて読む文章ですので期待しています。皆様もどうぞお楽しみに。 -JA1DM- |
W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その4) アマチュア目次へ戻る |
第 2 章 DXing全般 |
私は、このDXpeditionに関することについて,多くの人たちより、一般的な観点から短い記事を書くよう に頼まれました。これが、いろいろな観点から書くことが出来るテーマです。それらの幾つかは素晴らしく、 幾つかはダメです。 あなたが最初に出発したときには、全部が目になって、何でも全部見たいと思うでしょう。しかし、この DXpeditionを何年も続けた後には、あなたは全ての光景にいくらか免疫になるのが私には判ります。しば らくすれば、彼らは皆あなたと同じようになります。 例えば、マリのこのトンブクトウ(Timbuktu)を例に取りましょう。そのような場所が本当に存在するとは 信じない人がいます。しかし、マリの詳しい地図を手に入れれば、あなたはそのような場所があるのが判る でしょう。間違いなく、地図の上にそれはあります、そしてあなたは、マリの首都のバマコ(Bamako)から 週に4回のフライトでそこに飛ぶことができます。 あなたが飛行機を降りたとき、いたる所全部が砂漠です。あなたはタクシーで数マイル行くことができ、 あなたは実際、私が平坦な街とよぶトンブクトウにいます。ほとんどあらゆるビルがセメントと砂でできて いて、全部がいくぶんかは白色です。 ほとんど全員が、その一片を彼らの頭に巻き付けた、白いベッドシーツのような衣服を着ています。日差 しは炎のように暑く、そしてそよ風の兆しさえもありません。あなたは暑くなり、そして、汗がくまなく流 れるのを私は感じます、そして、一寸の間にさえ、あなたの靴は汗でずぶぬれです。 臭いが全ての場所にあります、特に現地の人たちのそばでは。恐らく、風呂の水を使ったことがないと思 います。水は捨てることができないくらい少ないと私は思います。 さあ、あなたは写真を撮るためにカメラを取り出すでしょう、しかし、そこの人たちのほとんどが写真を 撮らせるのを好みません。実際、私は写真を撮らせるのを見たことはありません。勿論、あなたはあちらこ ちらでやせこけたように見える何匹かのラクダや、何人かの衣服を着けていない現地の子供達を見るでしょ う。 多くの婦人達はヴェールを被っています。私は、たとえ遠くからでも、それらの女性達を撮らないように と注意されました。このトンブクトウについての私の知っているの限りのことはこれです。私はそこに行っ たことがあります、そしてそれがそうです。アーメン。 オートボルタとマリの両方で、運用ライセンスを得ようとする作業で時間を無駄にしないで下さい。そこ では何も発行されません。私は、マリとオートボルタの両方で、ライセンスを求める沢山の異なった人たち からの手紙を、彼らが見せてくれたのを、私は見ました。誰にも、何も発行されませんでした。それらの申 請の幾つかは、国務省のずっと上のランクの人たちからのでした。 彼らの議論はこうです: 彼らには、監視する方法が全くありません。どのような種類の送信も、そして、彼らにはアマチュアはス パイではないということを理解してもらうことができません。彼らに、そのような場所でスパイするだろう かとたずねました。もし私がスパイだったら、正式なライセンスを貰うようなことはしないだろうと彼らに アドバイスしました。 更に、私は言いました、もし私がスパイだったら、スパイノートを作り、次の飛行機に飛び乗って、そし て、私がスパイをする人に直接私のメッセージを届けると。 更に、(彼らの記録によると)オートボルタとマリの何れでもアマチュアライセンスは決して発行されなか ったのを、私は発見しました。彼らは、XT2HVへ実験局のライセンスを発行しました、しかし、これはハ ムではありませんでした… (次の行は読めません・Baxley) ハムとは正確に何であるかを納得させるために、そのような国々の一つに住むようになる、ランディのよ うな誰か(元OD5CT、W3ZAなど)を、私は連れて行くでしょう。私の時間はかなり短く、これら両国で はかなり限られました。もし、私が良くできる通訳と一緒に、一つの事務所から別の事務所へ行くのに費や すために2週間の余裕があったら、私の考えでは、それはできるでしょうと言いましょう。 所期の目的を達成するために、適任の人たちと、たくさんのアイボールQSOを持つことでしょう。また、 ポケット一杯のドルが必要でしょう、なぜならば、そこの小さなホテルでさえ、食事の料金と共に、あなた は毎日少なくとも確実に20ドルを費やすでしょう。さて、ライセンスを得るのに2週間かかるとしましょ う、それは220ドルになります。 さて、これはあなたがそこに着いてからの費用で、しかし、あなたはその場所に着かなければなりません。 (思い出して下さい、それらはもう本当のレアースポットではありません)私は、あなたがどこから飛ぶの かはしりません、しかしそれがどこか比較的近い場所からでさえも、往復で多分300ドルにはなるでしょう。 しかし、一寸待って下さい:あなたは荷物の超過料金がかかるでしょう。私の場合、それは50キロで、 更に150ドルが追加されるでしょう。さて、これらの全てを加えると670ドルを数えることになります。 さあ、更にタクシー、赤帽、チップ、飲み物などが追加されます。結局、少なくとも700ドルならばあな たはラッキーでしょう。もしあなたが7日間運用するとしましょう、これは1日あたり100ドルになります。 高い!エッ? それほどレアーではない場所でオンエアーするためのこれが全てです。私の場合、これはその価値がない と言います。あなたは知っているでしょう、カントリーと交信するこの作業、国々が彼らの国境の変更、他 の国と合併、島々との間の距離の測定、バンリスト(交信禁止国リスト)に載っているある国、イスラエル の様なところと交信を禁止されているある国、そして、それからイスラエルはある国との交信を禁止してい る。 ーワー! 最後に大事なことを述べると、正確に同じ国々と交信した、トップの非常に多くの人たちにとって、DX と交信することについての観点を変える時に違いないでしょう・数の数え方は常に動いており、新しいスコ アの数え方の方法は、新人も、MM局やAM局でさえも参加でき、OTと同じチャンスを持てるでしょう。 さて、このような考えにそって私はあるアイディアを持っており、近い将来私は試みるかもしれません。 勿論、DXCCとWAZは未だそのままあるでしょう。私は、それらはいつもあるだろうと思います。この アイディアは、それらと競争するものではありません。これは、DX アワードの全く新しい何かです。私は、 それはユニークで、成功するだろうと思います。これが出来上がるまで、成り行きを待って下さい。 14055と14035kHzで、たとえただのW4BPDであっても、皆さん、どこからかあなたにお会いしまし ょう。 de Gus-W4BPD, AC5H, VQ1A, FL9A, 6O1AA, etc. etc. etc. |
-1DM-注: この新しいDXアワードとは、ガスのDX情報誌に掲載されるようになった、Bands Modes Countries、 BMCのことではないかと推定しています。これは、その名称の通り、バンド、モード別のカントリー総数 を数えるもので、現在のDXCC Challengeにモード別をプラスしたものと考えれば良いでしょう。 1971年7月ランク表のトップはW8JINで2207です。以下W4QCW、 W6AMと当時の超DXサーが 続いています。当時は未だWARCバンドがありませんので、160から10mの6バンドとU/Vも含めてい ました。 |
008M022506 2006.3.4 |
第 3 章 (1) インド、カルカッタ アマチュア目次へ戻る |
この小さなエピソードは、私がインドのカルカッタにいる間に書かれています。私は、今朝、私のいとし い妻のペギーが米国に向けて出発したのをちょうど見て本当に寂しいので、今日は少し気分が低調です。 この寂しい気分がこの章にひどく影響しないようにとと願っています。私は、ちょうど1年前、よく私自 身このように感じ、およそ2年間私だけでいたときになぜこのように感じたのかは思い出せません。その当 時、私は確かに全くこのような感じはありませんでした。昨年はほぼ私の妻と一緒に居て、いつも妻と一緒 だったのが私に影響していると思います、それが非常に多く。 私は、私の歯をきしませて、この寂しい感情を私の心から取り去ることができるようにと願っています。 送信機があり、少なくともオンエアーできるACカントリーに私は戻るべきで、来週にはと望みます。 まさにその瞬間、外の道路で、通行人に何かを売っている誰かが、非常に悲しげな曲(何か東洋的なメロ ディー)を演奏しています、そして彼はずっと3時間もそこにいて、これが更に私の気持ちをダメにします。 私は、税関から素晴らしいセットを取り戻そうとして、ここで待機しています。それは、ニューデリーの 中央政府に郵便で照会しました。私の手紙が着いたとき、大臣が手紙を開けて、私が私のセットを受け取り、 そして、この暑い気候の場所から逃げだし、高い山のヒマラヤに戻ることができることを私は心から願って います。 あなたは、道路から聞こえてくるすべての音に驚くでしょう。常時鳴っているタクシーのホーン、彼らは、 それらの非常に古いタイプのホーンを使い、ゴムの球を押し、それが本当に、“ホンクーホンクーホンク”と 鳴り、そして彼らは彼らが出すその音を本当に好きです。 私の小さなホテルの部屋はエアコンがありません、しかし、外国で作られた映画のシーンで見るような、 ゆっくり回転する古い天井ファンがあります。私から、汗がどんどん流れます。私が快適ですか?ハ、ハ、 ハ。これは冗談です。 ここ、カルカッタのハム達は、私を寂しくさせないと私の妻に約束しました、そして、何人かが私を今晩 連れ出してくれると思います。彼らはFBな人たちです。VU2AJ、VU2RF、VU2DKそして多くのほかの ハム達がペギーと私に会い、その中の一人か二人は、ほとんど毎晩アイボールQSOに現れます。今晩私は 彼らが必要です。新しい音が道路でちょうど始まりました。フルートとコブラを連れたそれらの蛇つかいの 一人は今や夢中です。 さて、私は私のストーリーに戻る方が良いでしょう。私は、十分長い間、それから離れていると思いまし た。私の独りぼっちの部屋での白昼夢。今は13Z、インド標準時で午後6:30、私はバンドがW方面に開くか どうかと思う、何も聞こえない。まさに孤独。 新しいアンテナ 今晩、私は、ただ夜を潰すために、終わるまでに4時間から6時間ものヒンディ映画の一つを見に出かけ さえするかも知れません、なぜならば、これは非常にながーい、ながーい夜の一つにになるので。 この間のエピソードで言ったように、私は、第2次世界大戦の間、私の時間を送信機の製作、たくさんの ロンビックアンテナを建て、毎日、徴兵委員会の人と夕食を食べるのに費やしました。今や戦争は終わり、 仲間はオンエアーに戻り、そして私は仲間達と手当たり次第に仕事をしながらそこにいました。 大きいものも含めて13ものロンビックを建て、それを維持するのはそれ自体が非常に大変な仕事になる ことが判るでしょう。毎週、それを全部、歩いて点検するのは実際に不可能です。私は、毎週日曜日の昼食 後、ジープに乗り、運転してそれらのすべてのアンテナを見、そしてたいてい、ステー線かロープが切れて、 少なくとも一つはダウンしていました。それから、私は、そのアンテナを建て直し、使えるようにするため に、月曜日の一日中を費やしました。 時には、サンダーストームの多い夏の期間、雷が、全部のあるいは時には半分ものロンビックのすべての ワイヤーを完全に破壊してしまいました。さて、このたぐいのことは長年月続くのが判るでしょう。 アトランタで多くのラジオ製造業者の代理店をしているBuck Joyner, W4TOと時折、私はQSOしまし た。その時の取り扱いの一つはTelrexで、Buckが、ガスさんどうして良いアンテナを建てないのですか? あなたの持っているそれらのロンビックよりもそれが良いことを知っているでしょうと何回も言いました。 そして私は“Buck、私は、あなたが貰う良いレポートと同じレポートをいつも貰うことができます、そし て私はちょうどKWで運用しているのを知っているでしょう”と彼に言いました。 そして、ある日、私はアンテナファーム点検のために外にでました、そして、そのうちの3個が壊れてい ました。その夜、Buckが再びアンテナの議論をしに来て、そして私は言いました“Buck、あなたは、私に くれるような、どんなアンテナを持っていますか?”彼は、“ガス、私は新品のTelrex 5エレメント、それ は私の場所に建てるためのものが、もし、あなたがアトランタに来てそれを持って帰るなら、100ドルであ なたのものです、と彼は言いました。それは未だメーカーの木箱の中に入っています。” 私は言いました、“OK Buck私はそれらのビームが私のロンビックと同じくらい良いかどうか考えるため に、それらの一つを試すつもりです”と言いました。 私は、私の幾つも凹んだ古いピックアップトラックを出して“ポケット”を乗せて、アトランタへドライ ブしました。私がそこを去ったとき、私は5エレメントビームを持っていました。私の家に帰る途中、私は ジョージアタウンの小さな町を通りかかり、そして、友人の一人が立派な小さなタワーを下ろしたラジオ局 を見ました。私は立ち寄って、結局、その150フィートのタワーを100ドルで買いました。トラックの中に それを積みました! 私が家に着いたとき、私はすべて準備ができていました。素晴らしい5エレメントビーム、150フィート のタワー、すべてで200ドル。 (ページの上部にガスが1965年3月27日と書きました。Baxley) |
1DM注 *ポケット ガスの店で働いていた、何でもこなす器用な背の高い店員。W4BPD半生記(2)DXM#203 に出てきます。 |
009M030106 2006.3.4 |