W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その31)   アマチュア目次へ戻る
第14章 (3) マヘに戻る                   

 ハーヴェイが20mで私を呼んで、翌朝8:30に出発の準備ができると言いました。アンテナが下ろされ、
発電機が止められ、全てのものを包みボートに積む準備をしました。私は島のマネージャーに連絡し、翌
朝ルアルア号が到着したとき、ピローグを漕ぎ荷物を積み込むのを助けてくれる何人かの仲間が必要であ
ると彼に言いました。

 私がアルダブラに到着して、初めての素晴らしく長い夜の休息のために眠りました。私は作業員全員を
訪問し彼らの協力の全てにお礼を言い、島のマネージャーにも感謝してキャンプサイトに最後の一瞥を送
りました。午前8時に、私はアルダブラからQSYする準備ができました。

 ルアルア号は8:15頃に到着したので、私たちは荷物の積まれたピローグに乗りました。この頃、南西季節
風が始まって、私たちは無線機をピローグからルアルア号に積み込むため沢山の問題を生じました。
(注1)
静かな波の動きになるまでに、何回も もう少しで荷物が船外に落ちるところでした。

 私たちは、大きなうねりが私たちの方にスタートするのを見て、ルアルア号の仲間に全部のセットを取
るように怒鳴りました。私たちは、一抱えの品物をつかみ、うねりがピローグをルアルア号のデッキと平
行に高く押し上げるまで待ち、早い動作で品物を手放し、ルアルア号の仲間の広げられた腕に渡しました。
それは、両方のボートの仲間たちによる、ほんの一瞬のタイミングと早い動作を必要としました。

 ピローグから離れる最後のものは私でした。ピローグは浜辺へ去りました。私たちは出帆しマヘに向かい
ました。帰りの間中、海はひどく荒れたムードでした。

 私は、最終的に設備を食事テーブルに何とか固定しました、そして、古いパタパタも取り付けました:
そして、私は再び /mmでした。とても沢山の波が完全に船を越えました。操舵していた仲間たちは、必
死にしがみついていたので、彼らは船外へは押し流されないでしょう。

 私たちは、ボートの揺れで、太陽、月、金星などをとらえるのに大変な目にあっていました。水平線を
見つけるのはとても曖昧で、しかし水平線を見つけることは方角を知るために必要なことでした。この時
間のすべてに、私はラジオでBBCやそのほかの標準時報局を、秒を読み上げながら聴いていました。

 ハーヴェイとジェイクの二人は彼らの手にそれぞれの六分儀を持っていました。結局、私たちは見つけ
て、それからハーヴェイとジェイクは彼らの小さなデスクに行って、私たちが何処にいるか計算しようと
始めました。しばしば、彼らは実際に同じ正確な場所であることに一致しました。私の地図によると、私
たちは、カイロの西約300マイルのサハラ砂漠の中に居ました!、

 彼は、後で再計算して、加える代わりに数字の一つを引き算したのが判りました。しかし、原則として、
それらの数字はおよそ一致しました。推測航法もかなり助けました。推測航法とはわかりやすい英語で、
常識(common sense)であなたがそのような場所を決めることを意味しています。それから六分儀が引
き継ぎます。

 ハーヴェイの黒猫は,いつものように、逃げやすい飛び魚を探しながらデッキをそこら中敏捷に動きま
わって非常にQRLでした

・大変な掃除の仕事

 マヘの途中アルダブラからの2日目、仲間たちとQSOしながらFBな時間を過ごしていました。それら
の大波はボートを越え、予期しない出来事が起きました
(注2)、私の運用デスクの上の天窓は巨大な
波に打たれていました。天窓が持ち上げられおよそ風呂桶一杯の海水が、私、無線機,カメラそれに全部
の上に落ちました。マヘに戻る残りのすべての間無線機は動きませんでした。

 私ができる限り、デッキにあった湿った布で無線機を乾かそうとしましたが乾くにはほど遠いことでした。
私たちがマヘに戻る道のりの戦いは約10日かかりました;この間、無線機は塩水に濡れて最悪の状態で
ただそこに置かれていました。私たちがマヘに着いたとき、シャーシの一部は青くなり始めていました。
それは、全く悪いように思えました。

 私は、代わりのKWM-2を送ってくれるようにAckに言葉をかけねばならないと確かに考えました。
しかし、私がこの緊急のメッセージを彼に送る前に、私はこの塩水の問題を克服することに向かって一つ
のかなりの努力をしようと決めました。部屋に行って、ごしごし擦る仕事が始まりました。2日間のきつい
仕事の後で、それは非常に素晴らしくきれいに見えました。私は、どこからか煙がのぼるのではないか
と予期しながらプラグを差しました。無線機からは煙はのぼりませんでした、しかしそこからはどんな信号
の印も、送信機の少しの励振もありませんでした。たった一つの動きは受信のSメーターでしたがそれは
逆に振れました。

 VQ9Aからのどのような信号でもだそうとする前に、私はもっと多くの掃除のために私が居るように思
えました。今回、私は本当にやりました。最初に、ホースで水による処置をしました。それらのかなり小
さいIFトランスに水を噴射してみて下さい;あなたは、水がほとばしるのに驚くでしょう!

 数日間のこの掃除のあと、拭いて、みがいて、そしてスポンジして、それは非常に良いように見えました。
今回、私は無線機を暑いマヘの太陽のもとに、毎時間シャーシを回転して2日間置きました。3日目
に、遂に私はホテルのオーブンに入れ、160度まであげて、6時間それを暖めました。

 今回、私がプラグを差す前に、それが乾いていたのを知っていました。Sメーターはまだ逆方向に振
れ、ヘッドフォーンからはかすかにハム音が聞かれました。PAプレート電流の位置で、メーターは約15ミ
リをさしました。まだ、励振はありません。今回、確かに、私はAckに緊急メッセージをとても送りそう
になりました。

 私は、Ackにメッセージを送る前にもう一度試みようと決心しました。今回、部品の大部分は外で
した。IFトランスの内部は全部緑色で、緑色の浮きかすと白かびに覆われていました。それぞれを、非常
に慎重に掃除しました。トリマーを分解しました、そしてそれらの銀メッキがはがれ始めているのに気づ
きました。電源トランスはこの緑のかすに覆われているのが分解してわかりました。

 時々、あなた方仲間の一人が、現代の装置のそれらの小さい周波数切り替えスイッチを掃除しようと試
みます。今回、私は掃除し、再びオーブンに戻し焼く(乾燥)ためにフルに3日間費やしました;そして、そ
れから、あまり多くない望みを持ってプラグを差し込みました。またSメーターは逆に振れました。しかし、
受信機は再び動作しました。次に、送信機も動きました。おや、それは動きました!

・セイシェルでは人生は気楽です

 私は、また、VQ9Aの仕事に戻りました。私は、決してVFOを正確に校正できませんでした、そして、
およそ2年後にセットをコリンズに戻したとき、Sメーターはまだ逆に振れていました。彼らは、私に組
み込むために新しいVFOを送ってくれました、そして、校正の困難さは無くなりOKでした。それ以後、
普通の程度の真空管のトラブルの例外を除いて、それ以上のトラブルは決してありませんでした。私がブ
ータンで約40サイクルで使用していたとき、丁度出発しようとする前に電源トランスが煙を出しました。
私はこの話のところをそのうちに私のストーリーで話すつもりです。

 私は、その辺りの幾つかのレアーな島に行く何らかの方法を調整しようとしてここマヘに居ます。船が
ドックに入っていたとき、いつも私はありとあらゆる船主たちと長話をして、もう少しでドックの近くに
住むところでした。

 私は、セイシェルでの生き方を観察するのに十分な時間がありました。それらの人達は、それをたや
すく得る方法を知っています。彼らは、世界中のいろいろな問題を心配しません。実際、彼らのほとんど
は、マヘで起きていることについて決して聞いてさえいません。彼らは、人生を楽しむのに非常に忙しい
ので、他の何かを心配しません。

 YLの人口がOMの人口よりはるかに高いので、仲間たちはかなり楽しい人生を過ごすと私は思います。
私が聞いた、そこで行われているあることは、ある人たちにはショックを与えるのを私は確信しています。
そこの人達は、彼らがそれをしたいときにそれをします。彼らのもっとも小さな、心配は他の人達が思う
彼らのことです。

 ある日、私が私の小さな茅葺き小屋で運用していたとき、そのハムシャックの丁度前で、毎日、ココナ
ッツの木の下に座り続けている老人を見ていました。バンドは状態が悪く、ただ少数のアジアの局が聞こ
えていただけでした、―それらは全部私が何回も交信した局でした。私は外へでて、この老人と話をしま
した。

 私は、何処で働いていたかと彼に聞きました。彼の答えは全く働いていなかったということでした。そ
れで彼が退職したのかと尋ねました。彼は全く働いたことが無いので、退職はできなかったと言いまし
た。その頃、3匹かそこらのイルカの群が、数百フィートの先の海を通り過ぎました。彼は、それらを指
して、どれかの魚が働いたと聞いたことがあるかと私に尋ねました。それはなかったと私は認めねばなり
ませんでした。

 それから、彼は何羽かのカモメを指し示して、鳥が働いたことを聞いたことがあるかと私に聞きました。
私の答えは再びノーでした。それから、彼はこのようなことを私に言いました:神は鳥を作りました、そ
して魚、そして神自身の選ばれた人として人を作りました。神は鳥と魚の面倒を見るので、そこで、人は
神自信の選ばれた人だから、神は彼の面倒を見ることを彼は知っている、そして、彼の人生の全部をその
ようにしましたと。

 それを考え、そしてセイシェルを見物した後で、そこに住む誰かが、長い間、決して飢えないことが可
能であると私は判りました。あなたが本当に必要な唯一の衣服は半ズボンです。あなたは何枚かの葉のコ
コナッツの木の下で、あるいは多分ビーチで眠ることができます。

 従って、多分老人は、彼がどのような人生を送ったかについて、彼の哲学をユニークな方法で説明しま
した。それは多分、皆に取ってではなく、彼にとって正しかったでしょう、ということを私は未だ考えてい
ます。
(注3)

 それで、あなたがた仲間たちVQ9に逃げて下さい!あなたはそれをするでしょう、しかし、移民担当
局は、もしあなたがそこに滞在したいのならあなたは適当な収入がなければならないと言います。
仕事をしないことは許される!
注・
   (注1) 原文「a heck of a time」は「多くの問題を抱えている」の意味だそうです。  
    (注2) 原文「bingo」はゲームのビンゴのことですが、「予期しない出来事か瞬時に起こった結果を表現す  
        る」のに使われるそうです。
    (注3) 原文は老人の生き方についての説明文章ですが、意味を理解できなくて、Johnに尋ねて彼の説明
       してくれた文章を使い翻訳しました。

075M012507   2007.1.26
第14章 (4) バード島の百万羽の鳥                     

 私は、自作楽器を使った土地の人達のダンス会にも行きました。土地の人達のダンスは、私たちがサウ
スカロライナで時折踊った古いスクウェアダンスに非常に良く似ています。その演奏はまるまる1時間も
続きました。

 彼らは、現地語でダンサー達へインストラクターを呼びこみ、ミュージシャン達と一緒にインストラク
ターも歌います。これは、私がテープレコーダを持参していたら良かったと思った一回でした。これは、
たった今聞き返す、何か珍しいものです。

 私がそこにいたとき、ものはとても安かったです。優秀な大工を1日に25セントで雇うことができま
した。私が聞いたところによると、今、もし同じ大工を今雇うなら1日75セント欲しがります。インフ
レーションは、そこの衛星追跡プロジェクトで働いている数人の米国の技術者のせいだとされています!
僅かの人達で、どのようにしてそのようなインフレーションをおよそ45,000人の人口の島に及ぼすのか、
私は理解できません。

 マヘに数週間居たあとで、あなたはすぐにそこの場所の一員になります、そして誰もがあなたをそれら
の一つに連れて行きます。私は、ほとんど毎晩、ディナーに誘われました、そしてすぐ誰もが私をファー
ストネームで呼んでいました。急速に、私はそこで沢山の人を知り、彼らがいかに人生を楽しんでいるか
を見るようになりました。私は、彼らがそこに到着する前に持っていたのを除いては、マヘには弊害を持
っている誰かが居るとは思いません。住民のカラーは、真っ黒からブロンドまでどれもあります。そこで
は、人種差別のしるしは無いように思えます。

 何週間もドックの周辺に居た後で、ボートの船長がいろいろな種類の海鳥が産んだ卵を集めるために、
彼らと一緒に“バードアイランド”と呼ぶ所へ行くように私を招待しました。マヘからは近い距離で、私
たちが島に着いたとき、彼らを浜辺へ連れていく小さなボートへの途中に沢山の傘が置いてあるところを
皆が通り過ぎていました。各人は、その小さなボートに乗る前に傘を一つ取りました。雨が降りそうだと
思うかと、私は船長に尋ねました。彼は空を見て、全く雲は見えないので雨が降るだろうとは思わないと
言いました、そして、一寸微笑みました。

 私は、傘なしでボートをほとんど降りるところでした、しかしなぜ皆が傘を持つのか、何らかの理由で
“必要に違いない” と考え直して決めました。そこで“念のため”私は自分のために傘を掴みました。

 ボートは島の方へ離れました。私たちが砂浜に着いたとき、鳥がギャーギャー鳴いていて空は暗くなり
ました。私は、太陽が本当にかくれたと思いました。それから雨が降り始めました。この“雨”はどんな
雲からも降らなかったことを意味しています。

 ほとんどの卵は、既に置かれていて、重ねられ、そして 、私たちは大きなボートに戻りそこで夜を過
ごしました。翌日、私たちは岸に戻りました。合計でおよそ900,000個の卵が集められました。

 マヘに戻った次の数週間、沢山の卵が食事に出されました、普通はスクランブルで、そしてまたとても
安く。それは少し生臭く、しかしまったく悪くはありませんでした。

 彼らは、普通、それらの卵を集めるのは7月の間だけ許されています、そして、島へはただ一回だけの
旅行が許されます。そこには数百万羽の鳥が居たにちがいありません。皆さん、もしあなたがそこへ行く
なら傘を取りなさい。

 最終的に、絶えずドックの近くで待った後で、チャゴス諸島へ出帆する船の話を聞きました。

・チャゴス諸島へ出帆

 私は、それらVQ8諸島のライセンスを得るために、VQ8AM、フランスと毎日スケジュールを持ってい
ました。それは、ライセンス発行に関してのタッチアンドゴー(一寸触れては離れる)のようなものでし
た。

 私が、チャゴス諸島へ行く船があると言うことを聞いたとき、私の立場を言ってくれるフランスにすぐ
連絡をとりました。今回、未だモーリシャスに居たレニーの兄弟、ギルバートと彼は話したと私は思いま
す、そして、そこのFCCの責任者に私の状況を話しました。

 彼は、私がチャゴスへ行くこの機会を逃すべきでないこと、そして、もし何かトラブルがあったら、彼
は私を支援するために来るだろうと彼らに知らせました。私が、最終的にモーリシャスに到着してから得
た話は多少ともそのようなものでした。

 私はチャゴス諸島のオーナーに連絡して、チャゴスのマネージャに手渡す、全ての重要な私のための“紹
介状”を得ました。そこに行く予定だった船のオーナーを見つけて、私が行くことに彼の承認を貰い、そ
れから船長の所に行き、彼の船に乗ることの承諾を貰いました。私は全部用意ができました。私に関する
限り、私はそこに行って運用するための完全に法的な正しい権利があったと今でも言います。

 それは、私に関する限り正しい運用で、そしてこの日までも、私がそこにいた時に交信した仲間たちに
とって、それはニューカントリーとしてカウントされるべきだと私は考えます。誰でも私に言ったり告げ
たりすることは、私のその運用のときの気持ちを変えさせないでしょう。ところで、私は私のBYでの運
用も同じように考えます。私は思います、ARRLは何人のBY免許を見たことがあるでしょう。すべての
BY局が、パイレートではないと言うどのような証拠を彼らは持っていたのでしょうか?チャンあるいは
マオがライセンスを発行したのでしょうか?マオが彼らは正規だと考えましたか?私は、米国からの観点
からは、チャンは正式な中国政府であるとの印象でいます。

 もし、現在のBY局がマオによって発行されたライセンスを使っていると、彼らは私たちの法的な観点
からパイレートではないのでしょうか?このすべては、ちょっと面白くありませんか皆さん?私はこれら
全部へのどのような答えも一度も聞いたことはありません。私は、問題の中にいます;私は今でも、何が
カントリーで、何がカントリーでないか、100%確信していません。多分、この点について、本当に適切
な答えはありません。

 何かきちんとした規則があります、しかし、それらの規則にはなにか沢山の例外があるのだろうと私は
思います。彼らのカントリーリストのロシアで、南極のUA局はその他のところとセパレートで、そして
それは別のカントリーと呼ばれます。それらの、そこを代表する他のカントリーはどうでしょうか? その
国の仕事に関わるのを止めましょう;明確な結論がまったくこない、エンドレスになるように見えます。

 それにも関わらず、私の話に戻ります。チャゴス諸島に出発しようとしているボートに、ここに口頭だ
けの了解で私は居ました、そして、ボートは翌日出発する予定でした。VQ9とVQ8との間には、電話の
サービスはありませんでした。それは、閉ざされていました。その旅行は非常に僅かの金額で、無駄に過
ごす時間は無かったので、そこで私は行きました。途中ずっと、“向かい風”で、それは途中ずっと、沢山
のジグザグの進路を意味しました。これは旅行に、沢山の日数をつけ加えました。
 それらのほとんどのボートは帆走のために作られています、そして、ジーゼルは、ボートをドックに入
れるのと、ドックから出るときだけです。私は、いつものように途中は /MMを運用しました。
(注) ガスがチャゴス島から運用したVQ9A/8Cを、正式なライセンスではないとしてARRLはDXCCに認めませんでした。
     ARRLはチャゴス島での正式なコールはポータブルではなく、VQ8○○の筈と言うことのようでした。また、後の
     XW8AW/BYも認めていません。そこで、ここのページに彼の言い分を書いたのでしょう。
     なお、南極のロシアの局が別カントリーと書いてあるのは、どのようなことか判りません。

・簡単な方法で魚を捕まえる


 3日目頃のある朝のおよそ午前10時、私は無線を運用していました、私が無線機を取り付けて置いた
食事テーブルのある食堂に、甲板員の一人が突然駆け込んで来ました。彼は、何か言って私の腕を掴み、、
私のハイゲイン14AVS垂直グランドプレーンアンテナを建てた所を指さしました。私は、彼と一緒に、
何が起きたのかを見に走っていきました。

 乗船して、私は、ほとんどの船と同じように、すべてのグランドラジアルを張る場所がないことが判りま
した。そこで、私は適当な長さの18番銅被覆ワイヤー線
(注)をグランドプレーン用として繋ぎました、ワ
イヤーを海面に沈めるため、私は、エンジンルームで長さ約4インチ、直径約1インチのボルトを拾いま
した、そして、それを私のグランドプレーンのワイヤーの端に縛り、それを船外に投げて水中を引きず
りました。ところで、これはFBなグランドラジアルになり、SWRはほとんど1:1でした。

 私がアンテナに着いた時、信じられないでしょうが、本当に、魚がこのボルトを飲み込んで水中を行っ
たり来たりして突き進んでいました。私は、ワイヤーを掴み魚を引き揚げようとしました。銅被覆ワイヤ
ーは私の手を切りそうでした、それから、誰かが油まみれの手袋を渡してくれました。今回、私は何とか
魚をデッキまで引き揚げました。それは、素晴らしい17ポンド(約7.5kg)のマグロでした、そして、私
たちはその夜の夕食に食べさえしました。私たちは、ボルトを取り出すため、マグロを大きくカットしな
ければなりませんでした、なぜなら、マグロの胃袋にまでボルトが飲み込まれていたので。

 私は、“ハムシャック”に戻り、再びオンエアーしました。およそ30分も運用してから、私はSWRが
突然悪くなったのに気づきました。(私は、いつもSWRブリッジを反射電力の方にして、運用します。)
私は、マグロが行ったり来たりしたので、グランドワイヤーがねじれて切れたのを見つけるだろうと予期
して、再びアンテナの方へ外に出ました。

 アンテナがすぐに眼に入り、私は何が問題かを見ました。およそ10インチの長さの飛び魚が14MCス
タブとアンテナの間に割り込んでいました。ハイゲインの14AVSは、アンテナの他の部分の横に、14MC
セクションが付いています。そのスペースは、およそ、2 1/2インチで、飛び魚がエレメントの間に飛び込
もうとしたときには、飛ぶ魚が張り付くのにぴったりの間隔でした。私は、これを“魚を捕まえる”アン
テナと呼びました。

 新しい14ASQアンテナは20mスタブがないので、今は、飛び魚を捕まえる特徴はなくなりました;新
しい14AVQアンテナには、そのような飛び魚からのQRMはもはやありません。

 飛び魚は船外へ投げられ、そして私は“ハムシャック”に戻りました。SWRはいつもの1:1に戻り、
私は再び仕事に入りました。

 魚が必要なときに、乗組員は一切れの肉でフックを引っ張るか、釣りをしました。彼らは必要なときに
食べるために、いつも新鮮な魚を手元に置いていました、

 アデン、モンバサへの途上、ペルシャ湾へ向かうタンカーの沢山の大きな船が私たちを通り過ぎました。
私たちは、また、沢山の日本の漁船を見ました。そこには沢山の往来があるように見えました。
(注)原文は「Copper Weld (TM)」と書いてあります。これは、米国の「Copperweld Bimetallics, LLC」の会社のことだと
   思います。同社は鋼線やアルミ線を銅で覆ったワイヤー(Copper weld Wire、Copperweld Strand)の製品で世界的に
   著名な会社だそうです。
076M013007   2007.1.31
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