| W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その24) アマチュア目次へ戻る |
| 第11章 (4) 砂漠の船 前の頁へ |
実際に、私が道路で見たどの婦人も、目の所に細いスリットの開いているベールを被っていました。ベー ルを被ったそのような婦人達の写真を撮る試みはしないように、私は注意されていました。さて、私は、こ れについて色々考えて、そして、何かを試そうと決めました。私は、いつも彼女らが通る道路に出て、おあ つらえ向きの候補者が私に近づくのを見たとき、私のカメラを持ち、シャッターに指を置いて、カメラを反 対の方向に向けました。反対側の手はシャッターに置いた指をカバーしながら、私は、本当にゆっくりカメ ラをパンし始めました、そして、カメラが、近づいてくる婦人に正確に向いた時、私はその瞬間にシャッタ ーを押しました。しかし、私は、ずっとカメラをパンし続けていました、そして、あたかも「さて、私は写 真を撮りたいものは何もなかった」と言っているかのように、私の手を投げあげました。私は、その小さな トリックを使うことで、決して“捕まり”ませんでした。 そのような場所では、良い望遠レンズを持っていればFBだったでしょうが、しかし、私のカメラには、 そのようなレンズは持っていませんでした。私は、しばしば、ベールの中に居たのはどの様な婦人だろうか と思いました。彼女らのドレスは地面まで下がっていました。私は、彼女らの足首さえ見ることはできませ んでした。 私は、何かの大きなバッグを積んだ、沢山のラクダのキャラバンがドバイから砂漠を横断してやってくる のを見ました。時には、それぞれのキャラバンには25か30頭も居ました。私は、ラクダの動揺の動きに気 づきました、そして、それは、私がどこかで読んだ、ラクダを“砂漠の船”と説明したのを思い出させまし た。私は思います、もしあなたが十分長くラクダに乗れば、それが前後に揺れることで、あなたは“船酔い” になることが可能でしょう。 キャラバンが通り過ぎたとき、もし、あなたが近くに居たなら、普通、キャラバンはひどく強い臭いを持 っていました。私は思います、もしあなたが少しの時間でもラクダに乗ったなら、あなたも多分同じように 臭うでしょう。私が説明できる限りでは、その臭いは、雌山羊と汚い豚のおよそ中間くらいです。ウッ、ウ ッ。 私が通りに居るときには、いつも、私たちを皆が疑いの眼で見ているように思いました、しかし、しばら く経ってから、それが、彼らの目で見る、普通の見方だと推測しました。私は、彼らがお互いでさえ、信じ るかどうだろうかと、しばしば思いました。私は、自分もそれを一寸疑います。そこでは、“ヨーロッパ風の トイレット”と言うようなものは、どこにも見ませんでした。いつも、“アラブ風トイレット”と呼ぶような のがありました。それは、あなたの足が置かれるような場所に、ただ、、セメントの小さな穴があり、近くに は水のコックがあり、そして通常は、小さな、すり切れた、布切れがコックから下がっています。 そうだ、覚えていて下さい、あなたの左手は?正解です、左手です。ウワー、私が、普通、それで食事す る手です。ちょっと、荒ら荒らしい?私は、それらの一つを写真に撮りました。 私は、通常、“泡だったのを”燻らせながら、道ばたに座っている老人を沢山見ました。それらは、煙が水 を通って、そして、毎回、あなたがそれを吸うと、それを通るようパイプです。私自身、私が仲間であるこ とを彼らにちょっと示すために、何回か吸って試してみました。そうだ、私はそこでコークさえ見つけまし た、しかし、決して冷たくはありませんでした。 ・クウェートでのライセンスは無し 私はドバイの街を隅々まで歩きました、そして、それらの人達がどの様に生活しているかを知るために、 私はベストをつくしました。あちらこちらにほんの少しの木々がありました:オリーブ、ナツメヤシ、オレ ンジなどの木々の大きな果樹園は、少なくとも市場用にはありません。 幾つかのアラブの帆船がドックで建造されていました。一つか、二つのラクダのキャラバンが、毎日、砂 漠を通って来て、一艘の小さな船が夜中中停泊していました。それがそうです。私は未だ、彼らがどの様に 生活しているのか判りません。確かに、Rundyと私を除いて、そこには旅行者は全く居ませんでした。ど こにも油井の姿はありませんでした。(これは1960年です)彼らは、お互いに頼って暮らしていたと私は思 います。 Trucial Omanには7つのSheikdomがあります、そして、それら全部がほぼ同じようだと私は理解して います。カントリーリストでは、それぞれがセパレートカントリーになるべきであると、私は、未だ主張し ています。Sheikは首長で、それぞれのSheikが彼の国を治めています。多分、そのうちに、誰かが、それ らのSheikdomの地図をまとめて、そして、誰かがそれらはセパレートカントリーであると納得させるでし ょう。 そこに滞在していた間、Rundyと私は丁重にもてなされました、そして、いつか、私は世界のこの好奇心 をそそるところに戻り、もっと見たいと望みます。私たちがそこに居た間、私は他のヨーロッパの人を全く 見ませんでした。私は、Rundyと私がそこにいた、ただ一組のヨーロッパ人だったと思います。 私が、米国へ帰る準備をする時が、足早に近づいてきました。私の時間は殆ど尽きました。私たちは、砂 漠を通り、ジープでSharjahへ戻り、クウェートへ出発しました。クウェートに着いた時、Rundyの代表 の一人と空港で会いました。そこでは税関での難しいことは全くありませんでした。彼は、私たちを自分の 家に連れていき、大きくて高いセメントの塀に囲まれた、本当にすばらしいアラブ風の家で、そして、私た ちの部屋に案内されました。 私たちは、そこに居た間、すばらしい食事が出されました。私たちがそこに居た間、女性の声を聞いたり 会ったりすることは全くありませんでした。それは、あたかも、家が中央で分けられて、そして全部の女性 は反対の側に居るように思えました。それは、防音されていたに違いありません、なぜなら私は反対側から の音を決して聞きませんでした。 飛行機がクウェートに入ったとき、私は、これまでの私の人生で見たことがあるよりも、非常に沢山の油 井を見ました。私が思うには、それらの何千もがクウェートの近くの砂漠にありました。彼らは、確かにそ こに沢山の油井を持っていました。砂漠は、それらで覆われているようでした。 私たちは、クウェートから運用するためのライセンスを得るために最大の努力をしましたが、しかし、そ の可能性は全くありませんでした、なぜなら、私たちは聞きました、クウェートの誰かが、米国に居てライ センスを得ようとして、そして彼は拒否されました。この人がクウェートに戻った時、米国人が居て、彼は クウェートで運用していましたが、彼のライセンスは即座に取り消されました、そして、彼は48時間以内 に、無線機を処分するようにと告げられました! 彼の無線機がまさにどうなったかについては、私は決して聞いていません。気に留めて下さい、この男の人 は、クウェートに10年かそころも居たのでした。私は、米国の現在の状況を理解しています、いくらか良 くなったと、そして、今ではライセンスを得る可能性があるかもしれません。 |
| 056M102506 2006.10.27 |
| 第11章 (5) クウェートの沢山の新しいビルディング |
Rundyと私は、中立地帯に連れていってくれるタクシーを呼びました。ここは、サウジアラビアとクウェ ートの中立地帯です。クウェートからここに入るには何も問題はありませんでした:街のはずれを過ぎて、 砂漠の端に入ります、そして、数マイルも過ぎると、中立地帯に入りますと書いてある標識が見えます。実 際、そこは小さなアメリカの居留地のようでした。そこには、非常に沢山のアメリカ人が働いていました。 そこには何人かRundyの友人がいました、そして、私たちは座って話しながら飲み物を飲んでいました。 もし私たちがライセンスを貰えれば、簡単にハム局を運用できたでしょう。ライセンスはクウェートかサウ ジアラビアのどちらかから貰えることを私たちは知りました、しかし、その当時は、どちらもアメリカ人に は発行しなかったでしょう。従って、私たちはニューワンにいましたが、許可の可能性は有りませんでした。 私にとって、それは悲しいことでした。それは国際政治のためだと思います。Rundyは、クウェートと中 立地帯で沢山のすばらしいコネクションを持っていました、しかし、それらは奇跡を起こすためには十分強 力ではありませんでした。多分、何れの日にか、物事は変わるでしょう。しかし、この世界では、変化はと ても非常に遅いです。 世界のあるところでは、反対の方に変化しているように思えます。それで、私は、事態は前進する代わり にバックしているように考えます。そのような人達は、アマチュア無線について全く何も理解していません。 この全ての間、Rundyと私の無線機は即座に使えるようにクウェートに置かれていました。私たちは、それ をそこに置いて、そして、決してそれを開けて困らせることはしませんでした。 私の生涯で沢山の繁栄している街を見てきました。私は、好況の時代にフロリダに居ました、そして、再 建していた幾つかのドイツの都市を見ました、しかし、今日まで(今、それは1965年です)、私はクウェー トで行われている、全部のビルのようなものに近いのは見ていません。 それは、そこの何れの町のブロックでも、1から3棟の大きなビルディングが建設中でした、あえて大き なビルディングと言います。幾つかは、12から14階、あるいはもっと高かったです。私は念をおします、 それは、街中のあらゆるブロックでした。私は、このことをRundyに説明しました、そして、彼は“ガス、 あなたは未だ、何も見ていません”と言いました。 私たちは、タクシーを頼み街のはずれまでドライブしました、そして、そこで私たちは、大きな並木通り、 注がれるセメント、ブロックからブロックで建設中の新しい大きなアパートメントを見ました。このような ビルディングが連なっていました:見える限り、ブロックからブロックです。さて、これらの新しいビルデ ィングに誰が入ろうとしていたのかは、何か私は答えられません。私が言える全ては、それらは確かに建設 中だったということです。 トップの人達は、そこの石油から生じる全てのお金で、人々が忙しく働き続け、お金を得るために沢山の ビルディングを作り、それで彼らは満足するだろうと決めたのだと、私は結論に達しました。ご承知のよう に、満足している人達は政府を打倒しようとはしません。多分、これは権力の座に座り続ける、スマートな 方法です。毎日、300万ドルの収入があり、それを保つために、毎日200万ドルを使う、それは良い仕事だ と言えます。なぜなら、まだ100万ドルの余剰が残っているので。 ・水煙草をふかす それらは、空調されたキャディラックとロールスロイスに払われるのでしょうか?そして、私はその幾つ かが通りを走っているのを見ました。一つの車は「KT-1」(注1)のライセンスプレートを付けていました。そ の車を運転していたのは裕福な男の人だったと思います。そうだ、それらの人達は苦労にはほど遠い、お 金持ちです。 私は、毎日散歩に出かけ、歩道の小さなカフェーのテーブルに、いつも年取った人が腰掛けて水煙草をふ かしていたのに気づきました。彼は、私を見て微笑み、私も笑顔を返しました。 ある日、私はカメラを持って彼に近づき、手真似で、彼の写真を撮っても良いかと訊ねました。彼は笑っ て頷きました。そこで、私のカメラを取り出し、彼を何枚か写しました。私が、カメラをケースに戻したと き、彼は私に身振りで座るように合図しました、そして、私のためにとても強いアラブ風のコーヒーを頼み ました。さて、私は、愛想良く、それをちびちび飲みました。私が飲み終わったとき、彼は水煙草の吸い口 を、ちょっと吸うために渡してくれました、私は水煙草を吸いました。これは、彼を喜ばせました。彼が私 を「仲間の一人」だと思ったと私は推察します。彼は一言も英語を話しませんでした、そして当然、私はア ラビア語を話しませんでした。 しかし、どうしたものか、私たちはすばらしい友人になりました。次の日、彼のそばを通ったとき、彼の 小さなテーブルに座るように身振りで示し、コカコーラを出してくれました。この日まで、私がコーヒーよ りもコークを好きだとどうして知ったのか、私は全く判りません。最後の日に、彼のコークを飲んだ後でそ れを彼に渡し、明日私は米国に向けて出発すると手振りやジェスチュアーで言おうとしました。彼が、私の ことを理解したかどうか判りません。 翌朝、私はバスがあるかどうかを問い合わせるため航空会社の事務所へ行くので、彼のそばを通りすぎた ら、彼は、お別れの贈り物としてケントのワンカートンを手渡してくれました。私がケントを吸っていたの を見て、彼は、私が出発することのメッセージをなんとかして判ったのだと推測します。私は彼のためにた だの1セントも使いませんでした。彼は本当にすばらしい友人で、彼が誠実であったことを私に示したかっ たのだと、私は思います。 すばらしい微笑みは、世界中のどこでも通じることを私は知りました。あなたが友人であることを示すた めに、軽く叩くのやほかの方法は殆ど至るところで上手くいきます。 これは、12月中旬の頃で、セーターを着るような肌寒い夜でした。Rundyと私はベイルート(Beirut)に 向けて出発しました。(アラブ人はBiruteと発音します。) Rundyと一緒にコークを飲みながら一晩か二晩を過ごした後、私はローマへ出発しました、そこで、私が モナコからイタリアに入ったときに預けた、私のデポジット(私はそう思います!)を返して貰うために行 くつもりでした。私は、そのお金を返して貰うために、3日か4日かそれ以上を費やさねばならないだろう と思いました。私は、ホテルの部屋に居て、何をするかを考えていました。それは午前11:45でした。私は、 TWA(私はそれだったと思います)へ電話して、ニューヨークへの次の飛行機の空席を問い合わせました。 (これは12月23日でした)彼らは、1月1日を過ぎるまで、空席は無いと教えてくれました!!私は、 クリスマスをローマで過ごさなければなりませんでした。 |
| (注1)
Johnに尋ねたところ、ナバープレートの「KT-1」は、自分の名前、(例えば、ケニス・テイラーKenneth
Taylor) の イニシアルで、自分の車の1台目であることを示し、2台目の車には「KT-2」をつけるのだろうとのことです。 |
| 057M103006 2006.11.02 |
| 第11章 (6) 第1回DXpeditionは終わり |
私は、その後の10分間に、沢山の急ぎの電話をかけました。ニューヨークへの全てのフライトは、 私が最後の電話をパンナム(Pan-Am・注1)へかけるまでは、満席でした。ご多分にもれず、それは また満席でしたが、私が電話をしたわずか数分前に、一つの席がキャンセルされました。彼らは、 もし私が45分以内に空港に着けるなら、私はその席を使えると言いました。 私には、TWAのチケットがありました、そして、大急ぎで、私のジャンクをタクシーに詰め込み、 それは大急ぎの旅でした。タクシーの運転手は英語が話せました、そして、私は、もし彼が私を それは、本当にスピーディーな出発の手続きでした。私は、私のパスポートにスタンプを押したと 私は、その夜の7:30頃に、ニューヨークに着きました、飛行機を乗り換え、同じ夜の10:30頃にサ ペギーは、まだラジオTV店を開いていました、そして、私が店に入ったとき、彼女が言ったことは、 これが、私の第1回のDXpeditionの終わりでした。私は、無事に家に戻りました、そして、私は、 再び、私の家族と一緒に家に戻っているのはとてもすばらしかったです。私は、数千枚のカラー また、多くの無線クラブから、ミーティングで私のDXpeditionの講演をして欲しいと頼まれました。 次のDXpeditionについての話が一般的な話題で、私が何時次の旅行に行くかを、誰もが知りた ・DXingの手続きと統計 私の最初の旅行で、どのような状況でも、誰も反対、それがどのようにひどくても、そのようなこと 私は、W1, W2, W3などなどとは決して呼ばないでしょう。他よりも優先して交信するためのしかる 私は、いつか、各スポットから、いくつのW、JA、ZS局などと、そして、どれかのスポットから、私 しかしながら、そのほかにも集計できる沢山の統計があります。覚えていてください、私の多く さて、それではみなさん。これで、第1回DXpeditionは終了します。私は、第2回の旅行に来月 |
| (注1)Pan-Am
パンアメリカン航空・ 1960年70年代にはアメリカを代表する航空会社だったが、経営が悪化し、 1991年倒産した。 (注2) Service club ロータリークラブのようなクラブのことで、ガスは、地元ロータリークラブのメンバーだった。 |
| 058M110506 2006.11.8 |
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