W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その13)   アマチュア目次へ戻る
第 7 章 (4) 好き嫌いはありません
 
 そうです、これらは、あなたが留まる殆どの場所で聞くことができるコールです。さて、これらは、私の
心の中で思い出せる幾つかのものにすぎません。“ガス、私はあなたが運用したすべての場所で交信し
たのに、なぜ私のコールをそのリストの中にいれてないのですか?”と誰かが私に言うのをを知ってい
ます。OM、もし私がすべてのログを取り出し、それらを見て、リストを作るのなら、73誌の次の3か4冊
にはコールサインの長いリスト以外何もなくなるでしょう。これは、現在、私が思い出すことのできる局
の非常に簡潔なリストです。もし、私があなたのコールを忘れたなら、私からの“すみません”を判って
下さい。

 さて、モナコと3A2BWに戻りましょう。そこの場所は、私が初めてDXpeditionを運用した所で、そこ
は、いつも私の心の中の穏やかなところです。すべての3A2のアマチュアは、私に非常に親切でした。
そうです、そこには非常に多くの人達が住んでいますが、それ程アクティブではありません、彼らはいつも
そこに滞在し、そして、彼らの殆どは送信機も持っています!

 そこでの私の滞在の終わる頃、I1IN-Vladoがイタリアから私に会いに、そして一寸運用するために来まし
た。彼が、CQ ローマを長時間呼ぶのを7mcのフォーンでするつもりだと言ったとき、私はどの様な国の誰
とでも交信するためのこのDXpeditionで、私が交信しようとした好きな局、あるいは国は持たなかったと
彼に言わなければなりませんでした。私は、私達と交信したいローマの誰でも、他の友人とそのようなチャ
ンスを持つように提案しました。(私達が今までにローマと只の一つのQSOもないとは私は信じられませ
ん!)

 出発の時が来ました。私達は、すべての荷物を梱包して、スイスの中にある“Campion D'Italia”への行
程で、私達をミラノへ連れていく列車に乗りました。私は、多分ニューカントリー、しかしそうではない!
と思いました。さて、イタリアとフランスの国境でこの列車が止まったとき、楽しみが始まりました。もし
あなたが、多くの興奮を引き起こしたいなら、無線機で一杯の2個のスーツケースを持ってイタリアに入っ
てみて下さい:フロントパネルに、キイ、マイク、アンテナ、その他と明らかに印された、一つの送信機を。

 私は、フランスに到着したとき、フランスの税関に供託させられました。国境のチェックポイントで、彼
らは供託金を私に返しました、そして、イタリアとフランスを分けている小さなゲートを私は歩いて通りま
した。さて、イタリアの税関は私のこの無線機を見つけて言いました“輸入許可書がなければあなたはこれ
をイタリアには持ち込めません。”(私は、実際そのようなものは持っていませんでした、全く何もなしでし
た。)彼らは、それを持ってフランスに戻りなさいと言いました。(ゲートを通って戻りなさい)勿論、私は
スーツケースを持って戻りました。

 それから、“あなたは、輸入許可書とそれをフランスに持ち戻ることはできません”とフランスの税関は言
いました。さて、私は何回も行ったり来たりしました。ついに、そのドアの正確に中央にスーツケースを置
きました。それから、彼らのどちらも、このようなことが好きであるようには思えませんでした、しかし、
それは一種の“無人地帯”でした、そして、彼らはそれについて何もできませんでした。皆さん、私は間違
いなく学びました。DXpeditionの楽しみには、数え切れないほどの試練が待っていることを。
    

・ワインと宗教

 フランスとイタリアの間のこの小さな中立地帯はニューワンにカウントされるだろうかと私は思いまし
た?ハハ!さて、およそ6時間の遅れで、そして、何回ものローマとの電話で、私達の無線機を持ち込むこ
とを許可されました、しかし、およそ$169を預けることを求められました。(これは1959年暮れのいつか
の時で、今は1965年で、今日まで、私の預けたお金はイタリアの税関にあります!!)お金を預け、Vlado、
I1INと私はCampion D' Italiaへ行く途中でした。

 IC1INが私達のために発行されたコールサインでした。列車は、石炭バーナーの列車で、北イタリアへの
すべてのトンネルで、私達が皆死ぬほど窒息しなかったのは不思議です。それらの幾つかのトンネルはひど
く長く、そしてそれらのトンネルでは列車はいつも非常にゆっくりでした。時には、丁度真ん中で、多分5
分間ほど止まりました、それから、エンジンからのすごい煙で息が止まりそうになると思いました。人々は、
口を閉じ、咳をして、そして、最後のトンネルからずっと離れてさえ、次の6時間も小さな石炭の粉で私は
咳をしました。

 私は、北イタリア、実際イタリアの残りの殆どで続く印象です。沢山の小さな村がありました。それぞれ
は、冴えないように、しぼんで、見えなくなりますが、非常に大きなカソリック教会があります。カソリッ
クの神父がどこにでも居ます。イタリアには強い宗教心があり、それが非常に多く、そしてそれはすべてカ
ソリック教徒です。

 葡萄棚!そうです、すべてイタリアワインを作るために、すべての場所で、彼らは何百エーカーもの葡萄
棚があります。イタリアの女性はおしゃべりが大好きです、特に列車の中では。それらの列車は、そんなな
女性のおしゃべりのマラソンです。それはいつもしゃべりまくっています。皆、ワインを飲みます。時々、
大きなボトルが食事のとき空になります。

 どこでも、いつも、殆どすべての食事にスパゲッティが出されると確かに思いました。さて、イタリア全
土で、美味しいスパゲッティの夕食を見つけるのに苦労したのを知っているでしょう!ドイツで、ザウアー
クラウトを見つけるのに苦労したのと同じです。

 ミラノの街を歩いていたとき、市の中央の右のもっとも高いビルの頂上、それは12階くらいと思いまし
た、私は凄いものを見ました。それは、高さ約70フィートのタワーの上に、20メーターの5か6エレメン
トの大きなビームがありました。皆さん、この友人はビームのための本当に良いサイトを持っていました。

 私は、Vlado、彼はそこに住んでいました、に尋ねました、彼は、Bruno、I1RIFだと答えました。あと
で、およそ3年後に、私はBrunoを訪ねました、そして、私がかって見たことのある世界のベストアマチュ
ア局の一つについて、あとの章の中で、皆さんに全部話すつもりです、そして、それは、W6連中の何人か
の殆どよりも素晴らしいと私は言います。

 ミラノで一晩をすごしてから、バスでIC1ランドに行きました。スイスとの国境で、そのような税関の仲
間が再び居ました。しかし、Compion D' Italiaのライセンスを見せたとき、私達が出発するとき返却された
(お金)を預けたのを除き、私達は全く何の問題もなく通過を許可されました。従って、私達は終わりでし
た。
 
JA1DM注:Campion D' Italia
       イタリア北部、ミラノの北、イタリアとスイス国境のルガーノ瑚にある小さな町で、小モンテカルロとも
       言われています。イタリア領ですが、スイスフランが通貨で、スイスの電話番号が使われている、特別な
       町です。このため、一時期、セパレートエンティティになるのではと言われたところです。
       詳しくは( http://www.immowehner.ch/Introduction.htm)を。
030M061506   2006.6.16
第7章 (5) 世界で最初のIC1コールサイン

 私のこれまでの生涯で使おうとしたアンテナではもっとも悪いもので終わりました。私達のホテルの部屋
は3階でした。20mダイポールは、ホテルの角にある窓からもう一つの窓までの長さのアンテナ線でした。
それは中央で90度に曲がったダイポールでした。SWRは1対5か6でした。それは半分程ロードできただ
けでした。私は送信機を20mに合わせて、さて、私は世界で初めてのIC1コールサインで、最初のCQを
だそうと思うとValdoに言いました。
 
 Valdoは私達の到着の前に、既にライセンスを保証しましたが、彼は“いいえ、ダメ、ダメ、私達はまだ
送信はできません!”と言いました。私はなぜダメなのかと聞くと、私達は最初にしなければならないこと
が沢山有りますと彼は言いました。

 最初の私達のコールは知事の事務所にありました。私達の訪問の目的を彼に説明した後、そして彼の
許可を得て、私達は警察長官の事務所に行きました、そして、更に説明をしました。私達は、それから
郵政局に行き、郵政長官に会い、もっと話をして彼はOKと言いました。これは半日かかりました。私達は、
およそ2時頃にホテルに戻って、非常に遅い昼食を終えました。私達は、それから私達の部屋へ行き、
短時間の睡眠をとりました。

 最終的に、およそ4時か5時に3名の警官が、私達の装置を検査に来て、そして私達も点検しました!こ
の人達は、無線やアマチュアのことは全く何も知りませんでした。ハ!ハ!彼らは、それらの言葉について
はさっぱり判りませんでした、そこで、Valdoはハムとは何か、、そしてなぜなのかを説明しました。およそ
30分の早口のイタリア語のあと、彼らは出発しました、そして、私はもうすべてOKになったのかどうかを
Valdoに聞きました。彼は、全部OKだと言いました、私達はもう運用できます。

 この運用の結果はあまり良くありませんでした。私は、主としてアンテナ系が悪いためだと思います。あ
らゆるQSOで、私達がどこに居るか、そしてこれはニューワンにはならないだろうと言わなければなりま
せんでした。これは、非常に時間がかかりました。それから、ValdoはCQ ローマを呼ばなければなりませ
んでした、そして、これは更に時間がかかりました。この場所でのヨーロッパの混信はひどかったです。私
が覚えている限り、米国とのQSOはほんの僅かでした。

 私達はおよそ7日間滞在しました、そして、私達はサンマリノへ行きました。ValdoはI1IN/M1のコール
サインを発行されました。ミラノからサンマリノへの旅行は列車でした、そして再び、もう一度、それらの
煙たいトンネルを!私達は、小さな港町に着きました、それから、およそ30マイル離れたサンマリノへ行
くバスに乗りました。サンマリノ、私が思い出せる限り、サンマリノは丁度全体が一つの山です。それは、
ふもとから頂上まで山を覆っています、それがサンマリノです!

 そこは完全に観光の場所です。私達がそこに着いたとき、アメリカ、グレイハウンドバスのサイズの、ド
イツから来たおよそ100台のバスを見ました。また、フランス、ユーゴスラビア、オーストラリア、チェエ
コスロバキア、それからその他の沢山のヨーロッパの国からの多くのバスがいました。そこら中にスナップ
写真を撮る旅行者がいました、そしてすべての小さな店がショッピングの旅行者で一杯でした。夏の最中、
ノースカロライナのアッシュビルのように旅行者のいるところ私に思い出させました。

 私達は、再び警察の検査を受け、彼らの許可を得ました。
・本当のアンテナシステム

 しかし、この時点までには、私達はまだQTHを決めていませんでした!そこで、彼らは、私達が場所を
決めたら、戻ってきて、私達が運用しようとしている場所を彼らに知らせるようにと私達に告げました。私
達は、何軒かのホテルをあたりました。それらの全部が値段が非常に高く、私達にとってあまり良い場所で
はありませんでした。

 それから、Valdoに、サンマリノすべてを見下ろす、大きく高い見張り塔から運用する許可を取ることを
してみることを提案しました。彼は、それは不可能だと思うと言いました、しかし、とにかくやってみよう
と。この塔の頂上に行くには880段を上らなければなりません。(私は自分で数えました)

 私は、高い見張り塔の下の古い城で、Joeと言う名前の、非常に親切な番人を見つけました。丁寧な長い
話のあと、彼はボスの所へ行き、私達と彼と一緒に塔の殆ど頂上にある小さな部屋を使うことはOKだと決
定されました。これは、サンマリノのすべての中でもっとも高い場所です。それは100フィートかそれ以上
高く、それは山のピークのトップにあります。それは、W3CRA の場所よりも良いQTHです。

 そこで、私達はすべての物を、階段を引きずりました。私達は、ダイポールの列を、一列に張りました。
10m、15m、20m、40mと80m、すべて一列に!私達は、このごちゃごちゃした物を2つのタワーのピー
クの間に張りました。私達は、本当のアンテナシステムを作りました。 私達のガードの友人、Joeの支援
で、230vが部屋に得ました。すべてが設置されたあとで、警察長官の所に、彼のチェックを受けるために戻
りました。

 880段の階段を戻って登り、私達のシャック行き、私達の最初のCQを出しました。そこの結果は理想的
でした。私達は、最高のレポートを貰い、本当に愉快にやりました。私達の友人、Joeは私達が眠るための
2台の軍簡易寝台、小さいヒーター、何枚かの毛布まで持ってきてくれました。その上に、彼の妻が私達の
ために料理したスパゲッティの大きいお皿を持ってきました。皆さん、彼女は本当にイタリアスパゲッティ
の料理を知っていました:イタリアで見つけるのはとても難しい程の!
 
 そこでの数日の滞在のあと、その880段の登り下りは私をくたくたにしました。私はJoeに、毎晩のディ
ナーの素晴らしいスパゲッティの大皿の料理に対して、彼の奥さんに支払いたいと聞きました。食事のため
のもっとも近い場所は、ここの階段の下からおよそ半マイルでしたから、これは、私達の多くの登り下りを
彼女は減らしてくれました。

 時折、私達は、夜、食事のために下りなければなりませんでした、そして、古い城の沢山の部屋を通って
歩かなければならないのは気味が悪いと言わせて下さい。壁は、拷問、古い銃、よろいかぶとの器具と過去
の長い年代の遺物で覆われていました。私達は、階段を歩く場所を見るための古い懐中電灯しか持っていま
せんでした。毎晩、およそ11時、雨が降り出しました、そして、これは私達がいる間毎晩続きました。ま
た、日中、夜、といつも風が吹き、すべての古い窓をとおしてこの風が吹いて、沢山の奇妙な音が聞かれま
した。
GusのDXpeditionで初めてQSOしたの
がこの時、1960年8月26日で、CWで
589、SBで58で聞こえていました。
この時、9月22日には599で聞こえて
いました。まさか塔の上のアンテナ
とは想像もしていませんでした。
GusとQSOする前日にQSOしていま
す。やはり599でした。
このときからGusのDXpeditionが開始
されました。
031M062006   2006.6.22
第07章 (6) ツーリスト相手のたわむれ

 ある夜、いつものにわか雨が始まって、ものすごくひどいノイズが電話バンドで始まりました。それは、
どんどん大きくなりました。ついに、SメーターはS-9プラス、プラスを指しました。勿論、全部の信号が
ノイズに沈みました。私は、無線機の電源をオフにしました。そして、ウソだと思うでしょうが、ノイズは
まだ聞こえているのです!私は、このノイズの源を探しはじめました、そしてライトが消えたとき、私は、
使っていないアンテナのそれぞれの端に非常に淡い青い光の輪を見ました。

 私は、アンテナの一つを地面に置くために手を伸ばしましたが、それで私は最初にひどい衝撃を受けまし
た。私が、それぞれの使っていないアンテナの芯線を地面に置いた時、私は、全部の使っていないアンテナ
の外側のシールドからコンクリートの壁に、まだアークしているのを見ました。全部の使っていないアンテ
ナとそのシールドをグラウンドした後で、すべてのノイズが14Mcのアンテナから消えて、私はオンエアー
に戻りました。

 ある夜、風は台風のような強さでした、しかし、ともかく私は運用し続けました。私は、この嵐の中で、
およそ10時頃、いつもよりSWRが少し高くなったのに気づきました。私は、およそ午前2:30まで運用を
続けました、それから寝ました。翌朝、なぜSWRが高くなったのかを確認するために、私は外へでてアン
テナを見ました。私は、アンテナのすべての線が山側に落ちて、山の表面にまっすぐ横になっているのを発
見しました。普段のSWRより少し高いのを除いて、私は、何も目立った影響がなかったのを発見しました。
アンテナより高いところにあるシャックと送信機で、夜中じゅう運用していたのです。

 私たちがそこにいる間、沢山の面白いことが起こりました。一日中、私たちの小さなシャックの回りの狭
い階段をツーリスト達が行ったり来たりしました。最初の日が終わってから、私たちは、沢山の質問のQRM
を除くために、ドアを閉めておくことにしました。時々、彼らが外にいて、閉じたドアを見て、彼らの一人
が何かこのように言ったでしょう、“もしこの古い塔がしゃべれるなら、これらの部屋で人達が殺されたこと
についての面白い話を告げるでしょう。”それは、Valdoと私が、血が凝血するような叫びか、大きなうめき
声を出して、靴か、なにかそのような物で、ドアを蹴ったときです。それから、あなた方はきっと、それら
の人達が、本当に叫び声をあげ鐘楼の幽霊から逃げるように、螺旋階段を駆け戻るのを見たでしょう。これ
は、毎日何回もおきました、私たちにはすばらしい時間でした。

 サンマリノの運用は非常に素晴らしく、そしてValdoと私は、そこにいた間良い仕事をし、非常に満足し
た気持ちで、ローマへ出発しました。ローマへの旅はいつものように列車でした、そして、いつものように
満員でした。私たちは、費用を節約するために3等で行きましたが、私たちは1等と同じ時間に着きました。
私たちは、聖バチカンに直行しました、そして、ドミニコに会いました。

バチカンでスイッチを切る

 私は、ドミニコ、HV1CN、にCWだけで、何日かHV1CNを運用させて貰えないか尋ねました。
ひどくちゅうちょして、そして沢山の質問がありました。質問の一つは、“あなたの宗教は何ですか?”
私は、私がバプチストと言ったら、間違った答え、あるいは、多分何かそのようなものに違いないと思いま
した。とにかく、彼は結局、OKあなたは少しCWを運用できますと言いました。

 キイをとってから、埃を吹き払った後、(マイクは、素晴らしくきれいでした)そして、ドミニコが私の名
前は言わないでただ信号レポートだけにして下さいと私に言っている間に、私は、キイのプラグを差し込み、
15メーターで最初のCQを出しました、そして、死んでいたバンドが本当に開きました。9分間で私は11QSO
をしました、全部ヨーロッパの局です。私が次ぎに呼んできた局のコールサインを書いている間、ドミニコ
は手を伸ばして、スイッチを切って「さて、昼食の時間です」と言いました。私は彼に聞きました、昼食の
後、戻って、もう少し運用できるかと聞きました。彼は言いました“私はあなたに連絡するつもりです”
これが、HV1CNの運用の終わりです。
 私は、少なくとも、HV1CNを運用した一人のバプティストがいた、それは僅か9分でしたが、と言うこ
とができます。

 いま、イタリーからQSYするときで、税関は、今日までそうしていなかった預けたお金を送ると言うで
しょう。

 ユーゴスラビアへ、ザグレブでの短い滞在、そしてベルグラードへ、私が丁重にもてなされたYU1KCと
彼の息子YU1EHとの1週間の滞在。私は、彼らの素晴らしい人達に会った、無線クラブに連れていってく
れました。ある晩、ダンスにも連れていってくれました。素晴らしい場所、ベルグラード、そしてユーゴス
ラビアの素晴らしい人達。いつか、私はユーゴスラビアに戻って、ここをもっと良く知りたいと思います。

 アテネへ行き、空港で、素晴らしいGeorgeとSock 、SV1ABとSV1AEに会いました。私はGeorgeの
家で、およそ1週間過ごしました、そしてアテネのすべてに連れていってくれ、歴史的な場所のすべてを見
ました。Georgeは朝食にコーヒーを飲みませんでした:その代わりに、毎朝の朝食には、美味しいホット
ミルクを。私は、これを飲むことができるとは思いませんでしたが、飲みました、そしてそれは胃に収まり
ました。そこで、あなた方は時々朝食にホットミルクを飲んでみると、私が何を言おうとしているかが判る
でしょう。それは、あなたを殺しませんが、・・さあ、試してみて下さい。

 さて、皆さん、時間です。
 来月は、友達のRundy・OD5CT、カイロ、ハルツーム、ケニヤ、それからセイシェル、蛸、W0AIW、
Lee Bergren、MM、それにHarvy Brain。そうだ、私は丁度今スタートしようとしています。私は好調で
す。皆さん、私と一緒に、お話しすることが沢山あります、そして、幾つかのお話しできないことも。
注 JA1DM :当時、GusがM1のあとHVに行くと聞いていたので、ワッチしていましたが、結局聞きませんでした。
        このような事情があったのですね。
032M062506  2006.6.26
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