W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その39)   アマチュア目次へ戻る

                                                        
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第19章 (1) 船に精通する      

 さあ、トリスタン・ダ・クーニャです!

 先月の章では、私が南アフリカの砕氷船に乗って最初の予定された寄港地、トリスタン・ダ・クーニャ
に向かって南アフリカのケープタウンを出帆したところで終わりました。

 ジャック、ZS1OUと私は、出発する日の数日前に船に乗り私の小さな専用室に無線機を設置しました、
そして、それは使用する用意ができていました。私たちは北東に向かっていて、ケープタウンの街が遠く
に消えていくのを見ていました。およそ1時間ほど過ぎてから、私は無線機を使うことが出きるくらい離
れただろうかと船長に尋ねました。彼は「もちろんです。」と言いました。そこで、私の小さな部屋に向か
い、無線機のスイッチをオンにして、受信機と送信機を14100kcで再校正しました。それから、私はアン
テナのSWRを確認しました;それは1:1を指示していました、そこで、私は全てセットできました。

 W4BPD/MMと言いながら、最初のCQを出しふたたび私の仕事に戻りました。皆そこにいました、し
かし、東海岸の仲間はいなくて、なぜなら、バンドはそのエリアへは開けていませんでした。しかし、か
なり多くのW6と何局かのW7が呼んできて、皆、私が何時島に到着するかを知りたがりました。その時
は、経験で推測することができただけで、大体の時間を私は言いました。

 殆どすぐに、ヨーロッパの局が呼び出しを始めました、そして、全ての情報を再び言わなければなりま
せんでした。それが、数時間続きました。私は、ゆっくりして、そこで、私は気楽に彼らが要求したこと
に返事しました。小さなパイルアップが静かになって、そして、私は、船を散歩することにして、船員全
員に会うことにしました。私は、それぞれの仲間がどのような仕事をしているかをもっと良く知りたいと
思いました。

 最後の人は、隔離された船尾楼甲板の小さな部屋の無線通信士でした。私たちは、長時間のアイボール
QSOをしました。私は、彼の日本製無線設備を良く見ました、そして、それは非常に良く組み立てられ
た設備で、FBに動作しているようでした。一番良かったのは、私はハムバンドで、彼からのQRMがな
かったことで、そして、私は彼にどのようなQRMも起こさなかったことでした。それは、私たち二人が、
いつでも、お互いに妨害なしに運用できることを意味しました。殆どの場合、船に無線機をセットしたと
きこのようではないことを、私はあとで知りました。

 この船は、私が乗船したときのおよそ5年前に、日本で建造されたので、船に関する限りそれは実際に
新しい船でした。古いジーゼルエンジンは、新しいエルジン腕時計と同じように順調に動きました。船内
で、座ってレーダーを見るのは、私にとって何時も楽しいものでした。それは、ゲインをあげれば遠くの
波の中の鯨さえも探すことができました。

 音響測深機は、可能なら私は何時も見ていたそのほかの機械でした。それは、船の下の、あらゆる丘と
谷を示しました;そして、それは、時折、魚の群を見つけさえしました。それは、容易に大きな魚を見る
ことができました。もし誰かが、しばらく、それを練習したら、大きな魚のサイズを言うことが出きるだ
ろうと私は信じています。

・熟考して、学んで、リラックス  

 その音響測深機からの、奇妙な音を聞くのは私を何かぞっとさせました。それは私がこれまでに聞いた
中で、もっとも奇妙な音で、あなたは、CRT画面に映し出されたそれぞれの物体から反射したエコーを聞
くことができます。それは、これまで、私の生涯で、決して観察したことがない何かでした、そして、特
に夜遅く、最後のコーヒーを飲んだあと私がすることがないときそれは何時も、私を引きつけました。

 私は、およそ5ケースのコークを持ち込み、何時もその何本かを船の冷蔵庫で冷やしていました。ある
晩は、コーヒーで、他の夜はコークでした。それは、私の気分次第でした。

 私は、夜の多くの時間をトップデッキに腰掛けて、水平線から天頂へのおよそ半分の所に見える南十字
星とともに、南半球の頭上の星の奇妙な列を見ていました。朝早い時間の間は、かなり沢山の鯨が見つけ
られました、そして、船が彼らに近づいたら、それぞれはまっすぐ下に頭から潜りました、それらは、本
当に、なにか「ばかでかい」ものでした。

 何もすることがないとき、バンドを聞いていると何時も面白く、特に誰かが私のことを話しているとそ
うでした。私は、彼らを一寸揺さぶりました、私がブレークインして、そして言います、「ヘイ、あなた、
注意した方がいいですよ、私は、あなたの言ってることを聞いています。」と。

 私たちは南アメリカの方のどこかに向かっていたと言えるでしょう、本国でW2がW4に強く来るよう
に彼らは強くきていました。
 私の素晴らしい家族、特に優しいペギーと快適な家から遠く離れたこんな所に、なぜ私は居るのだろう
かについて、ただ座って、熟考する沢山の時間がありました。さらに、DXpeditionする人がそれを考え
れば考えるほど、本国でエアコン付きの家かアパートにいる仲間達はDXpeditionからの彼より、実際に
もっと楽しんでいると確信させます。それは、私が何時も言っているように、楽しみは追いかける中にあ
ります、パイルアップの中に入って、つかまえにくい、レアーなDXと交信し、静かに去っていく;
 それから、それについてXYLに話に行って、時には彼女が「それがどうしたの?」といいます。

 ニューワンとの交信のスリルを感謝する唯一の人はあなたで、あるいは他のDXサーだけであると、私
は確信しています。75m,のラグチューをする人達は、ニューワンと交信することの全てを判らないでしょ
う、そして、それがどのようであるかを彼らに説明しようとすることは、あなたの時間を無駄にします。
しかし、もし、全てのハムが本当のDXサーであれば、バンドは絶対に使用不可能であることが判るでし
ょう。仮にパイルアップが、今より10倍か15倍になって、その混乱状況を思い浮かべられますか?つま
らないDXpeditionナーがクレイジーのようになり、各スポットで、できるだけ多くのQSOをすること
はできないだろうと私は確信します。

 船内で、2台の大きなジーゼルエンジンが動いているのを見るために、私はエンジン室の周りを良くう
ろつきました。1台のサイズは自動車ほどの大きさで、それらは子猫が鳴くようにゴロゴロと音をだしま
した。私が思い出せるかぎり、その回転速度は毎分およそ300回転で、それらは寿命まで持ちこたえると
言われました。

・寒い南大西洋を航海している間の観測    

 彼らは、母親が彼女の赤ん坊に気を配るように、それらの大きなジーゼルを監視します。彼らは、何時
も忙しく、あちらこちらにオイルを差し、あれやこれを調整し、誰でも船の舵輪に居る人と絶えず連絡を
とります。

 そして、私たちのゴール、トリスタン・ダ・クーニャに、私たちが、どのように近づいているかを伝え
るため、私のつかんだあらゆる機会にオンエアーし続けました。この全体の旅行で、南大西洋は私にとっ
て意地悪なムードであるように思えました。インド洋のセイシェルの付近で、ときどき見たような、静か
さは決してありませんでした。ここが夏の時期だったのを思い出して下さい。冬のシーズンなら、どのよ
うになるに違いないか私は想像することができます。そのような時期には、本当にひどく荒れると言われ
ます。

 海上にいることでの一つのポイントは、素晴らしいバンドコンディションと、バンドが遅い時間までオ
ープンしていることです。私がZS1RMから運用したとき、いかに早くバンドが閉じるかを私は観察しま
した。バンドは、米国に戻ったときとほぼ同じように閉じました、しかし、海上ではそれは完全に別なス
トーリーでした。向かっている場所に私が遂に上陸したとき、バンドがこのようであることを私は望みま
した。

 夜に、西南から風が吹くとき、それは全く冷え冷えとなったのに気がつきました。南極の上の冷たい風
が、そこから遠い、離れている私たちにでさえもその影響を与えたに違いないと私は思います。
 沢山の魚が見られました;時にはそれらの大きな群も。私が驚いたことは、一日中、全ての鳥を船から
見ることができました。その多くが、船に従っているように見えました。多分、鳥たちは迷って、私たち
は、遅かれ早かれ、鳥たちを陸地に連れてきます。

 日中でさえ、デッキチェアで楽しむには、少し冷えて風が強すぎました。船上では、食べ物は問題では
ありませんでした。あらゆる食事に、沢山の美味しい食べ物がありました、そして、時々ビールもありま
した。私は、そのブランド名は忘れました。

 船長と一等航海士は私を非常に丁寧に扱ってくれました、そして、私の尋ねたものは何でも手に入りま
した。私は、彼らのゲストで、彼らはゲストのもてなし方を知っていました。多分、近いうちに、私は、
再び、彼らと行く機会を得るつもりです。私は明日にでもそれらをえらぶでしょう。(多分、私は近いうち
に、手紙を受け取るに違いない、エ?)

 もし、あなたが米国から遠く離れているとき、あなたがフレンドリーであれば、みんなあなたの友人に
なることが私は判りました。もし、あなたが「紳士気取り」に行動するなら、(ある人達は未だそうします)
彼らはあなたを扱う方法を知っています。あなたは、死への「レッドテープ」を得ます、そして、あなた
は、海上では、彼らの言いなりになります。そう、あなた、そこでは気楽にやりましょう;誰にでもフレ
ンドリーになりましょう、そして、彼らもあなたの友人になります、それから、何事もあなたのために、
非常に、さらにスムースに進むでしょう。私は思います、世界中の殆どの人達がフレンドリーになりたい
と思っています、そして、もしあなたが正しく行動し、正しいことを言うなら、それから、あなたが彼ら
の友情を必要とするとき、彼らはあなたのために全力でします。
090M041007  2007.4.9
第19章 (2) トリスタン・ダ・クーニャに到着

 船内で、特に、あなたがコックの友人になれば本当にこれはうまく行って、いつどんな時でもあなたは
ギャレーを訪ねて、いつも本当に良いなにか、あるいは入れたてのコーヒーを一杯貰うことができます。
もし、あなたが食べるのが好きなら、いつも船のコック長と親しくなるようにすることをあなたの仕事に
しなさい。それは、素晴らしくうまく行きます、あなたは、特にあなたのための一寸した食べ物を彼に料
理させることができます。

 私は、トリスタン・ダ・クーニャへ行く3名の男性と知り合いました。1年か2年前に火山が噴火した
とき、島を去らざるを得なかった島の全住民達と一緒に彼らは島から来ていました。彼らは、とても変な
英語を話しましたが非常にフレンドリーでした。彼らは、何年か前に、島からハム局を運用していた誰
かについて私に話してくれました。

 島への旅は4,5日かかりました、なにかが毎日起きていたので、私にとっては非常に早い日時でした。
そのようなことが全部あった数年後に、ここに座ってそれを全部書いていることは、私にとってまるで昨
日のことのように思えます。毎日毎晩動作していた音響測深機の奇妙な音を、私は、まるでたった今、聞
くことができるようです。いまでも、当時の乗組員の何人かが船に居るだろうか、彼らが同じ船をまだ使
っているのだろうかと私は考えます。

 ある朝、いつもより多くの鳥たちが、遠くに群がっていました。それから、船のインターカムが、トリ
スタンが近づいているとアナウンスしました。1時間ほどで、私たちは水面から切り立った幾つかの山容
を水平線に見ることができました。その山の一つから少しの煙が上がっていました。

 トリスタン・ダ・クーニャの人達は神経質になりました、そして、とても嬉しそうな笑顔になりました。
彼らは、それから、皆が間近で、お互いに握手を始めました。彼らが、長い間留守にした家に戻ってきた
ようだったと私は思います。しかし、私にとっては、近寄ったとき、そのような惨憺として見えるところ
に戻ることを、誰かがいかに切望しているのかを、私は思うことができませんでした。しかし、私は思い
ます、彼らにとってそれは自分の家で、彼ら3名が生まれ、その岩山の上で彼らの生涯の大半を過ごした
所でした。

 私の場合、トリスタン・ダ・クーニャを見たとき、私が見たそのような惨憺とした場所で私の生涯の残
りを過ごすことは、私は確実にいやでしょう。あとで、私はこの場所よりもっと悪い、もっと惨めな所を
見ようとしていました。

 船は、岸からおよそ半マイル離れて停泊しました。小さな何艘かのボートが海面に下ろされました、そ
して、何人かの乗組員が、南大西洋のその場所でとても多いロック・ロブスター
(注1)の漁に行きまし
た。大きな上陸用のボートが下甲板のレベルに下げられて、そして、島からの3名、私、1等航海士、3
等航海士がボートに乗り込みました。私たちは、海面に下ろされエンジンが始動され、私たちは島へ向か
いました。私たちが近づいたとき、船から見たときよりさらに荒涼としていることを私は知ることができ
ました。

・ロックロブスターは豊富で、すばらしく美味しい 

 土の色は石炭のように殆ど真っ黒で、火山から熱い溶岩が海に流れ出したところは、3、4カ所の流れ
であったように見えました。実際にそれが流れ出したときは凝視する光景だったと私は思いました。(私は、
あとで、このような溶岩をアイスランドで見ました。)

 3名の男の人達は、未だ建っている彼らの以前の家に向かいました。彼らは、全ての違った家々を見に、
歩いて、時には、いたるところに走って、全ての場所に行きました。これらが行われている間、私は、ハ
ムシャックとして使うことができる家とアンテナを建てる最良の場所を探していました。私は、これにつ
いて1等航海士と議論しました、そして、彼が私に話したのは、彼らはいくら遅くても、翌朝までしかそ
こに滞在する予定がないということでした。

 島の3名は、彼らはそこに滞在すると決めたので、私たちが船に戻ったとき、彼らの全部の持ち物、何
匹かのヤギと羊さえもが上陸用のボートに積み込まれました。彼らは、皆と握手して、私たちに「さよな
ら」と言ったあと島に戻りました。

 私は船内に留まり、オンエアーして、私の居る場所とこれからどうするかを仲間達に話しました。釣り
をしていた仲間達は、何匹かのロック・ロブスターと何匹かの良さそうな魚を持って戻ってきました。

 私たちは、遠くから船が近づいてくるのを見ました。信号灯を持った仲間達は、私たちの船に近づいて
くる彼らと忙しそうにQSOしました。彼らは、私たちの船に横付けして、船長、1等航海士と何人かの
乗組員が私たちの船に来ました。私たち皆は食堂に行ってお茶を飲みました。

 彼らは、食料品の幾つかと、なにかのオイルのドラムの幾つかが必要でした。それらのものと交換に、
彼らはおよそ500か1000ポンドのロック・ロブスターを私たちに呉れました。彼らの船は、そのような
船の一つで、ロック・ロブスター漁のため1年の多くの月をこの辺りに停泊していて、そして、非常に良
い漁獲だったと彼らは言いました。

 あとで、私たちは、それら2隻の船がトリスタン・ダ・クーニャの周辺の海域にいて、2隻ともロック・
ロブスターの漁師だと知りました。彼らは、実際に、浮いている冷蔵庫のようなものでした。彼らは、何
トンもの沢山のロック・ロブスターで船を一杯にすることができました。一杯になったら、彼らの船をケ
ープタウンに戻し、ロブスターはそれからたいていが米国へ空路で出荷されます。乗組員は、とても荒々
しい一団で、非常にたくましく見えました。彼らは、この仕事を長い間続けていると私に言いました。

 私たちは、日没頃にゴフ(Gough)島へ出発しました、そして、私たちはその夜の夕食にロック・ロブ
スターを食べました。言うまでもなく、それはとても美味しく誰もが沢山食べました。それは、暗くなる
一寸前、その火山の残っているいぶりから、小さな煙のすじが未だ流れていたトリスタン・ダ・クーニャ
を私が見た最後の時でした、

   このQSL のZD9AM局はGusとは別な人(Wynand)で、
   Gough島からの、1960年のQSOです。   
1DM注
(注1)原文は「ロック・ロブスター」(Rock Lobsters)と書いてあり、Wikipediaで調べると、このエビは「spiny lobster」
     (伊勢エビ)とも言うと解説してありました。
・ゴフ島に到着   

 私が、この島を再び見るかどうかはとても疑わしいです。トリスタン・ダ・クーニャから逃れた全ての
住民はもうそこに戻ったと、あとで私は新聞で見ました。私は他の新聞で、昨年のいつか、彼らの多くが
また島をでたいというのを読みました。現代文明が彼らをスポイルしたと私は思います。

 私の場合、最初の場所、寒い南大西洋の中の、寒く、湿った、沢山の岩石が積み重なった荒涼な場所に
誰かが住みたいと思うとは私は思いません。風が吹くのが止まるとは決して思いません、そして、私にと
って夏の間でさえ風はいつも冷たいように思えます。それは11月の遅い時でした、これはそこの夏の季
節です。

 ともかく、今、私たちは寒い南極大陸に向かって300か400マイルさらに南のゴフ島への途中でした。
私たちが南の方へ行ったとき地図を見て、たとえ距離は非常に離れてはいないとしても、とても顕著
な気温の低下に気づきました。

 私は、多くの時間をオンエアーに使い、その夜、仲間達に言いました、「もう、あまり長くはかからない
でしょう。」私たちは、ゴフ島に長期間居るつもりでした。翌日の午後の遅く、再び、私は水平線に鳥たち
の厚い群に気づきました。およそ1時間のうちに、ゴフ島が視界に入りました。それは、、少しさらに高く
見える高い台地と、同じようにより高いように見える山並みを除いて、トリスタン・ダ・クーニャの殆ど
正確なコピーでした。

 非常に沢山の鳥たちが居ました;トリスタンよりもっと多く。日没の時、私たちは、岸から数マイル離
れて停泊しました。海は、アンカーを適正に入れられないほど深い深度でした。従って、アンカーを入れ
る固い場所がなく、その夜の間、私たちが島の方へ流されるので、時々エンジンを動かしました。それは、、
レーダーと音響測深機が役に立った夜でした。両方とも、一晩中しっかりとワッチされました。

 オンエアーで、私たちが居る場所、それに翌日上陸し、そこで、彼らにニューカントリーを、少なくと
もゴフ島を欲しがっている人達に与えることができると希望していると、私は、仲間達に言いました。私
は、堅固のグラウンドの上で、彼らが西海岸の中でお互いにコールしたように、ガスワッチャーをつかま
えることをとても望みました。(すなわち、それはW6です。)

 翌朝早く、トリスタンの時と同じ上陸用の船が使われました。私たちは、WXステーションを見に上陸
しました、それは二つの山の間のまさに深い峡谷の中に位置していました。私の考えでは、それはWXス
テーションの場所としては非常に変な所にありました。

 彼らも同じ結論に達しました、私たちは3棟のプレハブ建物を船に持っていました、私たちが下ろさな
ければならなかった場所は、古い建物のQTHからおよそ1マイル南、海面の縁から300フィートか400
フィート真っ直ぐ上にのぼった平らな台地の頂上でした。

 解体されたデリックが、船からそれぞれ下ろされました、そして、彼らが新しいWXステーションを建
設しようとしているその場所に歩くようにして運ばれるためのものでした。

091M041507  2007.4.11
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