W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その32)   アマチュア目次へ戻る
第15章 (1) 美しいチャゴス諸島                       

 私がエピソード14(第14章のことです)と呼んでいるところの最後で、;私はボストンでのARRL大
会で“続いていること”について議論していました。(そこには73社は展示ブースを持てませんでした)
私は“高度に政治的なこと”を一寸見守っていました。(ご承知のように、彼らは、ARRLで高度に政治
的なことを行います。)彼らが、新しい会長のために,その夜選出した人が選ばれたなら、確かに、少なく
ともDXサーのW0NWXを選びました。さて、理事にはもう少しDXサーが必要です、これから先、私
たちDXサーは更に代表されるべきです。

 私は、彼らが前に持っていたPHONE/CWをセパレートする方針へ元通りにしたことが判ります。多分、
WTWはほとんど無関係だったでしょうか、エ?それらが、DXCCにおいてどのような変更が起きるかも
知れないかを良く見ましょう。次に、DXCCが始まりと終わる日付について何か変更があるかも知れませ
ん。
(注1)
 
 さて、私のDXpeditionの話しに戻ります。最後のエピソードで、私はチャゴス諸島へそして不運なVQ8
の運用に行く途中でした。私はここで、おおざっぱに不運なという言葉を使います、なぜなら、私の最後
のエピソードで説明したように、その時、私はほとんどできるだけ合法的であったと考えているので、私
は、私は仲間のハムによって背中を刺されていたとは、知りませんでした。(また、おおざっぱに“仲間”
という単語を使いました。)

 私は、ハーヴェイ・ブレインがVQ9を去ることを考えていることを交信の上で聞きました。さて、一
寸待って下さい、アー。とにかく、私はVQ8Cに行く途中でした、そして、私は魚を捕まえるアンテナを
使って、FBな旅行をしました。(魚を捕まえるアンテナについてはもう一度、最後のエピソードを見て下
さい。)

 旅は途中ずっと向かい風でした。実際、私たちはVQ8Cをほんの少し通り過ぎさえしました。船長はこ
れがベストで、それで私たちは追い風で埠頭に着けると説明しました。ご承知のように、チャゴス諸島は、
200あまりもの小さな島からできています。(これは彼らが私に言ったことだと思います。)私たちは沢山
の小さな島を通り過ぎました、それらはすべて、ココナッツの実ったココナツヤシで覆われていました。

 沢山の鮫がいました、ほとんどは何か妙な理由でボートについてきていました。多分、船外に誰かが落
ちると鮫は期待していたのでしょう!船長の海図を見て、多くの場所で大洋が非常に浅いのを知ることが
できました、そこで、船長は正確な航海をしなければなりませんでした。

 船長と全部の船員は私を非常に良くもてなしてくれました。コックは、米国南部風の料理を作ろうとベ
ストを尽くしました。私には、グリッツ、トウモロコシのパン、豚の顎肉、豚の頬肉、豚の腸、豚の肉汁
やそのほかの南部風の食事のように作られたものがありました。しかし、私の意見では、彼らの努力は賞
賛されるべきです。

 私たちは、最初にディエゴガルシアと名付けられたもっとも大きな島に上陸しました。この島は、長さ
が20マイルほど、しかし幅は僅かに1マイルかそこらです。次に大きな島はソロモン島で、VQ8Cから
の途中に止まったところです。私にとって、このソロモン島は、これまで見たインド洋の島々のどの島よ
りももっとも美しく見えました。ココナッツの木はまっすぐでした。どの家の周りにも非常に濃い緑の草
があり、そして雪のように白い砂浜がどの家の周囲にもありました。

 彼らの努力と仕事によって、持っていたもので、素晴らしい景色を作りあげたのを見ることができまし
た。

・パイポは素晴らしい仲間でした

 私たちがディエゴガルシアに上陸したとき、彼らが、コプラを積むすべての仕事を効率的にしていたの
を見て私はとても驚きました。長いコンクリートのドックは数百フィートも湾の中へ突き出ていました。
私たちの着いた船は深い水路に停められました、そして、コプラは長い埠頭から船に載せられました。

 私たちは、陸上に行き、島のマネージャに歓迎されました。私は、島のオーナーからの紹介状を差し出
しました。それから、私はゲストとしてもてなされ、いつでもお茶とクランペットが出され私はそれを欲
しいと思いました。私の指示や私のアンテナを建てるのを助けるために何人かの召使いがいました、

 両側にココナッツの木がある、非常に素晴らしい、清潔で細い歩道の終わりに私が使うためのシャック
が用意されていました。シャックの半分はココナッツで一杯でした。ある夜は、床一面に広がったココナ
ッツの上を滑ったり、スライドしたりする、かなりのトライをプレゼントされました。

 私は、レニーの古くからの友人で、WX局とその無線機のオペレーターである、パイポ、(ex VQ8CB、
現在5Z4GT)に会いました。パイポは素晴らしい仲間で、私が彼に頼んだことはなんでも笑顔でしてくれ
ました。私は、パイポはまだディエゴガルシアに居ると思います。私がそこにいた時彼は20年かそれ以
上そこにいたと思います、

 彼は、私をレニーの古い家に連れていきました、そしてレニーのオペレーティングテーブルは未だそこ
にありました。私は、キイがねじ止めされていた場所を実際に見ました。私がそこにいたとき、彼の家は、
空き家で、レニーと彼のXYL Lilletteが数年前に去って以来まるで空き家だったように見えました。
 
 レニーがモールスと無線の知識を教えてくれたとパイポは言いました。また、レニーは素晴らしい仕事
をしました、なぜならパイポは素晴らしいオペレーターで、技術者としても決して悪くありませんでした。
パイポは、私のVQ8Cでの滞在を楽しくしてくれました、そして、いつも彼はもっとも役に立ってくれま
した。

 私たちは、そこでの最初の夜、島のオーナーに会い長いおしゃべりをしました。彼の趣味は水中撮影で
した。水中にいる間、すべての必要な調整が防水の穴を通して行えるように自作した防水カメラホルダー
を、私たちに見せてくれました、

 それから、彼がチャゴス周辺の水域で写した沢山の水中映画とカラースライドを私たちに見せてくれま
した。彼のカメラワークはハリウッドさえも大いに楽しんだでしょう。私たちは、ほとんどの時間、お茶
をのみ、話しをしました;何人かの仲間は何かもっと強いものを飲みながら。そこにはコークがなかった
ので、私は、沈黙に苦しみました。

 彼らは、ケロシン燃焼のアイスボックスを持っていたので、私たちの水に入れる氷がありました。もっ
とも、水には味がありませんでした。なぜなら、井戸は海からあまり遠くなく、また、水は少々塩分の味
がしました。そこには、もう少しは良い、屋根の上からの水(雨水)もありました。インド洋のすべての
島で雨水を使います。
(注2)
     (注1)ここの文章は、抽象的な表現で、判りにくいのですが、ARRLがフォーンDXCCアワードを廃止  
         しようとしたことに関して、そのために理事にはDXサーが必要だと書いたのだろうと思います。
         ARRLは1966年1月号QSTで、フォーンDXCCを1967年1月から廃止すると発表しましたが、メン
         バーからの反対で、1966年9月号で無期延期と発表し、事実上撤回しました。(なお、再度1973年3月
         号で73年9月からの廃止を発表、73年9月号でまた、延期して、事実上撤回しています。)

    (注2)この文章は、私には難解な箇所があり、Johnに尋ねたりしたのですが、それでも良く判らないと
        ころがあります。例えば、「最初の夜、島のオーナーに会い」と書いてありますが、島のオーナーはセイシ
        ェル島にいる筈です。また、「水には味がない・原文はThe water was rather flat tasting, though.」と書
        いてある後で、水は少々塩分の味がしたと書いていますが、そのまま訳してあります。

077M020507   2007.2.4
・VQ8Cを認めない理由はありません

 アルダブラでは、いつも、雨が降った時草葺き屋根の上から貯めた雨水です。雨水は小さな水泳プール
のようなものに注がれます。時折、この小さな水泳プールの中に死んだネズミを見つけます。私がアルダ
ブラにいた時、プールから2匹が取り除かれたのを見ました。それでこの水を飲むのは一寸乱暴ですか?
さて、あなたは水を飲まなければなりません!もし、あなたが島に居て、水を飲みたくて、そして、時折
飲料水タンクの中にネズミを見つけたらどうしますか?遅かれ早かれ、あなたはそれを飲むでしょう、ハ、
ハ。

 私は、チャゴスのマネージャーが去ってしまったことを知って、今はモーリシャスに戻っていると思い
ます。もっとも、私はパイポが未だそこにいると思います。彼は、そこの仲間達のようになり、これから先、
彼がそこに居るかのように見えます。チャゴスはパイポがそこに居ないかどうか確かめないでしょう。

 私が /VQ8Cで運用を始めたとき全部のギャング達は私をQRXしていました。あらゆるQSOで、ガス
あなたはニューワンですと言われたように思いました。明らかに、年々レニーがそこにいたとき、レニー
が行ったすべてのQSOで皆のログからVQ8を拭いました。

 私が、そこにいた間、WX局がモーリシャスと毎日2回のスケジュールがあったので、VQ8Cの当局は
私を止める無限のチャンスがありました。私へのメッセージが送られてから、数分後には届けられたでし
ょう、なぜなら、私はパイポを毎日およそ10回も見ました、そして、私達のシャックは200フィート以
上も離れていませんでした。

 私は、VQ8の誰も私宛のメッセージを私に伝えたがったとは思いません。私は彼らから “そのボート
に乗りなさい、そして、VQ8Cへ行く私のチャンスを逃さないように”と言われました。私がVQ8Cに行
きたかった唯一の理由は、島からハム局を運用することであったことは誰でも知っていました。それは、
当然の結果でした。ボブ・ホワイト氏、VQ8Cからの私の運用を再考しませんか?

 近い内に、誰かがインド洋のそれぞれの島に行って、そしてそのことを聞き出すでしょう。それは、私
が大笑いする日です。それは、まさに、そこから65,000以上ものQSOを私がACスポット(ブータンな
ど)からしたことに似ているでしょう。それは、W4BPDで私が40年間のハム活動で行ったことよりは
るかに多いです。しかし、それでも、多くの人がVQ8Cへ戻るように私に求めています!!!

 誰も、彼ら全部とQSOすることはできません。どこかのスポットからすべての人と交信しても、それ
から2年過ぎたらそれは再びレアーになるでしょう。アルダブラの例を見て下さい。私は、そこに2回行
き12,000かそこらのQSOをしました、そして、まだここは沢山の要望があります。2年ごとに世界のど
この場所でも再びレアーなところです。

 ハード島が別の好例です;沢山の局がそこにいました、そして、しばらく前に、ドンが行った時のパイ
ルアップを見て下さい。私は、たった今、まだ沢山の人がハードを必要だと思います。

 その場所から、絶えず、誰かが運用しなければ、そこはレアーになるように私には思われます。彼が
去ったらすぐにそれは再びレアーです。
077M020507   2007.2.5
第15章 (2) 世界で最良のコプラ           

 さて、私のストーリーではどこにいたでしょうか。そうですチャゴスにいました、私たちは島のマネー
ジャーと夕食をとっていました、彼には個人的に雇っているとても感じのよいメイド達がいました。
 
 夕食には、5種類の違った料理法で料理された魚、数々の方法で用意されたココナッツの果肉、海亀の
肉、船から岸に運ばれた品々があり本当に宴会でした。

 私は、アルダブラからの旅で、天窓が海水で持ち上げられ、海水が私のカメラの中に入った話を始めま
した。私はそれを修理できるだろうかと彼に尋ねました。彼はカメラについてはよく判らないが、カメラ
を修理できるであろうFBな鍛冶職人がいると言いました!私は言いました、私はカメラをちらっと見て、
どのような鍛冶職人の仕事でもないように思うと彼に言いました。

 それから彼は言いました、その鍛冶職人は非常に素晴らしい鍛冶職人で、それから彼は総入れ歯を外し
て、 “ご覧その鍛冶職人が昨日したことを”と言いながら、それを戻した所を私に見せました。それは半
分に折れて、そして、まるで、その鍛冶職人が熱い半田鏝でそれを修理したようでした。

 私は、“少し”不安を持ちながら、次の日に、カメラをその鍛冶職人に持っていきました。カメラのどの
部品もなくさないように、慎重なように、私は彼と一緒にいました。カメラは本当にバラバラにされまし
た;部品で一杯のティーカップ、ねじ、ナット、ワッシャなどが全部外されました。私たちは、沢山の小
さなスプリングが完全に錆びているのが判り、島にはそれらを交換するものは何もありませんでした。そ
れから、彼はすべてをそれぞれの場所に戻し始め、そして、驚いたことに、何も残しませんでした。

 従って、この鍛冶職人は、歯科技師と同じように、非常に良いカメラの修理工でした、そうです、彼の
鍛冶職人としての能力も忘れないようにしましょう。ハ、ハ。

 翌日、前夜から豪雨だったソロモン島からの無線のメッセージを、私たちは受け取りました、それは10
時間に10インチもの雨が降りました。そんな短時間に沢山の雨が降りました。

 チャゴス諸島では、ほとんどのココナッツの木が、なぜ、そんなにまっすぐなのかと私は尋ねました。
彼らは、チャゴス諸島はサイクロンのベルトから外れていて、そして、そこの卓越風はとても変わりやす
いのだと私に説明しました。そのため、私が他のすべてのインド洋の島々で見た木々のように、それらが
永久的に傾くようなチャンスはまったくありませんでした。

 彼らのコプラ作業を訪ねて、私が世界中にあったと考えていた以上に驚くほどのココナッツを見ました。
そこの箇所の上には恒久的な屋根はない、とても大きなコンクリートの箇所がありました。しかし、古い
鉄道のレールの上を動くスライドする屋根がありました。ココナッツ果肉がコプラになるように処理され
るとき、その果肉を適正に処理するための温度を保つため、彼らは、その屋根を数時間ごとに前後にスラ
イドします。

 彼らは、チャゴス諸島でのコプラの生産は、土地の面積とその生産に使われた作業者の数では世界でも
っとも高いと私に言いました。彼らは、それが“品質管理”のもとにあるために、そのコプラは世界でも
っとも品質が良いと言いました。そうです、チャゴス緒島にはコプラがあります。

(注)米海軍ディエゴガルシアのホームページに、1960年代のコプラ工場と島のマネージャーの家などの写真が掲載されて
    いますので大変参考になります。
  
078M021007   2007.2.8
・大きく黒い謎の船

 私たちが到着する数ヶ月前に起きた何かのことについて、島のマネージャーが私に話してくれました。
ある日、コプラ労働者の一人が島のマネージャーの家に走り込んできて、何人かの“訪問者”が島の北端
に上陸したと言いました。

 マネージャーは、何人かの労働者達と一緒に“それら訪問者”を調べるためそこに行きました。かなり
の距離のところの深い海に、旗を掲げていない大きな黒い船が停泊していました。船には、まったく何の
印もありませんでした。

 彼は大きな船だったと言いました。それがおよそ300から400フィートの長さであったろうと彼は概算
しました。それらの“訪問者”、およそ10名から12名が機関銃を持って島の北端を歩き回っていました。
彼らは鳥類を研究していたと言いました。

 マネージャーは、“上陸を認める”ことを記した書類を何か彼らが持っているかと尋ねました。彼らは、
そのようなものが必要なのかと驚いたようなふりをしました。彼らはその日の午後には島から離れるだろ
うと言いました。翌日、黒い船は去りました。それが誰であったか、彼らが何を求めていたのかは、島の
マネージャーが心配する限りではいまだに謎です。

 それが誰だったか、そして彼らが何をしていたかについて私自身の考えが一寸あります。チャゴス諸島
は航空機の緊急時の着陸と離陸にはとてもFBな場所です。多分、いつかそこに空港を作るでしょう;そ
れから、VQ9から10日間の船の航海の代わりとしてVQ8Cへ行くことは本当に簡単になるでしょう。そ
こに来たコプラを船に積むまで、私はチャゴス緒島に4,5日ほど滞在しました。

 ある日、私は、彼らが一寸した“鮫狩り”と呼んでいるのに行くように誘われました。(陸にいる皆さん、
鮫を捕らえることを意味します。)

 ある日、早朝に私たちは出かけました。鮫狩りの船は、長さがおよそ55から60フィート、巾が12フ
ィートほど、そして、船倉はおよそ15フィートの深さでした。ほかに僅か3名が一緒に出ました。私た
ちは、鮫が見つかるだろうという場所を発見するまで沢山の小さな島の間を通りました。そこには鮫がい
ました;幾百をも数えるほど、あるいは多分幾千もいたと言えます。

 それは、およそ1/4インチの鋼の撚ったワイヤーで作られた2本の線で、約1ポンドの目方の一切れの
魚を刺した約5インチの長さのフックが一つ付いていました、そして、それは船外に投げられました。そ
れが水面を打った瞬間に、10から12フィートほどの長さの鮫がフックを噛みました!皆さん、楽しみが
始まりました。

 ポールを持った、(一つだけフックがある)二人の仲間が鮫をとらえ船の中に持ち上げましたー本当に男
の仕事。彼らは鮫を船倉の中に落とし、そして船倉の中のほかの仲間が両刃の大きな斧を持っていました。
彼は何かどなり、ケネディーと言い、まさに鮫の頭をぶったたきました。彼と船倉の中全体に血が飛び散
りました。

・ディエゴガルシアを後にします


 鮫は、ばたつくのを止め、その大きなフック付きの線は再びボートの側面を越えて投げられました。今
度は、フックには何の餌も付けずに船外へ投げられました・知って欲しいのです、ただフックだけ!別の
鮫がその餌のないフックに噛みつき、引き上げられ船倉に投げられました。両刃の斧を持った仲間は鮫の
頭に振り上げ、そして血しぶきが飛びました。再び、彼は現地の言葉でメッセージを怒鳴りました、今回、
私は、彼のメッセージのまん中頃で言った、ルムンバの名前を聞きました。私は、彼の言ったそれは何で
すかと聞きました、彼は答えました。彼はいつも、世界的に知られている人の名前のメッセージを持って
いて“ここにルムンバさん、あなたのための一匹がここにある”と言いました。

 ボートが鮫で一杯になるまで、およそ4時間から5時間続きました。彼らはその時間の間に253匹の鮫
を捕まえました。私は、5トンくらいと思います。時には、彼らは鮫をボートに引き上げるのに一寸時間
がかかりました、それは、普通半分の鮫でした。それらの鮫は劣った動物で、ちゅうちょせずに、争いの
中にいるほかの鮫を引きつけたでしょう。食うか食われるかの弱肉強食の状況で、これは鮫が鮫を食うと
言うことです。
(注)

 これらの鮫は岸に上げられ、きれいにされ、乾かされ、そして塩で保存されます;そして、それから、
アフリカへ出荷されて現地の人に販売されるためマヘに出荷されました。現地の人は、普通この乾燥した
肉を料理しないで食べると聞きました。それは、アメリカでも食べるのを見るような乾燥ニシンのような
ものだと思います。

 船倉の中の、そのかわいそうな仲間はいわば血塗れの仲間でした。彼は、頭から足まで完全に魚臭い血
の臭いにまみれて、そして船倉の中もそうでした。彼らが、船からその血を取り除いたことがあるか、私
は知りません。

 アーそうだ、いつもそれらの島では何かが起きます。それは一つのことでないなら、それはほかの何か
です。そして、それらのココナッツの木から得られるものがあります。それは、一種の白い、ミルクのよ
うな分泌液で、そして、何日か置いた後で彼らがそれを飲むとき“グット来るくる”と言います。

 さて、ある島の、ある仲間達は、いくらかのココナッツの木から、この飲み物を少しこっそりと盗み、、
仲間達は楽しみます。私は、強い飲み物が見つけられないようなどんな場所にも行ってません。彼らは、
いつも、必ず、何か飲み物を見つけます。私は、それがコカコーラだったらと願います!ハ、ハ。

 ディエゴガルシア島でのとてもFBな滞在のあと、私たちは船に乗り、ソロモン島、チャゴス群島グル
ープの別の島、へ出発しました。この島は、ディエゴガルシアから50から75マイルほど離れています。

 私たちは、そこで、ソロモン島のマネージャーに会い、彼の家の夕食に招待されました。彼には、とて
も魅力的で、絵を描くのが趣味の妻がいました。彼女は、島に非常に多くの絵画を持っていたと言いまし
ょう。その中の幾つかは、芸術家達の展示で賞賛を得たのを私は確信しています。信じるかどうか、彼ら
は実際にコカコーラを持っていました。それらはおよそ10年はおいてあったと思います。それが開けら
れたとき、プシュという音はしませんでした。それは、まったく味がありませんでした。

(注)原文には「食うか食われるか、弱肉強食」の意味の熟語「dog eat dog」を使っていますのて、dogではなく鮫に置き換えて
    「shark eat shark」と書いたと思います。
078M021007   2007.2.10
前のページへ戻る                  次のページへ進む
       

 アマチュア目次へ戻る