W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その20)   アマチュア目次へ戻る
   第10章 (1) アイスランドで立ち往生              前の頁へ
 
 この章は、私がアイスランドにいる間に書かれています。どの様にして私がアイスランドを終わったのか、
少ない言葉に凝縮すると、こうです。私は、スコットランド、グラスゴーをフェロー諸島に向かって出発し
ました、そして、いつものように、世界のこの場所では、霧が深く、雨で、冷たく、風が強く、そしてもっ
とも不愉快な天気の状態でした。私たちは、午前10:30頃出発しました。午後1:30頃、私たちはフェロー諸
島の上空にいました、そして天候は更に悪くなりました。DC-3機はフェロー諸島に着陸できないので、私
たちはアイスランドに行こうとしていて、多分、次の日にフェロー諸島に戻るだろうと伝えられました。

 それは“3日前”のことでした、そして、フェロー諸島の天候が良くなるのを待って、私たちは未だここ
アイスランドで立ち往生していました。昨日、私はレイキャビックの周辺のどこかの景色を見るツアーに出
かけました。それは、とても短時間のツアーでした、しかし、私はこの周辺の幾つかの温泉を見ました。私
が訪れた多くの場所で、地面を通って蒸気が上ってきました。私は、一つの間欠泉の中の下に石鹸を置くこ
とで、爆発するのを見ました。それは、150フィートも噴出しました。

 蒸気と水がすべて混じって噴出し、それは何というにおい!それは、まさしく腐った卵のようなにおいで
した。それらの蒸気の穴の一つを捉えたこの場所から、この蒸気はレイキャビックまでおよそ15マイルを
運ばれると言います。それは、市内の全ての家々を暖房します。私は、これはあなた方の家を暖房するため
に世界で一番安上がりな市だと思います。

 これら蒸気の噴出口があるところには、何でも育てている沢山の温室があります。私は、幾つかのバナナ
の木が生えているのを見ました、そして、その木の一つには素晴らしいバナナの一房がありました。あなた
は、アイスランドでバナナが成長しているのを想像できますか?他の多くの野菜、トマト、キュウリ、メロ
ンなどもまた、それらの温室で販売用に栽培されています。

 私は、誰かハムを見つけるために、ビームアンテナのようなものを探しに探しました、しかし、これまで
のところ、私はどこにもハムのアンテナらしきものは何も見ませんでした。私は、全てのハムはどこにいる
のだろうかと思います、アイスランドのハム達はビームやクワッドを使わないのだと推測します。

 もし、彼らがそうなら、人々が殆ど行かないところのどこかに彼らが居るに違いありません。私は、沢山
の景色を見るために、あえてはホテルから遠くへは行きませんでした、というのは、アイスランド航空から、
フェロー諸島へ行くために空港へ来るようにと、ほぼいつでも電話がかかるかも知れなかったので。飛行許
可のため待機している3日間、フェロー諸島の周辺はひどい天気に違いないでしょう。ここの天気は、あな
たが部屋の中から外を見たとき、大変良いように見えます、しかし、外は、私にとって明らかに寒いです。
毎朝、正午までは、水晶のようにクリアーです、それから曇り始め、風が吹き始め、午後には、外は大変心
地悪くなります。

 私は、全ての無線機を持っていました、そして、理由は有りませんが(注1)、私は外部にアンテナを上げ、
一寸電波を出したり(ライセンスなしで)、あるいは故郷を呼びたいと。しかし、それをしないのがもっとも良
いと考えました。 私の足の下の草が育つような、何もしないこと?私はそれは好きではありません。私は
行きたいのです。私は、明日、間違いなくフェロー諸島に出発できると願っています。

・高いコーヒー

 先週、私はジュネーブの4U1ITUの年間ミーティングに居ました。今回、それは素晴らしかったです。私
は、Stuにそこで会い、将来の計画を十分離しました。私たちは、将来の素晴らしい計画を持っていました?
それは間違いなく成就すると願っています、K2HLB。しかし、ジュネーブのギャング達には素晴らしいカ
クテルパーティーでした。近くには素晴らしい話し手が居ました、そして幾つかの非常に興味のあることが
話されました。Bill Orr、W6SAIは、彼の衛星通信の話で、皆の注目を集めました。
(ヒント:あなた方は、きたるべきものごと、衛星による通信のビジネスについて、学ぶことを始めるのが
良いです、そして、私は、そのうちに、それ程遠くない未来に、衛星によるQSOのDXCCが始まるだろう
と思います。)多分WAC そしてWASもまた?成り行きを待ちましょう。寝ている人達、くすくす笑わない
で下さい。最後に笑う人は、もっとも大声で笑います。ハ!

 私は一寸した、誇張したDXpeditionの話しさえしました。そこで、確実に何人かのFBな人達に会って、
来年はペギーと私は会合に出席できるのを望みました。それは、9月ではなく8月にあるでしょう。毎晩の
会合の後のホテルの部屋での幾つかのミーティングは非常にFBでした。

 ここレイキャビックの私のホテルの部屋の外を見て、私は、どの建物も殆ど真新しいように見えることに
気づきました。ここでは物事は本当に素晴らしく、しかし、私が泊まっているここSaga ホテルで、ほんの
数分前、私は一杯のコーヒーを頼みました。私は、それがおよそ52セントだと知りました。皆さん、ニュ
ーヨークのウォルドルフアストリアホテルのコーヒーはそんなに高くありません。もし、ここへ来るなら、
沢山のお金を持って来て下さい、それは、アイスランドではものがどうかのこれがサンプルかもしれなく、
それはひどく高いでしょう。、

 さて、私のストーリーに戻るときです。私は、ナイロビからダラッサラームにバス旅行をしたと言いま
した:それはアフリカのバスによってでした。私は、この全ての旅で、ただ一人の白人(注2)でした。旅
は、非常に安く、およそ$6.00ほどでした。旅は、二日と一晩でした。

 3名の運転手が疲れてしまいました(注3)、私は、バス、運転手、あるいは乗客:誰がもっとも悪かった
か決して決めることができませんでした。現地の人達は、皆、道ばたで乗りました。運転手は Kikuesでし
た。(このスペルは正しくない)乗客の多くは、マサイ族でした。(このスペルも正しくない)さて、彼らマサイ
族は、普通、非常に長い、非常に危なそうに見える、槍を持っていました。バスの運転手は、これらの槍
をバスのフロント、運転手の横に置くように要求しました。

 マサイ族の戦士達は後に座りましたか?彼らは、彼らの武器から離されました。私は運転手に、なぜ彼が
彼らの槍をフロントに置かせたのかと尋ねました、そして、彼は“さて、あなたは、彼ら仲間が何をするか
決して判りません!”とただ言いました。ハ、ハ、ハ.

 私が、バスの切符を売っている事務所に行ったとき、それは大変面白いことでした。私は一等の切符か二
等の切符が欲しいかと聞かれました。私は、数秒間考えた後で一等と言いました。その切符は100%、より
高かったです。私は、切符を売っている人に、私は二等の切符を買わなければならない、それから、バスが
市の外にでたときに、バスの運転手に数シリングを渡しなさいと言われました。

(注1) 原文は「and for two cents」で、Johnに意味を尋ねたところ「特別な理由なしになにかをすること」だそうです。
(注2) 原文は「pale face」 で、辞書によると、これは北米インディアンに対して、やや軽蔑的に白人を表現しているそうです。
(注3) 原文は「used up」で、Johnによると「疲れて、運転できない」状態を意味しているそうです。
046M090506   2006.9.7
第10章 (2) ファーストクラスで行く    

 バスの運転手は、私にバスのファーストクラスのところへ来るように言うでしょう、それで私は6ドルを
節約するでしょう。このような話は私の得意なところで、そこで私は2等の切符を下さいと言いました。バ
スが出発する時間になったとき、私は現地の人達と一緒に、2等の場所であるバスの後部に乗り込みました。
その人達のにおいは強かったのですが、私は我慢しなければならないでしょう。これは突然の差別廃止でし
た。
 バスの運転手は私を見て、ファーストクラスの場所に来るように私に言いました、そして、私は、彼に“2
等の切符”を見せました。“よろしい、これについては後で処理しましょう。”と彼は言いました。
そこで、私は前の方に行って、ダラッサラームへ行くまでの間中2つの前方の座席を占有しました。

 これは、非常に変則的なバスの乗り方でした。運転手は、私が止めて欲しかったら、彼はいつでもバスを
止めるでしょう、そして私は写真を撮ることができました。誰かが“行かねばならなかったなら”彼らはた
だ叫び、そしてバスの運転手はバスを止め、そして彼らはブッシュの中には行きませんでした:彼らはバス
のドアから下りて、そして、皆の目の前のそこで“すませました”。彼らは少しも“恥ずかしがりません”。
 私は強くアドバイスします、アフリカに行くなら、誰でも、そのようなアフリカのバス旅行をするように。
それは、非常に教育的です。

 ナイロビを後にして、長距離のあいだ、道ばたで乗客を降ろしたり乗せたりするために、バスは止まり始
めました。バスに乗った現地の女性達の多くは、彼女らの腰から上には何も着けていませんでした。これを
最初に見たときには、勿論、私は彼女らの様子を“観察”しました。あなたは、回りで、動いたり、見せた
りする物事を自然に見ます。しかし、最初の数時間を過ぎると、あなたは、それらの光景に慣れます、そし
て、あなたは、もうそれらに注意を払いません。

 あるW6の局が、サンフランシスコの辺りでは、昨夏、水着が着られていたと私に言いました。さて、私
は推測します、最初の数週間、あなたは体中“目”になるでしょう、そして、しばらくして、あなたはもう
それ程気にしなくなるでしょう。

 私は、バスの運転手に停めるように合図しました。私はブッシュの方に向かいました、そして、運転手は
“ノー、ノー、旦那、ブッシュにはライオンが。”さて、それから、私は、皆がしていたように“現地の人に
なりました”。すぐ、あなたは、もう“恥ずかしがらない”ようになります。

 道に沿って、沢山の野生動物が見られました。前に、3頭の大きな象が道路にいました。バスは止まりま
した、そして、私たちは、象たちが道路からQSYの用意をするまで、待ちました。他の時、一匹の非常に
大きなヒヒがバスのフードに飛び乗りました、そして、運転手は全員に窓を閉めさせました。彼は、大きな
ベルの鳴る、ホーンを鳴らし始め、急ブレーキをかけました。それから、バスをバックさせました、しかし、
このヒヒは掴まって、バスから揺り落ちないようにしました。バスの運転手は、“OK、おまえは私たちと一
緒にダラッサラームへ行きましょう”!と言いました。バスのフードにヒヒを乗せたまま、私たちは行きま
した。

 およそ2時間、ヒヒはそこに乗っていました、そして、私たちが別のバスと出会ったとき、ヒヒは私たち
のバスから別のバスのフードに飛び移りました。私は、ヒヒが飛び乗ったそのスタート地点にヒヒが戻った
と推測します。彼は本当にプロフェッショナルなヒッチハイカーでした。

・沢山の猿と動物

 猿、猿についての話し。ある朝、日の出の一寸あと、私たちは、木々とブッシュが非常に茂っている、ジ
ャングルの中を進んでいました、そして、私は、ものすごいく、ひどい、悲鳴のような、ぶつぶつと言うよ
うなのを聞きました。それは大混乱に陥った
(注1)ように聞こえ、ここにやってきました:何千も、何千もの
猿たち。猿たちは道路を横切っていました、何匹かは木々の枝から枝へ、はねたり跳んだりして。小さな
猿は母猿の背中に、大きな猿、小さな猿、全ての色の猿、それらの全部が金切り声で疾走し、道路を
横切っていました。

 バスは、猿のパレードが道路を横切って流れている間、およそ5分以上も止まっていました。オー、そう
です、アフリカには猿がいます、それについてはからかわせないで下さい。私たちは、また、沢山のライオ
ン、殆どが夜、何匹かの豹、沢山の、沢山のハイエナ、そして、シマウマの群、付け加えて沢山の違った種
類のカモシカと鹿。

 それは素晴らしい旅行でした、そしていつか、物事が一寸落ち着いたら、私がこの旅行を再びしたいと思
います。私は敬意を持って扱われ、そして、ただ一回を除いては苦労しませんでした。バスは休憩のために
小さな茶店で止まりました、そして私は一杯のお茶を飲みました。(コークの方がもっと良かったが!)
私はバスに戻り、席に座り、バスの回りに群がっている現地の人達を見ていました。

 それらマサイ族の部族民達は赤い粘土で全身を塗っていました、髪の毛ですらそれで染めていました。
私は、彼らが決して風呂に入らないのを知りました!それは、彼らがあなたに少し近寄りすぎると、事態は
少しにおいがします。さて、部族の老婦人の一人が、バスの私の窓の下にきて、そして“寄付”のために彼
女の手を差し出しました。私が持っていた、唯一のものは、固くゆでた袋一杯の卵だけでした。私は、一つ
を彼女に差し出しました、そして彼女はそれを見て、そして、本当にすぐ、それを地面に落として、そして
粉々にして、そして私に、本当に“意地悪”なトーンで言いました、“私、マサイは、卵を食べない、シリン
グが欲しい”。

 かなりの大騒ぎが起きました、そして、私はそれらから幾つかの意地悪な表情を見ました。それから、バ
スの運転手は人々を一緒に集め、そして、私たちはそこから素早くQSYしました。沢山の、ローカルQRM
が私たちの周波数の近くに有りました。
(注2)私は、“どうぞQSY アップ5kcあるいはダウン5kc”のよ
うに言いましたが、彼らは私が知っている言葉ではなく、違う言葉を使っていたように思えました。あなた
が、誰かに何かをあげようとしてさえも、トラブルに会うかも知れません。

 私たちがジャングルを通ってドライブしている間に、金属の基礎に直径がおよそ2フィートの大きな丸い
もので、アイスコカコーラと読めた素晴らしく大きなコカコーラの看板を見ました。私は、バスの運転手に
すぐ言いました、“バスを停めて”!(あなたは、私の回りにコークがあるときの私を知っているでしょう!)

 私は、コークを売っている現地の人のところに急いで行って、コークの看板を指して“私はその一つが欲
しい”と言いました。彼は地面に置かれた、“単に普通の水”、水が一杯のバケツの中に手を入れ、そして、
コークを出しました。彼は、それを開け私に手渡しました。それは湿ったコークで、しかしアイスの冷たい
コークでは有りませんでした。
私たちは旅を続けました、そして停車の時間になると、バスの運転手は私を除いて、全ての乗客を外に出し、
私を・・・・(この部分はGusの原文が読めない.....John)・・ほかの人を乗せてから、来て、私を乗せます。
注1・原文は、「all of H had broke loose」とあり、ただ「H」と書いてあるだけです。(大混乱に陥ったの意味があります)
   Johnの説明によると、1960年頃は、「Hell」の単語を書くのは下品だとして、あまり書かれなかったそうです。
注2・バスの回りにいる沢山の現地の人達の状況を説明するため、このようなパイルアップの表現を使ったのだろうと
   思います。
 047M091006    2006.9.14
第10章 (3) 象牙の彫刻

 私がバスのファーストクラスに移ったために、私が運転手に払うはずの別の数シリングを、私は
全く支払っていないと考えています。

 これは非常に教育的な旅行でした。私たちは、まさにキリマンジェロ山の近くを通りました、そし
て、アフリカの真ん中で、氷と雪に覆われている大きな山を見るのは本当に驚きでした。内気な
(注1)あなた方の誰のためにも。私は、この旅行をすることをあなたに大いに薦めます、なぜなら、
この旅行があなたを強くするでしょう。それは、サウスカロライナからワシントンへのグレイハウン
ドバス旅行とは全く違います!

 ダラッサラームに着くとそこには税関がありました、そして、そこでVQ3PBD(Peter Dobbs)に
会いました、そして彼が“彼は私の友人です”と言ったのがすべてで、そして、そこでのことはそれ
が全部でした。ピーターは私を市の郊外にある彼の家に連れていき、彼の奥さんと家族に会いました。
素晴らしい家で、私のために美味しい料理が準備されていました。ピーターは、私を町に連れて行っ
てくれ、すべての興味のある場所を見せてくれました。

 私はVQ3PBDで運用し、米国の何人かの仲間と素晴らしいQSOをしました。ピーターの家に数
日間滞在し、ザンジバルへ出発する時が来ました。ダラッサラームの若いハムがライセンスの件でザ
ンジバルの人と連絡をとりました。

 ダラッサラームからザンジバルへの飛行は30分もかからず、そこに私たちが着いたとき、税関の
人が来ました。私が彼に言ったすべては“私はPeter Dobbsの友人です”で、それは“ひらけゴマ”
(注2)の呪文のようでした、そして、全く税関の検査はありませんでした。Peter Dobbsはタンガ
ニカの税関のトップの人でした、そして、ザンジバルの税関の人にさえ、明らかに良く知られていま
した。このごろは、ザンジバルでも物事はそんなに簡単ではないと思います。

 私たちは、無線監督官のところに行って、すぐにライセンスが発行されました。私はVQ1Aを、ダ
ラッサラームの若い人にはVQ1Bを貰いました。私たちは小さなホテルに行き、アンテナを上げ、数
分の間に電波を出しました。

 コンディションはかなり良く、10mでさえ、何回かは米国に開けました。一週間ちょっとの運用で、
4、5千のQSOができました。VQ1Bは僅か一回の週末だけの滞在で彼は出発し、私は残りの週も
滞在しました。

 私は、市の全部を歩きました、そして、それは全部が非常に小さなジグザグの道で、何とパズルの
ようなところでした。とても沢山の、小さな店とバザールを訪ねました、非常に安い値段で幾つかの
骨董品を買いました。

 私は、象牙の彫刻を作っている沢山の工房、それらの幾つかは、全部が象牙からできている、象の
連なった長い彫刻を作るのに何ヶ月もかかるようなところを訪ねました。それらの幾つかは、前の象
のしっぽを持って、それぞれが一列に象が並んで彫られている、5フィートか6フィートの長さがあ
りました。それらは、私のポケットのお金ではとても足りず、しかし、とても簡単な工具を使ってい
るのを見ることは非常に興味がありました。殆どは、小さなハンマー、小さな幾つかの鑿、一つか二
つのヤスリ、古い弓鋸の刃、何枚かの紙ヤスリだけ。それは、とてもゆっくりした工程で、着実な腕
が必要でした。

 一回のミスが、彫刻を台無しにします。しかし、彼らはミスをしません。

・キリマンジャロ山

 マスカット、アデン、サウディアラビアなどへ運ぶための貨物を積み込むために投錨中の沢山のア
ラブ帆船を見ました。私が前に言ったように、それらの帆船は、南東季節風が始まるまで待機してい
ます、そして、それから、はるばる風下の彼らの目的地である東アフリカの沿岸に行くでしょう。そ
れらは非常に頑丈そうに、また、乗組員達は更に頑健そうに見えました。

 色々な店に寄り、そして彼らと交渉し、無料のアラビアンコーヒーを手に入れるのは、大変興味が
ありました。
 ザンジバルへの旅行は、私がそのあたりに行ったところではもっとも興味のあった一つの場所でし
た。出発の時が来ました、アンテナを下ろし、ダラッサラームへ向かい空港に行きました。(彼らは、
そこを、ただ“ダラ”と呼びます。)

 Peter Dobbsが空港で私に会い、その夜は彼と彼の家族と過ごし、次の日の朝早く、私は再び、ア
フリカのバスでナイロビへの道中でした。私は、本当に自業自得だったと思います。帰りの旅行は前
の旅と殆ど同様でした:同じような様々な動物、人々、同じように腰から下だけを覆ったドレスの人
達。

 雪と氷に覆われた、キリマンジェロ山。それは、ダラッサラームから数マイルのところから、ナイ
ロビの近くまでの途中殆どで見えました。それは安っぽい山ではありません。それは途方もなく大き
く、とても遠くから見えます。そのころ、私は、Frank Lucas(W3CRA)、Al Hix、Earl Lucas、
Howard WolfeとWayne Green(W2NSD)に、私と一緒にその山に登ろうと望みます。私は、私たち
と一緒にそこでWayne Greenが、“皆さん、なんて素晴らしいDX QTHだろう”と言うのを想像す
ることができます。

 ナイロビに戻り、私が全部の物を集めて、多くを再梱包していた間の数日をVQ4AQ、George Dent
と過ごしました。

 それから、私は、はるかソマリランドのモガディシュへ行きました、そしていつものように税関と
の戦争が始まりました。彼らは、私の無線機を私に持たせませんでした。私は、無線監督官のところ
に行って、私のささやかなストーリー“電波伝搬研究やその他のことを”を話しました。彼は、税関
へのメモをくれ、それから全く問題なく無線機が私に渡され、それからモガディシュのもっとも高級
なホテルに行き、私は“とても小さいアンテナを屋上に”設置しなければならないとマネージャーに
説明して。

 その頃、私が持っていたもの全部は、水平アンテナで、そして私はその高級ホテルの屋上に立てる
何本かのポールが必要でした。私は材木置き場のようなところに行って、およそ40フィートの長い
良いポールを買いました、そしてこれらは“大きくて”曲がったポールでした。それらを屋上に持っ
て行くには、その高級ホテルのロビーを通るのが必要でした。私たちがその大きな汚いポールを、壁
から壁への高級な絨毯の上を引きずりながら通り、そして幾つかの大きな水晶のシャンデリアを壊し
そうにして、ロビーを歩いたとき、かなりの騒ぎが起きました。

 幸いにも、ホテルのマネージャーは英語を話せませんでした。彼はイタリア人でした。彼が何かを
言おうとしていた間に、彼が手を振っていて、立派な人々
(注3)が見ている間に私たちは通ってい
ました。
 さて、混乱の中、私たちはラウンジを通ってポールを手に入れ、それから、ポールを屋上まで上げ
なければなりませんでした。それにはおよそ7階にあるエレベーターシャフトの回りを曲がりくねっ
て通らねばなりませんでした。


1DM注・このGusの原稿を和訳するため、必要にせまられて、「英和イディオム辞典」を買いました。この辞典は
     1835頁もあり、1ページに5〜10語掲載されています。従って、少なくとも1万語以上のイディオムが
     含まれていることになります!これからは、Johnに尋ねるのと、この辞典で調べることにします。
     今後、イディオム辞典と注釈してある場合はこの辞典のことです。
     なお、その他に私が使っている辞書も記載しておきます。
  *「英和イディオム完全対訳辞典」ジャン・マケーレブ、岩垣守彦編著・朝日出版社2003年3月刊

   
*「英和中辞典」旺文社1975年11月発行
    *「新英和中辞典」研究社1992年発行
    *「Oxford Student's Dictionary」 Oxford University Press 2003年発行

注1・原文は「chicken hearted」で、直接の意味は見つからなかったのですが、イディオム辞典には「become
   chicken、be chickenがびくびくする、小心だ」とあり、Johnに聞いても同様でしたので、内気としました。
注2・原文は「open sesame」で、イディオム辞典には「(希望をかなえてくれる」決定的な武器」、また「Open
   sesameは開けゴマ」の呪文だそうです。
注3・原文は「long hair people」で、これは、辞書によると、古典音楽愛好家、古典的な人、あるいは知識人
   (やや軽蔑で)の意味があるそうです。
048M091506  2006.9.18
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