W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その12)   アマチュア目次へ戻る
第 7 章 (1) ヨーロッパを訪ねて
 
 この前の章では、私がチェッコの税関を私の赤い大きな星のバッジ、あるいは幸先の良い日か、あるいは
私のいつもの馬鹿な表情の助けを借りてチェッコの税関を無事通過しました。私は、何人かの友人に会うた
めにドイツのミュンヘンへ行く途中でした。平穏無事な列車の旅のあと、(少なくとも、それはドイツへ入っ
たあと何事もなく)列車は真夜中を30分過ぎて、大きな列車の駅、ミュンヘンに着きました。私はいろい
ろなホテルを訪ねましたが、部屋を取れないことが判りました。国際的なカトリックの大会が開かれていて、
すべてのホテルが満室でした。

 さて、このとんでもない時間に、知らない都市で、冷え込んだ夜にあなたならどうしますか?私は列車の
駅に戻り、チケット窓口に行き、ウイーンへの2等の切符を下さいと言いました。それは、ウイーンのあと、
ユーゴスラビアのザグレブ、ブルガリアのソフィア、ルーマニアのブカレスト、ハンガリーのブダペスト、
ポーランドのワルシャワ、デンマークのコペンハーゲンとドイツのハンブルグからフランクフルトに戻り、
ルクセンブルグへでした。それから、パリ、ピレネーのアンドラ、リスボン、マドリッド、バルセロナ、ジ
ブラルタル、バレアリック諸島、そしてマルセイユ、そしてDL3JJ、ハンスを訪ねるためにドイツの
Viernheimへでした。

 私はホテルが満室だったミュンヘンを出発してから、これまで、ただの旅行者でした。私は、ミュンヘン
とViernheimの間のそれらの国々で訪ねる人は一人もありませんでした。私は、まだ私の無線機を受け取っ
ていませんでした。これらのヨーロッパの旅行は列車とバスの旅でした。費用は非常に安く、それぞれに数
日だけ、これらの場所を観光し、私は素晴らしい時間を過ごしました。私の旅行のこの部分では、決まった
日程はありませんでした。私は、次ぎに移動するときだと考えるまで、それぞれの場所に滞在しました。と
ころで、もしあなたに時間があるなら、そして、きつい日程にそって急ぐのでなければ、これは最良の方法
です。

 私は、Viernheimと思ったところで列車を降りました、あとで判ったのですが、Viernで始まるスペルの
でなく、そこは別の heim でした。正直に言って、私は、列車の車掌に名前を正確には発音せず、そして彼
は、私が思った、私が発音したような、ある町で私を列車から降ろしました。今、ここはおよそ午前5時で
した。誰も列車の駅には居ませんでした、そして、私はこの小さなドイツの町の道路で考えました。その時、
ほんの僅かな人々が道路に居ました。

 私は警官に、どのようにDL3JJの家を見つけるかを尋ねました、そして彼は英語を全く話しませんでし
た。私は、道路で、何人もの他の人達に尋ねました、そして、誰も英語が話せませんでした。遂に、およそ
午前8時頃、私は給油所に立ち寄り、そして、どちらにしろ、彼は英語を話せませんでした、しかし、彼と
話をしようとベストをつくしてトライしていた間に、全く、何も成功しないとき、トラックが給油のために
止まり、この運転手はかなりの英語を話しました。彼はDL3JJの場所へ連れていくとさえ申し出ました、
それは彼の行程からおよそ20マイルも離れていました。

・遂に、無線機がフランスへの道程に

はたして、私が彼の家に着きましたがハンスは仕事で家に居ませんでした。しかし、彼のために働いている、
SU1MS、マフムードを見つけ、彼は私を歓迎し、近くの小さな、非常にこぎれいなドイツのホテルへ連れ
ていってくれ、チェックインしてくれ、私のホテル代さえも払いました。マフムードは電話番号のメモをく
れました。番号はアラビア語で書かれていました。彼は、私に、エジプトのカイロに着いたら、この番号に
電話するように、そして私は丁寧に世話をされるだろうと言いました。

 ハンスは、今までに見た中では非常に素晴らしい性能の測定設備を組立ました。彼らのFCCのための方
向測定ユニットは、私がそこに居たときに彼が作ったものでした、非常に美しい部品の素晴らしい装置。

 マフムードは、彼がカイロでSU1MSを運用していたとき、私がCWで彼と交信したとき、私が想像してい
た通りの、素晴らしい友人でした。私がCWでQSOした誰でも、普通想像する期待したような友人のタイプ
だったことを知りました。私は、出現する人達をどの様に想像するかが判ると言うことはできません。これ
は殆どいつもあなたを誤らせるでしょう。

 マフムードと大変楽しい数日間を過ごしたあと、ハンスの素晴らしい母に会い、また、ハンスのために働
いているYUのやつと会い、私はDJ2PJ、ハディーを訪ねるためにNienburgへ出発しました。Nienburg
は、殆どの誰もが皆を知っている、典型的なドイツの小さな町であることを私は知りました。
ハディーをとおしてそこで会った、全部の人達は最高に好意的でした。

 彼らは、ドイツビールを薦めてくれました。(そして私は言われました、もっと良いビールは世界中にほか
にないことを、私はアルコールを含んだどんなものも100%飲まないので、私は丁重に断りました)それか
ら、私達は、たいていおいしいドイツコーヒーを飲み、時にはコカコーラに出会いました。

 ハディーは素晴らしい英語を話しました。私は、彼が英語を学校で教えていることを知りました。彼の両
親は大変好意的で、私に親切でした。彼の家に滞在し、彼の局を少し運用しました。ハディーと彼の家族と
もっとも楽しい週を過ごしたあと、仲間のガス、DL6ZZと彼の素晴らしいXYL、ヘレンとの短い会合をす
るために再び列車でハンブルグへ出発しました。

 アムステルダム空港からの電話で、私の無線機が到着し、私にピックアップされるのを待っていることを
知らされました。列車でアムステルダムに行きました。到着して、私はすぐに空港へのタクシーを拾い、何
も問題なく私の無線機を見つけました。そうです、無線機を見つけるのは何も問題がありませんでした、し
かし、それを私の手にすることは大変でした。実際、彼らはそれを私に渡さないだろうのようにさえ言いま
した。

 私はモナコに行く途中で、そこは私が無線機を使いたい場所であると言おうとしました。彼はFBと言い、
彼らはそれを、そこの場所のあなたへ、航空貨物便で送るのを望んでいると。私は、それを列車で送りたい
がと尋ねました。しかし、彼らがそれを列車で送る費用を私に言ったとき、私はびっくりしました。付加さ
れた、すべての種類の料金、次のような、空港取扱料、アムステルダムと列車の駅への輸送料がありました。
列車の料金、フランスでの積み下ろし料、列車やその他の料金。結局、航空便はそれ程高くはありませんで
した。それは航空便で送られました。
 
027M060106   2006.6.3
第7章 (2) 軽装旅行

 あなたと一緒に、超過手荷物として運ぶ代わりに、荷物を別途出荷するための運賃と多くの問題について
少し。勿論、超過手荷物は更に費用がかかります、しかし、荷物を別に送るときにあなたが出くわすいろい
ろな問題と困難を熟考した後に、追加の航空運賃を払ってこれらのすべての問題を省くのは、はるかに良
い考えです。そして、あなたが到着したとき、無線機がそこにないと言う問題に直面しません。

 あなたが荷物を一緒に持っているとき、税関は殆ど問題がありません。原則として、空港の税関はあなた
が通ることになっていて、あなたを通らせるのと同様に非常に急いでいます。一般に、税関は空港に荷物を
保管する場所を持っていません、そしてこのようなことは、あなたが空港を離れるとき、あなたと一緒に無
線機を持って行くことを望んでます。従って、私はいつも追加費用を払っても超過手荷物を使うように言い、
多くの問題を取り除きます。

 勿論、あらゆるものをオンス単位で切りつめます、なぜならそれらは結局ドルを使うので。私が初めの頃
にしたように、外国旅行をする殆どの人が非常に沢山の衣服を持つことを私は知っています。
旅行のどこかで、座って、世界中を持ち歩いたこの大量の衣服について、良く考えてこれをぎりぎりまで切
りつめるつもりだと私は決めました。

 私は、次のものを除いて、手元に持っていたもの全部を家に送り返しました。3着のアンダーシャツ、パ
ンツ、シャツ、ズボン、一足の靴、3足の靴下、1着のセーター、1着のスーツとこれとお揃いのズボン。
それで、あなたはこれらを全部小さな航空旅行鞄に入れることができます。たった今、私は衣服を2着の代
えだけに削りさえしました。

 あなたが持っているすべてのものが、あなたが買うことのできる中でベストのもので、そして、濡れたま
ま干します。毎晩、あなたの衣服を洗濯し、それをバスタブ(もしあれば)の上につるして、そして翌日、
あなたは再び2着の代えがあります。勿論、寒いところに行くようなら、何枚かのより暖かい衣服を持たな
ければなりません。
 結局、それは実際にはるかに安い、ぎりぎりの必要なものだけを運ぶのは、旅の途中で必要なものを買う、
これがすべて、勿論、もしあなたが超過手荷物料金を払うならば。あなたが衣服を洗うことができない所、
インド洋のまん中の36フィートの帆船の上でさえ、私は、決してそうではありませんでした。覚えていて
下さい、あなたは衣服を洗うことができます。(私は、家では決してしたことがありません、しかし私は本当
にすぐ習いました!)

・私のストーリーに戻ります

 さて、私の無線機をアムステルダム空港から出荷したあと、私は再び列車に乗り、ゆっくりオランダを通
り、ベルギー、フランス、マルセイユへ旅をしました。私は、列車の人達、特に列車が空いていて各コンパ
ートメントに二人しか居ないときには“本当に好意的”だったことを知りました。

・マルセイユからモナコへ

 私はLenyが到着するまでそこで3日か4日待ちました。(彼はVQ4GT、元はVQ8CB、VQ8AB)彼の
XYL−Lilletteと娘のGertieが着きました。

 それは並はずれた経験でした。私は海岸のどこかの場所、そこの人達皆が、そこのすべてのワインを飲ん
でいるのを見ながらぶらつきました、そして私は今までに見たことのない、とても普通ではない踊りを見ま
した。彼らは、それを“アパッチ”と呼びそれは本当に荒っぽいものです。彼らは少女を投げ落とし、彼女
の髪を引き上げ、彼女の顔をぴしゃりと打ち、そしてまた彼女のほかの場所を打ち、そして、そのような、
ほかの沢山の乱暴な行為を。しかし、彼女はそれが好きであるように思え、そして彼女はもっと続けます。

 消防車のサイレンは、高いピッチの雌鶏の鳴き声のような、とても独特の音です。音は非常に大きくそし
て早く、いくぶんは雌鶏の金切り声とあなたは言うかもしれません。パトカーのサイレンの音は、同じよう
に、しかし同時に何か違って、そしてまた非常に大きいです。実際、あなたが米国を去ったら、普通の消防
車のサイレンとパトカーのサイレンの音はもう決して聞けないでしょう。それぞれの国で、パトカーと消防
車は違った音です。
 多くの国で、列車の汽笛さえ違っています。私は、米国以外の何処でも、米国のジーゼル車が持っている
深い400サイクルの音を聞いたことはありません。

 Lenyと彼の家族が到着し、彼のVQ8CB, VQ8AB, VQ4GTからの沢山のQSOのあとで、私達は初めて
会いました。私達二人はお互いに手紙を書きました、私は、100通もの手紙、家族の写真の交換をしたと思
います、そして私達は非常に良くお互いを知っていたと思いました。

 私は、私の正確な経済状態を話しました、そして私に関することの何もかも、Lenyに話しました。彼が
私に会ったとき、彼がどの様な友人だと期待したかは私は判りません。ここに私が居て、小さな人で、安い
ホテルに泊まり、ペニーをつまみ、ドルを上手に使うようにトライする人間でした。マルセイユで私達が
会ったとき、Lenyは私に少し失望したと思います。(これは私の個人的な意見)私は、外国で普通に人達が
期待する裕福なアメリカ人ではありませんでした。私を個人的に知っている友人は誰でも、私が上流人のよ
うに感じさせるように見せようとはしないことを知っています。私は、いつもできるだけ謙虚で気取らない
友人になろうとします。言い換えれば、私の本当の友人であろうとします。控えめに言えば、Lenyと家族
は、彼らが会った私に少し失望したと思います。

 結局、私達は南フランスで楽しい滞在でした、Lenyの新しいフォルクスワーゲン車で、至る所を旅行し、
彼がそれを“中古車”として彼と一緒にケニヤに持っていけるように、マイル数を十分大きくすることを手
伝って。結局、Lenyは私をモナコまで連れてきてくれました。Lilletteは本当に病気で、そこでLenyは、
私のホテルを見つけるため、モナコへの道を全部ドライブすることができませんでした。マルセイユに戻り、
Lilletteを医師に見せるために彼は急がなければなりませんでした。

 彼は何台かのタクシーのいたモナコの列車の駅に私を降ろしました。私は、タクシーのところに行き、
ドライバーにホテルLe Seicleに行きたいと言いました。ドライバーは道の反対側を指さしました、そして
ホテルはそこにありました。

028M060506   2006.6.7
第7章(3) モナコは素晴らしい

 ホテルは、私の立っていたところから50フィートもないところにありました。そこで、私は無線機の入
ったスーツケースと、衣類などの入った小さなバッグを持って道路を渡りました。私はデスクの後にいる人
のところ迄行って、私はアマチュア無線家で部屋を借りたいと言いました。彼は“はい、私はあなたを待っ
ていました”と返事しました。“私は、あなたを待っていて、最上階の部屋を押さえています。”私は、これ
はひどく奇妙だと思いました、なぜなら、私は誰にもそこに行くことを言ってなかったからです。しかし、
議論をしないため、私はただ黙って“非常に素晴らしい”とだけ言いました。

 私が、どうしてホテル Le Seicle を選んだのは、誰かが書いた何かの記事に、モナコに居た時にそこから
運用した場所だというのを読んだからです。ホテルのマネージャーは、ちょうど屋根までへの階段で私を屋
上に連れていきました。長さが25から30フィートの、およそ4本のポールが屋上に置いてありました、
それは、周囲に壁のある、平らなセメントの屋上でした。このセメントの壁にはポールを取り付けるための、
4個の金属バンドさえありました。

 私は、ルームナンバー39の、後の窓のところに、端から端まで、無線機をセットするために、机が二つあ
る、部屋に連れて行かれました。彼は、私が使うために、それを置いたのだと言いました。私は、モナコで
DXpeditionすることが絶対に確かであることが判りました:私がそこに到着するより前に、すべてのもの
が私のためにセットされていました。マネージャーは言いました、彼はいつもアマチュアにはルーム39を
当てたと。

 その日の午後、私のライセンスを貰うために、私は財務省に行きました、(私はその省だったと思います)
私は部屋に入りました、かわいいフランス人の秘書がきれいな英語を話しました、そして、私は、彼女に、
私の希望を告げました。私は申請書を書き、彼女から明日の10時に戻ってきて、ライセンスを受けるよう
に言われました。これは、簡単なことでした。翌日、私はライセンスを受け取りました、そして私のコール
サインは3A2BWでした。ところで、これは、私のすべての旅行の中で、ライセンスを取るのがもっとも簡
単な所でした。

 私は屋上に登り、そして短時間のうちに、私の最初のテストのDXpeditionが始まりました。当時、3A2
はまだ比較的レアーなリストにありました、そして私は“追いかける方ではなく、追われる方”になる感動
をあなたに言うことができればと思いました。
 オンエアーしたあとで、DXpeditionをどの様な正しい方法で運用するかについて、私がこの何年間も持
っていたすべての多くのアイディアをテストするチャンスがありました。様々な意味で、私のアイディアは
正しかったのですが、その中の幾つかは全くダメであったことが判りました。

 私が決して考えなかった本当の驚きの一つは、ヨーロッパのT 7の混信がどんなにひどいかでした。多く
の局が、私の周波数の上で呼び続けました、そしてUAの局は自分の名前を強く言いました。彼らのパワー
が200Wであると言いました。当時、多くの名前がVlad のようでした。さて、幾つかは Boris、Victor、
Olegだったが判りました。しかし、私をまごつかせたのは、彼らが皆自分の名前、パワー、QTHなどを言
い張ったことでした。私が彼らの小さな村の名前に興味を持っているとシベリアの誰かがどうして考えるの
か、あるいは、なぜ、彼らの名前に私がほんの少しは興味があると思うのでしょうか。

 私が交信した誰でも私が必要なすべては、私のRSTです。どうぞ、RSTを送るのに、邪魔しないで下さ
い。ただ、3個の数字を送って下さい。私は知っています、それはRSTナンバーとー(以下の字は判読不
能です・John)

この仲間達

 モナコで、地勢が米国の方向にどのようであるかを見るために、私は小さなハンドコンパスを取りだしま
した。もっとも近くにあった、もっとも高い山は、それは、正確にルートの真ん中に有ることを私は発見し
ました。もし私がモナコに戻るなら、地中海の中ではみ出るその地峡、すべての方向の誰にでも非常に素晴
らしい信号のパスを与えるであろうその場所から運用するために、私のベストをつくしたいと思います。
 ホテル Le Seicle は、値段、食べ物、サービスは非常に良いのですが、誰かがその非常に大きな山を取り
除くまで、DXpeditionには良くありません!あなたが山を動かせないなら、あなたが動きます!

 それは私にとってDXpeditionの最初の場所で、米国のすべての身近なコールサインを聞くことは、本当
にスリルでした。1965年に、ブータンで、私のタイプの前に座って、私が以前1959年に聞いた幾つかのコ
ールを思い出そうとするのは大変です。しかし、それからのすべてのDXpeditionを考えると、あなたは、
それが私のログに現れた仲間であったのをなけなしの金で賭けることができます。
W1FH, W1HX, W1HZ, W1WPO,
(そうだ、私は実際Bob と、あちこちから何回も交信しました。)
W1GDX, W1BIH, W1EVT, W1MV, W1ME, K1YRO, W1JYH, W1RAN, W1TS, W1TSL, W2AGW, W2JT, W2HTI,
W2DQD, W2GWE, W2DXX, W2CTO, W2TH, W2RGV, W2BXA, K2BZT, W2JAE, WA2WBH , W2TP, W2WZ,
W2MV, W2MJ, W2OKM, W2IOB, W2FZY, W2CQX, WA2IZS, W2ZX, W2JVU, W2BOK, W2SHC, W2SSC,
K2UKQ
(少女の)

W3CRA, W3CXX, W3HES, W3LMA, W3LOE, W3LMO, W2GGE, K2OEA, W3WPG, W3WGH, W3KVQ, W3NKF,
W3NKM, K2MGE
(素晴らしい先輩 Dotty!).

W3PZW, W3WV, W3EPV, W3GRF, W3GRS, W3HHK, W3AFM, W3OOE, W2TQC, W3BHP, WA2DIG, W2GNQ,
W3RNQ, W3FLY, W3CGS, W3GHD, W3JNN, W3WJD, W4TO, W4ECI, W4ML, W4OPM, K4ASU, W4VPD,
K4TML, W3INH, K4AIM, W4ANE, W4HA.

W4HR, K4RPK, K4TJL, W4QCW, W4LVV, K4TEA, K4TMA, W4RBZ, W4DQH, W4ZRL, W4DLG, WA4ACA,
W4LLV, W4NNH, W4LYV.
( コールサイン.100)

W4RLS, K4TWF, W5VA, W5EZE, K5AAD, W5PIO, W5MBB, W5IGJ, W5PSB, W5BGB, W5BRR, W5ADZ,
W5KBU, W5QH, W5AFX, W5GUZ, W4MR, K5JLQ, W5HDS, W5KTW, W5NUT, W5MMK, W5MBB, W5QKZ,
W5OLG, W5NW, W5AI, W3MSK, W5CKY.
(いつも、オハイオ州シンシナチのヒルビリー放送中波局 WCKY
を思い出します。)


W5MUG, WA2TAG, W5LGG, W5LZW, W5LGZ, W5PAQ, K5AWR, K5BNE, W5ABY, W5PM, W5LGS, W4LDL,
W5DOZ, W5IYU, W4NJF, W3OP, W4BVD, W4BVV, W5ADO, W6AM, K6VVA, W6WWQ, W6VPH, W6VSS,
K6ENX, W6SC, W6MUV, W6ID, W6EUD,W6LDA, W6HGY.

W6AOA, K6LEB, W6EPZ, K6TSY, WA6TGY, W6AWT,W6ITA, W6OSU, K6EVR, W6WX, W6HX, WA6GLD,
K6RWO, W6RW, W6ANN, W6UIS, W6UJ,W6EPZ, W6TZD, W6PUY, W6IBD, W6OUQ, W6PHF, W6KZL
(そして
彼のモービル装置!).


W7PHO, W7YGN, W7GHT, W7UMJ, W7KTN, W7AQB, K7GCM, W7QEU, W7BA, K7UCH, W7APA, K7PBM,
W7CMO, W7ESK, W7MX, W7SGN, W7ENW, W8FGX, W8JIN, W8PUD, W8OLJ, W8HGW, W8BF.
(更に次のコールサイン 100)

W8GZ, K8WOT, W8PQQ
(私のSSBを聞いてと言った!). W8ARH, W8BOJ, W8EWS, K8RTW, W8MPW, W8DMD,
W8BRA, W8AJI, K8ONV, K8OHG, W8QNW,W8DAW, W8JBI, W8QJI, W8KBT, W8UAS, W8KPL, W8IZQ,
W8IRN.

W9ADN, W9JJF, W9KOK, W9AW, K9ZEL, W9HUZ, W9JUV, W9JYJ, W9UZC, W9SFR, W9RCJ, W9LNN,
K9ECO, W9YSQ, W9YSX, W9QYW, W9QQN, W9TKD, W9KFC, W9HLY, W0AIW, W0DU, W0SMY, W0YTQ,
W0MLY, W0AIH, W0MAF.
(全部で249のコールサインがあります。更に5局か6局のコールがありますが
読みとれません。J.W. Baxley.)

JA1DM注・このコールの表には、W1FH, W1WPO, W2AGW, W6AMなどなど米国の往年の猛者が名前をつらねていて、1960年代
       のDX界が偲ばれます。W0AIHには、今年デイトンで会いました。
029M061006/2006.6.12/6.13
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