W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その10)   アマチュア目次へ戻る
第6章 (1) ラジオプラハ

 最後の章はチェッコスロバキア、プラグ(彼らはそれをプラハと呼びます)のガスが出発しました。
 さて、あなたは、小さな州の南カロライナから来た小さな仲間がラジオプラハから放送しようとしている
ことを想像出来ますか?誰も、このプロパガンダのことについてガスに教えた人はいなくて、誰も、どうし
たら「プロパガンダ目的のために利用されない」かを彼に教えた人が居ないことを知っているでしょう。ガ
スは誠実な仲間なので、彼は誰の気持ちも傷つけないでしょうが、今、彼の短い15分のトークを彼がどの
様にするかを見ましょう。(ガスは“Ed”編集者と書いていますが、この文を第3者のように書いたからで
しょう)
 さて、私は午前9時の数分前にラジオプラハ局に着きました、そして大きな立派なスタジオに連れて行か
れて、マイクの前に座り、緑のランプが点いたら、放送の1分前ですと私は告げられました。また、赤のラ
ンプが点いたら、私の放送の時間で、話を始めるようにと言われました。私が話すのを始める前に、話す内
容を考えることをしない、そのようなクレイジーな仲間の一人で有ることを知っているでしょう。
 さて、私はここに居て、いつものように、全く何も計画しないで、話を始めようとしました。しかし、私
は決心しました、そのマイクで、もし何かプロパガンダが有れば、それを言う一人になるだろうと。それは、
彼らのではなく、私へのプロパガンダでしょう!

 さあ、赤いランプが点きました、そして私の放送が始まりました。私は、何かこのように始めました、私
の名前はガス・ブラウニングで、とても貧しい一人で、しかし、米国の小さな州、南カロライナ州のすてき
なところから来ました。もし、あなたが地図を見れば、それは、米国のもっとも小さい州の一つであること
が判るでしょう。私は、あなたが聞いているような、そのような裕福なアメリカ人の一人ではありません、
私は、平均的なアメリカ人にすぎません。私には、4人の子供、二人の男の子と二人の娘、それに素晴らし
い妻がいます。
 私は、ラジオのセールスとサービスの仕事、私が自分で働いている小さな仕事を自分で経営しています。
アメリカに関する限り、彼らは私が何処にいるか、実際、私が何処にいるかを気にかけていません。彼らは、
私が何処へ行くかは彼らには関係ないと感じていると思います。

 私は、世界一周旅行をしようと2年前に決めて、そこで、私はお金を貯めて、そして今はその旅行の途中
です。ここプラハのラジオアマチュアは私をとても良くもてなしてくれます。ラジオアマチュアは世界で一
番素晴らしい人達です、実際、アメリカには約25万人居て、世界のその他の国に約6万人います。
 私は、私の15分が終わるまでとりとめなく話しました。私は感じました、私はアメリカのために少しプ
ロパンガンダをしました。それは、「2年間で世界一周旅行をするために必要なお金を貯めること」や「私は
平均的なアメリカ人」や「私がすることは私のビジネスです」など。私は、どのリスナーもアメリカでは物
事がどの様になっているか、行間を読むことが出来たと計算しました、そして、カーテンの中の国々の殆ど
の人々は彼らが望むようには行ったり来たりしないことを知っていました。

赤い星は強力なヘルプ

 ある日、私はプラハの街を歩いていました、そして、からりと晴れた空の下で、大きなロールスロイスが
(それは私の方向に思えました)縁石に近づき、ホーンを鳴らしました。私は殆ど飛び上がりました、なぜ
なら、私を突き倒そうとしたと思ったからです。大きな、背の高い奴が、窓から頭を突き出して、「南カロラ
イナのオレンジバーグのガス・ブラウニングではないか?」私は彼をよく見て、そして答えました「ハロー
ジョン!」(GW3ZV)
 次ぎに、私は、ここで一体何をしているのかと彼に尋ねました、そして彼は答えました、「あなたと一緒で、
カーテンの背後を見たいのですと」。私は、彼の大きな高級車に飛び乗り、その後の数日間、一緒に、プラハ
を見物しました。ジョンは彼の車をミュンヘンに送り出し、奥さんと息子と一緒に車をプラハまで運転しま
した。ジョンは、何年か前に私の家を訪問しました、それが、頭を車の外に突き出したとき、私が彼を判っ
た理由です。皆さん、プラハの真ん中で、南ウエールスの誰かに会うとは、なんと小さな世界でしょう。

 ある晩、チェッコスロバキアの東の方にある、ブラティスラバのハリーから電話がありました。彼のとこ
ろに来ないかと私に尋ねました。私は、お金に余裕がなかったので、ちょっと遠回しに言いました。彼は答
えました、「ガス私はそこへ飛び、あなたを拾って、そして私達二人がここへ飛んで戻るつもりですと。」次
の日、ハリーが着いて、私の航空券を買って、私達は一緒にブラティスラバに飛んで戻りました。ハリーは
医者で、彼は私にとても素晴らしいホストでした、全てのその地方に連れていき、私は沢山のOK3の人達
に会いました。ハリーのコールはOK3EAで、チェッコスロバキア中でこれほど素晴らしくて、好意的な人
は居ません。ハリーは、私にプラハへの帰りの切符を買ってくれ、私は再びOK1FFと数日を過ごしました。

 チェッコ仲間の素晴らしい親切さを感じて、私は列車でプラハからドイツのミュンヘンへ出発しました。
旅行は、いつものように、通路全体に人が立っていて、ひどく混んだ列車でした。あちらこちらに沢山の警
官が居ました。それから、私達は西ドイツの国境に着き、そしてまた税関です!彼らは仕事をするつもりで
した。彼らは、全員にスーツケースから彼らの衣類を出させ、そして、彼らは全部の衣類のすべてのポケッ
トを探しました。それから、私はOKの仲間の一人が私に赤い星のバッジを呉れたバッジを思い出しました。
税関が私のところに来たとき、私は内側のコートのポケットに達して、税関の男が私の襟の赤い星のバッジ
をちらりと見ているのに気づきました。私のパスポートを手渡し、そして、頭の上にある私の荷物を示しま
した。「それは全部 OKです」と彼は言いました。彼は、私に対してそれ以外には何もしないで、次の席へ
移動しました。彼は、まだ前と同じように、すべての人に彼らのスーツケースをひっくり返させました。

 
021M043006   2006.5.2 
第6章 (2)吉日か厄日か

 私が襟に着けていた赤い星のバッジが、私のスーツケースをひっくり返したり、探したりもしないのと何か
関係があったのかどうか、私は未だ考えていました。
 多分、誰でもが受けた大変な検査を私が受けなかったのは偶然の一致だったのでしょう。あるいは、私の
顔が罪のないように見えたか、あるいは私の“吉日”だったのかも知れません。さて、その“吉日”のこと
が私に思い出させます。

 その”吉日”が、今、世界のこの地方では(今私はAC5に居ます)、本当に大事なことは、あなたの”吉日”に
行われると言うことを、私に思い出させてくれます。

 星、惑星、月、太陽などについて詳しいゾンの僧侶の一人が、今日が“吉日”かどうかを彼らに告げます。
馬鹿にしないで下さい、低いカーストの人から非常に高い人達までもまた彼を信じます。そして、彼らは、
ほかの種類の“厄日”の何かそのようなのを持っているように見えます。それは、彼らに多くの問題を引き
起こします。“これは私の悪い日の一つです”あるいは多分、“これは私の日です” と人々が言うのを私達は
聞きます。さて、始めましょう。吉日か厄日か。

私は、この小さな章をAC9で書いています。
(クレイジーなDXサーのあなた、それはただのAC5です)
 今ここで14MHz バンドがどのようであるか、言わせて下さい。これは1965年4月2日です。バンドは、
殆ど毎日、0100Zにやっと開きます、それは良く開き始め、0145zにピークになります。すべてのUSAが
0245頃にフェードアウトします。W6、 W7、 KH6は聞こえません、その時間のあとは、そのようなとこ
ろは全く聞こえません。
 そして、USSRの連中が一日中、1200z迄聞こえます。それから、W1です。1220頃、W2達が、そして
それから1230頃西ペンシルバニアのW3達が、そしてオハイオと多分、少数のミシガンのW8達が。それ
から、1245頃、W9達が、そして1300にはW0達が。これら全部の時間の間、、平均よりは弱いながら、
W4達が聞こえます。それから、1300からおよそ1400まで、W4達はピークです、そしてほんの数分の間、
ほんの少数の、あえて言うと、少しのW6が聞こえてきます。

 21MHzバンドは、すべての時間トライしますが、全くUSAは聞こえません。
 7MHzバンドは少数のUSSRと日本の仲間を除いては、基本的に誰のためにも役に立ちません、ヨーロ
ッパでさえ。
 3.5MHz ハハ!そして、私は3.5MHzでも良いアンテナを建てました。私はそれを建てたことで、また、
時間を無駄にしました。

 ここブータンの生活は大変興味深いです。時折、ブータン人、あるいはチベット人のグループがヤクの群
を山道を移動させているのを見るでしょう。それから、近くのゾンから非常に沢山のラマ僧が行ったり来た
りするのを見るでしょう。夜には、彼らの大きくて、長いチベットホーンを吹いているのをあなたは聞くで
しょう。彼らのホーンの幾つかは、およそ12フィートの長さで、それが吹かれるとき、それを支えるのに
3人か4人の男が必要です。彼らは、あなたが見た中では、もっとも平和的な人達です。勿論、私が通り過
ぎるとき、彼らは私を見つめます。私もまた彼らを見つめます!

・大きな荷物、小さなジープ

 私は、、パロのパロゾン(民間の宗教上の、寺で砦)で毎年開かれるブータンで最大の宗教のお祭りが、ち
ょうど今日あることを知りました。私は、そこへ行って、この大きなお祭りを見たいかと聞かれました。私
は、勿論“イエス”と言いました。また、私はこの国のAC6に居ることを考えていました!

 そこで、1965年4月12日、月曜日、私達はジープに積み込みました。知っているでしょう、ここでは、あ
なたがその場所から他の場所へ行く時、あなたは、ただジープに飛び込んで、そして行きます。あなたは、
考えなければならない沢山のことが有ります。あなたの食料すべて、あなたの寝具、マットレス、そしてあ
なたのコックと運搬人を連れていきます。(この運搬人は一種の何でもする召使いです)勿論、あなたの無線
機、発電機、アンテナを持ちます。(彼らは、燃料も持っています)覚えていて下さい、私達の誰もが寝具や
その他のものを持ちます。

 私の良い友人、Dechenchholingの無線技師、いつも変わらぬ友人で、本当に素晴らしい友で、また自分
の仕事にとても熱心な人、Mani Kunar、から招待されました。

 私達のことについて想像してみて下さい。4人の人達全員の寝具、食料、無線機などを、たった1台の小
さなジープに全部積まなければならないのです。これら全部の資材が地面に置かれたとき、それは資材の大
きなかたまりでした、そしてこれらの全部と4人の人がジープに乗り込むのは、それは絶対に不可能に見え
ました。さて、何回もの積み下ろし、再梱包と無理に詰め込み、私達は全部ジープの中に積みこみ、出発し
ました。

 Dechenchholingの無線技師代理はパロの通信事務所に無線電報を送って、私達の世話をするように連絡
し、本当に最良の方法で世話をしました。私達が、その日の午後に到着したとき、私が使うために特別に切
られ、すべてカットされ、整えられて戸外に置かれていた3本の全く新しい素晴らしいアンテナポールを見
ました。それらは、パロから何マイルも離れたところで切られ、運搬人によって無線局まで運ばれました。

 無線局の中の部屋は、特別に私のために完全に作り直されていたのを、私は見ました。私のために、ベッ
ドまで作られました。(彼れはここではベッドは使いません、99.99%以上の人が床に寝ます。)私の調理人が
使うために新しい台所が建てられてました、私が使うために、幾つかの特別な食料さえ用意されていました。
私の3.5kW、230Vのオーナン発電機に最初に充填するためのガソリンが一杯入った5ガロン缶が手元にあ
りました。

 全員が、私のハイゲイン14AVQ垂直アンテナを建てるのを手伝ってくれました、それはまっすぐな60
フィートのポールの上に建てられました。ここブータンでは穴を掘るのでさえ、非常に大変な作業です、あ
らゆる所に岩が有りました。2回の穴掘り作業の後に、、一番大きな岩でも私の頭より小さいサイズだった所
に、私達は、3フィートの深さの穴を掘りました。時々、あなたは堀り、そして掘り、1フィートか2フィ
ート掘り下げた後、毎回、あなたは固い岩を見つけます。それから、あなたはほかの穴をトライします、そ
して、あなたが数フィート掘り下げることができるようなスポットを見つけるまで、あなたはトライし続け
ます。
022M050506 2006.5.7
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