W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その8)   アマチュア目次へ戻る
第5章 (1) バンドがアメリカへ開かない

 これを書いているとき、私は再び憂鬱になっています。これまで4日間も憂鬱です。 私がここブータン
でこれらの文章を書いているとき、ARRL DX コンテストはCW部門の2日目です。私は、QRMの壁を破り、
いくつかのWかKの局にブータンのマルチを与えようと、懸命に試みましたが、全く出来ませんでした。
 私は、バンドの低い端でほんの少しはみ出しさえしてCQ テストを呼びましたが、それでも一つの返事
もありませんでした。ロシアの局はわざわざ私には答えません、彼らはWとKの局と交信するのに大変
忙しいのです。

 モンスーンの雨が始まったように見えます、なぜなら、毎晩、一晩中雨が降っています。しかし、殆ど毎
日太陽がでるので、神様に感謝します。少なくとも、それは暗闇を明るくするのを助けます。
正直なところ、アマチュア無線に関する限り、私は米国の仲間に良くしていないので、家に帰る考えが、何
回も私の心に浮かびました。もし、このあと何ヶ月も、あるいは、今年の残りの間、コンディションがこの
ように停滞しているのを私が知っていたなら、私は、荷物をまとめて、速やかに帰途につくのを確信してい
ます。

 私がW4BPDに戻ったとき、私が、UL7、UM8、UI8、HS、9M2、9M4、9M6、VA6、VU2、MP4、
VS9、YA、9N1、JA、UA9、UA0などの局と交信するのは、少し飽きるだろうと言うことは、決して私の
心に浮かびませんでした。それは、私がUSAは一つもなく、そして僅かなヨーロッパの局と何十もの局と
交信している様なものです。私は、沢山のZS、9J2、CR7、5Z4そして幾らかのVQ8と交信しています。
私のログに関する限りは、太平洋の諸島の局はありません。コンディションはこのようなものでしょうか。
何千ものアマチュア局がいるUSAがここでは全く聞こえません。
 私は、物事が何か違うかを見に来週、この国の別の地域に行くつもりです。私は心からそれを望んでいま
す。
 ここの人達は、大変親切に私をもてなしてくれています。私は、不平を言うことは出来ません。私には、
美味しい食事を作ってくれる、英語の良くできるコックがいます。彼は、毎日、ほぼ5回お茶を持ってきま
す、毎日3回、美味しい食事を用意します。

 ここの若者は、私が望むであろう、どんな種類のアンテナを立てるののにも私を助けるでしょう。竹がと
ても豊富で、私は、1、2週間の内に、クァッドを立てることを考えています。そして、私が組み立てよう
としている2kWの終段も、多分、何か役に立つでしょう。私が、これらのダメなバンドを、良く開ける様
にする何かを始めたことを私は知っています、さもなければ私は気が狂うでしょう。
 アジアの局に関する限り、私はバンドが何もなくなるまで交信しました。
控えめに言っても、私は、落胆している人間です、オンエアーするための方法を得るために何かを始めまし
た。私は、始めるか、あるいは止めるかでした。

 今日XYLから3通の手紙を受け取りました、それはたしかに大いに助けになります。しかし、もし彼女
が私と一緒にここにいるなら、はるかに良いでしょうに。そうだ、私はウェインからも素晴らしい手紙を受
け取りました。
 もし、私が旅行許可を手に入れることが出来るなら、彼は短期滞在のために、ここに来るかも知れません。
AC3ランドへの、旅行許可はまだQRXです。私はそれがOKになることを願っていますが、それは現在、
すれすれの線を辿っているように見えます。しかし、バンドのコンディションが今のままのようなら、AC3
ランドに行って、運用するのは完全に止めるでしょう。皆さん、覚えていて下さい、あなたと交信するため
に、私の最善を尽くして私は毎朝、毎晩オンエアーしています。

・東ドイツでの旅

私のストーリーに戻ります。
 先月、その "Gus Rides Again"の章の最後で、私は、私がベルリンへ行く途中、東ドイツのちょうど真ん
中で、列車の中全部と、そして勿論、途中のあらゆる停車場に警官が居る列車に私は乗っていました。
 彼らには「警察」が有りますか?皆さん、彼らはそうすると私は言います。 私はその列車に乗っている
ただ一人のアメリカ人であること、そして彼らが皆私に注目しているように思えたと確信しています。
 それは、控えめに言っても、いやな感じがしました。物事が私にとって非常に悪いように見えたので、ガ
スとヘレーネが私に真実を言った様に思えます。しばらくして、警官と保安役人が何処にでも居るのに慣れ
ました、そしてそれ以上注意を払うのを止めました。

 私は、私が乗っている客車を見回して、私が見える範囲の人々全員が、大変静かで、笑顔がない、憂鬱そ
うであることに注意しました。昼食の時間のとき、殆どすべての人が自分の食べ物を持ってきているのに気
づきました。私の横に座っていた上品な紳士が、私が何も食べ物を持たないのを見て、彼のサンドイッチを
私に勧めてくれました。それは、黒パンと何か非常に固いソーセージでした。
 私は、この人が上手に英語を話すのが判りました。彼は、どこから来たのかと聞きました、そして私は返
事しました。彼は、私たちが希望するいつでも、アメリカ人が米国から来て、行くことができるのを知って
驚きました。彼は、希望するだけの沢山のお金を米国の外へ持ち出すことが出来る事実を知って、もっと興
味を持ちました。

 彼は、私に、ハンブルグの米国領事館にチェックインして、私が何処へ行くつもりかを話したかと、尋ね
ました。私がそのようなことをすることなど考えもしなかったと言ったとき、彼は更に面食らいました。米
国の生活についての彼の思っていた考えは1000%違っていました。彼はドレスデンの機械技師であると言い
ました。

 この時、列車は大きな小麦畑を通り過ぎていました、そして私は、畑で小麦を集めている沢山の労働者に
気づきました。彼らは、小麦を刈るのに古い様式の鎌を使っていました。私は、また、その仕事をしている
全員が皆女性であることに気づきました。彼らは10人ずつのグループでした。私は、なぜ、彼らがそのよ
うに区分されているのかを尋ねました。彼は、それは、いかにも各人が彼らの仕事を果たし、そして、仕事
をだらだらしないのだと言いました。

JA1DM注:
   AC3 Land: これはブータンの西、ネパールとの間にあったSikkimのことで、ガスは1963年9月
   AC3PTで、1965年5月 AC3Hのコールで運用しました。Sikkimは1975年インドに併合されました。

   "Gus Rides Again"の章は見あたらないのですが、第4章「東ベルリン」のことでしょう。  
017M041006 2006.4.11
第5章 (2) 荒っぽい列車に乗る 

 私は、その大きな農場の全部の小麦を集めるには何日くらいかかると思うかと尋ねました。彼は、およそ
7〜10日間くらいだろうと思うと言いました。それから彼は、アメリカでは、そのような農場でどの様にし
て小麦を集めるのかと尋ね、私は刈取り束ね機を使うだろうと言いました。次ぎに、彼は刈取り束ね機を使
って、そのような大量の小麦を集めるのに何人くらいが働くのかと聞きました。私は言いました、多分二人
か三人と。それから、彼はその刈取り束ね機を使って、そのような大量の小麦を集めるのにどのくらいかか
るのかと聞きました。私は、それは多分一日かかるだろうと答えました。それは、本当に一寸彼の(質問を)
止めました。

 彼はただそこに座って考えていて、結局、米国に居る失業者について尋ねました、東ドイツでは失業者は
全く居ないと言及して。(そうです、それが、民主主義と彼らが呼ぶものです)それから、彼は、更に先へ言
いました、どうしてそんなに沢山の失業者が居るのか、そのような、刈取り束ね機を持っているので、それ
が50人の人達の仕事を奪ったのではと思われると付け加えました。彼は、みんながそこで働いていて、私
たちが小麦畑で見たように、女性ですら働かなければならないと言いました。

 私は、あなた方はあなた方のシステムを使い、私たちは私たちのシステムを使いましょう、なぜなら、私
たちが仕事から家に戻った時、一日中小麦を集めて汗にまみれて、疲れ切って、人生もないのではなく、休
ませてくれる女性達が好きです。さて、それは本当に彼を静かにしました。彼は、私が正しく、彼が間違っ
ていたと判りました。

 列車は走り続け、非常に荒っぽい列車の旅でしたと言わせて下さい。列車は人々で溢れていて、通路でさ
え立っている人達で一杯でした。走るのが非常に荒っぽいので、頭上に置いたスーツケースが人々の上に落
ちたのを実際に見ました。
 列車がちょうど西ベルリンに入る前の最後の駅に止まり、殆どの人達が下りました。誰も、彼らのパスポ
ートか身分証明書を再び見せなければなりませんでした。それから、全ての「ドイツ民主主義共和国」の職
員は列車を降り、西ベルリンの職員と列車乗務員が乗りました。私たちのパスポートが再びさっと見られま
した、そして列車は発車し、そして数分後に停車しました。

 私たちは西ベルリンに居ました・そして私は旅が終わったので嬉しかったのです。私がDL6ZZの家に居
たとき、DM2XLOとQSOしました、そして、彼は、私の列車が何時西ベルリンに着くことになっている
かを知っていました。私たちは、地下鉄の動物園駅に集まるようにアレンジしました。私たちの識別は彼の
帽子のバンドに挟まれたQSLカードだったと思います。彼はそこで私たちを待っていました。ウルフ、
DM2XLOは大変に親切で、非常にきれいな英語を話しました。

 私たちは、地下鉄で境界を越え、東ベルリンへ入りました。その当時は、ベルリンの壁は有りませんでし
た、そして東ベルリンの人達はほとんど問題なく行き来できました。
 ウルフは東ベルリンのKoepenickと呼ばれるところに、きれいで清潔な家に住んでいました。ウルフはそ
この電子工場のマネージャーで、そして彼は多くの旅行をしました。(何処の場所かは原本の字が読めないそう
です)

*警官と写真をとる

 彼と彼の素晴らしい奥さんは親切なホストで、私の滞在を最高に楽しいものにしてくれました。重要な地
位にいる彼にとって、電話も車も持っていなかったことは、ひどく奇妙なことだと私は思ったのでした。
彼は、その時、非常に面白く、おかしかったキャプテンKoepenickの話をしました。しかし、今は、私はそ
の話の全部を忘れました。それは確か、ずっと昔、このキャプテンKoepenickは実際ドイツの陸軍の2等兵
でした、そして、どうにか彼はキャプテンの制服を手に入れて、それを着ました。そして、それから私はど
うなったか忘れました、しかしそれはおかしかったです。どこかの店の前にこのキャプテンKoepenickの彫
像さえもあります。

 私は、また、DM2FSOと彼の美しいプラチナブロンドのXYLと一緒に何夜かを過ごしました。彼は車を
持っていて、私を、東ベルリンの沢山のアマチュアと会いにドライブに連れていってくれました。彼らは、
皆私を歓迎してくれました。誰からも圧力はかけられず、同志とも呼ばれませんでした。ある日の午後、
私はアイディアが有りました。どうして、DM2FSOの奥さんが私の膝に座った写真を撮らせないのですか?
(皆さん、それをしないように)さて、それはDM2FSOと彼のXYLの両方にとり同意できることで、実際
DM2FSOは自分で写真を撮りました。また、彼らは大変仲がよかったです。さあ、このようなことはあなた
のXYLがその写真を見たときに彼女に説明するのは非常に難しいです。このような写真を見たときの
ペギーの最初の感想は、“あなたのどの旅行でもあなたは苦しまなかったのが判った”でした。皆さん、
私はまた言います、それをしないように!

 ある日、私は道を歩いていて、3人の警官を見ました、それぞれが違った色の、非常に派手な色のスーツ、
に帽子をかぶっていました。私はカメラを持っていました、そして私は一緒に居た人に言いました、“私はあ
の警官達の写真を撮りたいと”。彼は言いました、ノー、ノー、そんなことはしないで!
 私は言いました、オー、はい、彼らの間で、私と一緒にポーズをとるつもりです。彼が言おうとしようと
したのを聞くのを待たないで、私は彼らのところへ歩いて、私と一緒に写真を撮りたいと言いながら、彼ら
の手に握手をして、笑って。(どのみち、微笑みは間隙を埋めます)彼らは、英語を全く分かりませんでし
た、そこで、私は手真似で、言いました、そして彼らは皆頷いて、微笑みました。私はカメラを一緒に居た
仲間に渡し、そして彼は私たちの写真を撮りました。私たちは再び握手して、微笑んで、そしてそれだけ
でした!

 私は、何故、私と一緒にいた友人が警官を心配したように思ったのかの質問にたいして、彼は次のように
答えました。あなたが警官と仲良くしようとしていると、あなたが何か法律に違反したことをしようとして
いるに違いないと警官は考えるかもしれないと。彼は、即座に容疑者としてあなたを逮捕するかも知れない、
そして彼らはあなたを3ヶ月刑務所に閉じこめるかも知れません。そして彼らはでっち上げの罪で裁くかも
知れません。彼は言いました、“ガス、覚えておきなさい、ここでは、あなたが何かの犯罪で告発されるとき、
あなたは立証しなければなりません.....

1DM注:
     キャプテンKoepenickの話は、1900年代始めにベルリン近郊の Koepenick の2等兵がキャプテンの制服を着て、
     キャプテンになりすまして、巻き起こすストーリーのようです。題名は「Captain from Koepenick」のようです。
018M041506  2006.4.16
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