諏訪神社について

昔より、氏神様は各地に祀られていますが、三ヶ所にも諏訪神社と呼ばれる氏神様が有り、時には、部落の人々の心の拠り所にもなり、親しまれています。当神社は、時の国守であった武田信玄の守り神様で正式には諏訪大明神と呼ばれています。また、長野県にある諏訪大社の御分霊(神の御霊を移して祀ること)で建御名方命(たてみながたのみこと)という神様が祀られています。現在残っている本殿は棟札(上棟式の日を記した札)により約四百年前に建てられたものだということが判かっていますが、まだ歴史の浅い頃は柱を四方に立て、それらをなわで結び、しめを張り、真ん中に石(御神体)を置くだけで神社と称していたそうですので、諏訪神社もそのような時期から数えますと、更に歴史の古い神社と言えるでしょう。神社の所有地とともに、御神木の数も戦前に比べると滅りはしたようですが、諏訪神社にはまだ古木が多数残っており、今でも充分に鎮守の森としての風格を保っています。中でも当神社で最も古いと言われる立派な御神木が、神殿の前に、まるで番人のようにして大空にそびえている様子は、どことなく頼もしい感じがします。昔から、「境内に立ち並ぶ御神木の高い梢に は神様が居て、神社の周辺に住む人々の健康や家内安全を守っている。」と言われているそうですが、神社がたくさんの木々に囲まれているわけは、こんなところにもあるようです。諏訪神社も近年では、初詣や祭りの日に賑わうだけで、普段はひっそりとしていますが、昔はこの近辺に住む人々は、東から西からこの神社をお参りしては、様々な思いを祈願したのだそうです。特に戦時中は、出征する男性は神社に詣で、神主さんのお祓いを受けてから出発したそうです。自いエプロンに赤いたすきの婦人会の人や家族は、手に手に日の丸の旗を持ち、心の中で兵隊さんの無事をただひたすら神様にお祈りしたのでしょう。また諏訪神社では、戦前は七月二十六日に祭りが行われてました。田植えも終わり、ほっと一息ついた頃に祭りの日を設け、大勢の善男善女が手に手を取って神社に繰り出しました。この日は祠門(ほこらもん)の前の馬場と呼ぱれる場所で盛大に神角力(ずもう)が行われ、祭りに色を添えたようです。諏訪神社は、本州(県)の中でも神角力においては、三辻(三つの神社)の一つに数えられていたこともあって、遠近の力士や力自慢の強者たちが、まるで蜂のように集まったようです 。多勢の見物人の声援する中、立派な体格を持つ強者たちが力や技を競う様を想像すると、古き良き時代を紡佛させ、うらやましい感じがします。そのほかにも、諏訪神社にぱこんな話が残されています。神社の巽(南東)の方角、一丁程(約百メートル)の所に、とても深く堀られてあったのか、どんな干ばつにも枯れることのない神井戸と呼ぱれる井戸がありました。ある干照りの年、農家の人々は毎日空を見上げては、作物(主に稲)の様子を心配していましたが、ある村人が、ふと神井戸のことを思い出し、早速その井戸の水を汲んで神社に献じ、神主さんに雨乞いをしてもらいました。するとたちまち御利益が現われ、恵みの雨は、作物の命をみるみるうちに生き返らせました。まさに霊験あらたかというところでしょう。農業の内容も時代とともに変わり、七月の祭りも戦後は十月十五日に行われるようになりました。今年また三ヶ所の部落の人達に混じり、地区の小中学生も神社に集まり、みこしをかつぎましたが、祭りばん天に豆しぼりの子供達の元気な姿が、秋の祭典を彩りました。