東後屋敷の木の宮に、木の官神社があり、ニニギの命が祀られ、昔は境内も相当に広く、「岐生」の古松があったところから夫婦仲よく、ともに心を合わせ、長生きできるように祈願する神社といわれてきた。その南方に禅宗の大寺があり、そこに立派な絵見堂が建てられ、その前庭にたくさんの五輪塔が並んでいた。しかし、明治初年頃の大火でそれらの全ては焼失してしまったと伝えられる。絵見堂の南に経塚という塚があり、昔、鏡を埋めた所だそうだ。この経塚を水源とし、今の東後屋敷中組は用水として利用したといわれる。この寺には、たくさんの供養塔である五輪塔があったのですが、明治の末にその寺跡を整埋し畑にするために五輪塔の処分に困り地元の人々が、白分の墓地等に備えたりした。しかし、なにぶんにもたくさんの塔であったため、木の宮神社から下る道の中央を掘り分けて、無謀にもその中に、先祖の供養塔である五輪塔や、その他の雑物を埋めてしまった。昭和の初めの頃、その事が話題となり、「われわれの先祖の供養塔が地下に埋められてあるのに、その上を踏んで歩くとは本当に中し訳ないことだ。」ということになり、人々は協力して五輪塔を堀り出し、自分の家の屋 敷神様の囲りに安置して供養した。今もその五輪塔のいくつかは、鈴木南岳百翁の庭に残されている。五輪塔は現在でも各地に見られるが、それは人体に模して、地、水、火、風、空輪と言われ、形は、方、円、三角、半月、宝珠形で土台の上に重ねて作られ、供養塔として死者の霊を祀ったものという。今でも追善供養として「卒塔婆」を建ててお詣りするが、その形は五輪を型どって切りこみをつけ「五輪塔婆」、単に、「塔婆」とも呼ぱれている。