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1962年 第2回 W4BPD
Indian Ocean DXpedition
(その4)
私が雑誌「電波科学」1964年5月号に書いた「W4BPD・DXpedition」記事が彼の第2回DXpeditionの概要をまとめて書いてありますので再掲します。彼がその帰り東京に寄り、JA局の歓迎会で聞いた話などもまじえたレポートです。
現在の表現で適切でない箇所はできるだけ修正したつもりですが40年も前の記事ですのでその辺りはご了承下さい。
(その4)
Big Try、BYを(1964年)
GusがLaosにいた頃、既にDXpeditionはもう終わりに近づいた、3月には帰国するということでしたが、HS1AAから出ているときに、”Big Tryを試みる。2月末の週末にBYに行く”と打電してきたのです。このニュースだけは恐らく誰も予想しなかったことでした。これは、もうGusはたいしたところには行かないぞといわれていたので、一大ニュースでした。特にJAにとってはBYはのどから手のでる程欲しい所で毎日のようにBY1PKとソ連圏の局のQSOを聞かされていたのですから、ビッグ・ニュースでした。BYには2〜3日しかいないということでしたが、2月26日から3月2日の朝までいて、XW8AW/BYのコールで7〜21Mcに出ました。所で本当に中国へ入ったのだろうかと思って在京のGusに尋ねた所、このことは秘密でも何でもないからといって説明してくれました。まず飛行機でLaosと中国の国境まで飛び、そこからトラックに乗って密輸ルートを現地人の案内で通過し国境を越えたのです。しかし更に、完全にBY領であることを確保するためにと、国境といわれた所から、数マイル奥に入ってテントを張ったそうです。このときはXW8AUも同行しましたが電源の調子が悪く、余りon airできませんでした。また、Gus達を安全にLaosに連れ戻してくれるように、案内料のうち、1割だけを前渡しして、残りは無事に帰って来たときに払う約束にしておきました。SSBも最初の中は近くの現地人が怪しんでは困るので、CWのみを運用してましたが、28日からはSSBでもでてきました。
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この時は14067kcで運用、14062でQSOできた。 JAには非常に嬉しいニューだったがDXCCには認められず 涙をのんだ。 |
DXCC委員会はGusのAC4での運用は認めたが、この BYの運用は認めなかった。これでJA局にとってBYは 1965年のBY4SKまでお預けとなった。 |
BYからも無事に帰ってきたGusは、その後香港経由で3月5日東京に寄り、JAの歓迎会に出席し、3月7日KH6へ飛びました。
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Gusを歓迎するため若手(当時)のJA
DXサー達が羽田空港 に出迎えた。この写真は3月5日夕刻、羽田空港出迎え ロビーで記念撮影。両方の写真には当時アクティブ だった多くのJA局の顔が見える。 |
翌日、Gusの歓迎パーティーを帝国ホテルで開催、その時 に帝国ホテルロビーで撮影した記念写真。JA1YL も熱心なDXサーグループのメンバーだった。 |
3月6日夜、帝国ホテルで開かれた歓迎会の様子 です。当時のJARL会長梶井さんも出席されました。 |
17名のDXサーらが参加、Gusの両隣は1FGと1YLが着席、 参加者からのプレゼントの贈呈など、私は、Gusの運用 を録音した5インチテープをプレゼントしました。 |
バイキング料理を楽しんでいるGus いつもコークを飲んでいました。 |
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Gusは3月7日、羽田空港からKH6経由で米国へ帰国、こ の写真は空港チケットカウンターでチェックインしている スナップ。 |
いよいよGusがゲートから出国するところ。2年間もの世紀 の大DXpeditionを終わった人とは思えないほど元気な姿で 帰国。 |
米国には3月10日に着き、ひとまずXYLの待っているサウスカロライナへ戻って、彼の世紀のDXpeditionは終わったのです。
さて終わりにGus Browningについて一寸説明しましょう。今年56才の小柄な、しかし非常にタフなアメリカ人で、身長は165cm、体重60kg弱の大変人の良いアメリカ人です。自分の局は各バンド専用のKWの送信機を持っているデラックスなシャックで、その他に出力1kWのAM放送局WBPDの所有者です。もっとも最近はFCCが大変うるさくなり、余りもうからないので、誰か買わないかといってましたが。その他にラジオ、TV部品の販売店を持っており、またバプチスト教会の執事でもあります。
以上