W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その9)   アマチュア目次へ戻る
第5章 (3)東ベルリンで楽しんだ訪問

 「ガス、ここで、あなたがなにかの犯罪で告発された時に、あなたは潔白であると自分で立証しなければ
なりません、それを立証できないなら、あなたは有罪だと言うことを覚えていなければなりません。」と彼は
言いました。あなたには、あなたを守ってくれる弁護士はいないでしょうし、あなたが刑務所にいるとき、
だれにも会うことはできません。彼らが刑務所にあなたを3ヶ月かそれ以上も閉じ込めているとき、あなた
はどうしてだれかに立証することができますか?
 彼は警官の方へ歩いていって、彼に何かを言おうと考える前に、通りの反対側を歩くだろうと彼が言いま
した。言い換えれば、彼らはただ警官を怖がっているように私には思えました。

 東ベルリンで、Vデーのままの格好で建っていて、それらを建て直そうとするような気配の無いままにな
っている沢山の建物を見ました。
 反対側は本当に西ベルリンでした。本当にそうです、東と西とでは大きな違いがあります。皆さん、なん
という違いでしょう!
 通りにいる普通の人は、冴えないスーツを着た、元気のない、冴えない様子の男です。笑顔も無く、本当
に疲れたような顔で、まるで何も気にしないように非常にゆっくり歩いて。彼は、あたかも失業していたよ
うに、空腹で、寝ていなくて、何かが起きても全く気にかけないような疲れた顔でした。 

 東ドイツの友人は、彼らの局を彼らのコールサインで運用させてくれました、それからW4BPDでも。そ
のようなことは、多くのほかの国々では決して全く許されないでしょう。
 私は、東ベルリンでの訪問を楽しみました。全ての人達が私を歓迎してくれました。ドレスデンのエリッ
ク、DM2ADLと彼の美しい奥さんは、私に会いに彼らの小さな車を運転してきました。エリックは、何処
の場所ででも会いたいと思うような、もっとも素晴らしい友人の一人です。

 私達は、米国にいるお互いの共通の友人達について長い時間話しました。エリックは、彼の良き友人、フ
ロリダ、マイアミのイーノス、W4VPDのすべてについて、もっと知りたがっていました。

 私達は、エリックがアルバニアへDXpeditionをすることの可能性について話しました、彼は必要な手続
きを始めていたとさえ言いました。明らかに、決して実現はしていなかったが、というのは、私はエリック
がそこへ行き、運用したことを決して聞いたことがなかったので。その後まもなく、アルバニアとヨーロッ
パの衛星諸国は、考え方の方法が分かれました、そしてこれがエリックのアルバニアへ行く計画を吹き飛ば
したと私は思います。これは残念なことでした、なぜなら、エリックは非常に素晴らしいオペレーターで、
彼がZAから運用したら、それはとても素晴らしいDXpeditionになったでしょう。

 私は、ジョン、VS9AAAに一体何が起きたのかと思います。彼がVS9から英国へ帰国する時、そこへ寄
る計画だったのに?多分、ジョンはそこへ寄って、運用したのでしょうが、私が彼をミスしたのでしょう。
 私自身、ZAへトライしたいと思ったのでしたが、それは多分片道旅行の結果になってしまったでしょう、
そして、そののち計画は放り出され、私は北京で終わりを迎え、それにプラスして、我々の国務省はそのよ
うなことが起こったことで、本当に気が狂ったようになったでしょう。
 今となっても、私自身、ZAに未だ注意しています、しかし、それは私の頭を石の壁に打ち付けているの
だと知っています。
(4) 東ベルリンを出発してチェッコスロバキアへ

 東ベルリンを出発する日が来ました、出発のためにDM2FSOと彼の奥さんが私を列車の駅に連れていっ
てくれました。私達が駅に入ったとき、DM2FSOは私と奥さんに一寸の間待合室で待っているようにと言
いました。数分後、彼が戻り、私にチェッコスロバキアのプラハへの切符を手渡しました。これは私にとっ
て本当に驚きでした、なぜなら、彼が私の切符を買ってくれるとは全く期待していなかったのです。私は、
切符代を払おうとしましたが、私に払わせようとしませんでした。

 列車に乗る前に、私はプラットフォームで彼と奥さんと話をしながら、列車が発車するのを待っていまし
た。彼らは、私の去るのを見るのが悲しそうでした、奥さんは、目に涙を浮かべ、彼ら二人は、私が必ず、
再びすぐに戻って訪ねることを望んでいました。それは、私が彼たちをとても長い間知っていたように思え
ました、彼らは、それ程親切で好意的でした。

 丁度列車が出発の小さな高い音色の汽笛を鳴らしたとき、彼は、私の食事のためにドイツマルクを持って
いるかどうかと尋ねました。私は、いいえと答えました。彼は、私に紙幣を手渡してくれました、そして列
車はプラハへ出発しました。
 食事の時間の時、私は食事代を払うために紙幣を食堂車の給仕係にだしたら、とても沢山のお釣りの紙幣
を返してくれました。列車が出発したときに彼のくれた紙幣は、米国の金額で、20$ほどの価値が有ったこ
とをその後で知りました。さあ、これをどう思いますか?あなたは、そのような友人をしばしば見つけるこ
とはとても出来ません。

 この列車も全く同様で、線路は東ドイツからベルリンへのと同じような乗り心地で、前と同じように沢山
の警官が居て、彼らは、皆、ほとんどの時間私を見ているようでした。私は、多かれ少なかれ、「見られる」
ことになれて、彼らを気にしませんでした。

 列車の食事はOKでした、そして安かったです。
 いつものように、列車は人で一杯で、多くの人が立っていました。、そこに居る人達は、米国で移動に列車
を使うよりもっと多く、実際、移動のために列車を使うと私は確実に言うことができます。列車の料金は、
とても非常に安いのです。ヨーロッパを見たりツアーに行きたい人は誰でも、鉄道を使うことを、私は強く
勧めます。あなたは、多くの費用を節約でき、国々を見て、人々に会えます。

 東ベルリンに居る間に、プラハの友人達と沢山のQSOをしました、そして、私がそこに着いた時私に会
うと彼らは約束しました。
019M042006 2006.4.23 
(5) プラハ訪問を楽しみました

 東ドイツとチェッコスロバキアの国境では、いつものように税関のチェック、チェッコへのお金の両替、列
車に乗務している警官の交代などが行われ、そしてチェッコスロバキアに居ました。

 あなたは、ここの人達がほんの少し良い洋服を着て、東ドイツに居る人達よりは幸せそうに見えたでしょう。
私は、OKからの幾つかのQSLが“幸せな人々”の国であると言うことを示していたことを覚えています。私
がしたと同じような旅行をしなければならない私同様の誰かが、私のようにチェッコに来たら、その人達は東
ドイツとチェッコとの違いを気づいたと私は思います。そして、彼らはチェッコが“幸せな人々”の国である
と決めたでしょう。さて、東ドイツと比べて、私はその通りだと思います!

 列車はプラハの駅に入りました、そして、列車の私に会いに来た沢山のOKのアマチュアに、本当に驚きま
した。沢山の写真が撮られ、沢山の握手が行われ、私のチェッコでの滞在が大変楽しいものになるだろうと思
えました。プラハに居る間、私はミレック、OK1FFと一緒に滞在し、あらゆる時間がとても楽しかったので
す。私は、ミレックよりフレンドリーな人を未だ見たことはありません。プラハの私の滞在は、アマチュア達
への継続した訪問の旅でした。

 OK1IHと素晴らしくチャーミングな赤毛のウイーン生まれの奥さんが用意した、最高に美味しかった料理
を一緒に食べました。そうです、それはウインナシュニッツェルでした!毎晩、友人の家かどこか高級なレス
トランでした。飲み過ぎだと言われる、私の飲むコーラよりもっと沢山のヴォッカを、OKの連中は飲みます。
 誰かが、私をコーラ中毒だと告発しました。彼ら仲間が、ヴォッカが一杯入った大きな背の高いグラスをく
れ、それをほんの少しお皿に注ぎ、マッチで火を点けた時、私は大きな笑いを引き出しました、炎は美しい青
色でした。私は、“その火炎放射器を私には向けないで”と言いました。

 “カーテンの向こうの国々”にはコークはありませんでした。私が飲まされたコーヒーはとても強いもので
した。ある晩、ミレックは彼が北京から直接来たものというグリーンティーを入れてくれました。それは、本
当に飲みやすくFBでした。

 ある日、仲間が私をOKセントラルクラブに連れていってくれました、そこには沢山の戦争余剰機器があり
ました。私は、モンゴルからやってきた仏陀の邪悪なドラゴンのような、チェッコのWoofhongと同じような
ものを見せられました。私はその写真を撮りましたが、なぜか良い写真ではありませんでした。
 私は、少年達が組織で作業していたQSLビューローを見ました。私がそこを訪問した記念として、大きな
赤い星が着いているバッジのようなものを、誰かが呉れたのを、私は覚えています。私は、このバッジをどう
するのですかと尋ねました。それに対して、私がOKを出発するとき税関の人が私を調べる際に、それを着け
ることを彼は推薦しました。あとで、私はこれについて話すつもりです。

・政治と宗教について話さない
 プラハにいる時に、私はJT1AAと彼の奥さん、ミラの楽しい訪問を受けました。私がOK1FFに居たとき
に、彼らが訪ねてきました、彼らは自分たちの素晴らしいアパートを訪ねるように私を招待しました。訪問の
間、彼らのモンゴル滞在について長い、楽しい話をしました。彼らは、モンゴルから持ち帰ったとても素晴ら
しいブロンズの仏陀をプレゼントしてくれました。二人とも、とても美しい英語を話し、大変好意的でした。

 プラハに居る間、OK1MD、ベーダについて尋ねました。
 その答えはいつも同じでした:誰も彼の消息を誰も知らないように見えました、そして実際、彼について、
全く、話したがっていませんでした。ある日、地元の仲間と私が一緒に街を歩いていました、私達には誰もい
ませんでしたので、私は、OK1MDについて、彼に尋ねました。彼は次のようなことを言いました、ベーダは
あまりに多くのことをしゃべりすぎました。
 彼は、プラハでのDX仲間の活動を発展させようとしました、そして、大変下手なオペレーターが居た、
OK7HZのキャラバンには、いろいろな滞在地から、世界と交信する方法を知っているDXオペレーターが居
るべきだと、彼は言いました。それから、世界のレアーな国々の全てに行こうとしていたる、このOK7HZの
キャラバンは、基本的にアマチュアがメインでは無かったのだと、私に説明しました。キャラバンには、アマ
チュア無線は本国との通信の目的だけが含まれていて、そして、それは、多くの人達がそう考えと見られたよ
うに、全くDXpeditionではなかったのでした。
 ベーダは、あまりにしゃべりすぎたと思われました、そして、あなたがOKに居るときは、あなたはそのよ
うにするべきではないと私は思います。
 ある夜、私は宣伝、あるいは、そのようなものの一つ、プラハにある大きなラジオ放送局の人に会いました。
彼は私に、翌朝ラジオ局に来て、私の旅行についてラジオで話すようにと頼まれました。私の話をテープにと
って、編集して、それを放送するのですかと尋ねました。彼は、ノー、それは生で放送されるのですと言いま
した。私は、マイクに向かって言ってはいけないことは何ですかと尋ねました、彼は、私が思っていることは
何でも話して下さい、しかし、政治的あるいは宗教的なことは話さないの方が良いですとアドバイスしてくれ
ました。私達が出発したとき、彼は言いました、“明朝、ラジオ局のスタジオで会いましょう、カマラード”
 
 一人か二人の仲間が、政治についての私の議論について彼らの最善の努力をしました、そして、私の方
針はいつもこのようでした:私は、彼に質問させて、それから、彼の質問には全く答えないで、彼がそれに
ついてどう思うかと私は尋ねるでしょう。言い換えれば、私は最初に彼の意見を貰い、それから、彼の返事
と私のは同じであると、彼に言うでしょう。言い換えれば、私は彼に同意して、そのように、全く議論ではあ
りませんでした。

 オールドガスが、明朝、プラハラジオでどのようにするか考えています。あなたは、ガスがマイクの前にい
るとき、ガスが何を言うか、判らないでしょう。ガスに注意してなさい、あなたはライオンの穴に入ろうとし
ています。

来月まで皆さん!片道旅行を行くか、そうではないか、私は恐れていませんでした。
JA1DM注:OK7HZキャラバン:
     チェッコスロバキアのグループが、小型バスで1947年から1950年にヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカを、
     1959年から1963年にはアジア、オーストラリアと世界一周した時に運用した局です。そのころ最新式のKWM-1を
     積みSSBで運用、アルバニア、イラクなど当時レアーなエンティティを廻ったので有名になりました。私は、自作機
     でSSBを運用始めたばかりのときで、幸運にも、一行がYI にいたときQSOできてニューをゲットしました。
その時のQSLカードです
020M042506   2006.4.27
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