| W4BPD, Gus M. Browning の手記 ・ DXpedition物語 (その5) アマチュア目次へ戻る | ||
| 第 3 章 (2) ロンビックよさようなら | ||
| 私の店員、ポケットが、40ドルでアンテナを上げると言いました!私はポケットに仕事をさせ、本当に彼 は150フィートのタワー上にビームを組み上げました。彼は素晴らしい仕事をしたと言わなければなりませ ん。 私は、ビームアンテナに関する沢山の本を読んで、差し当たり、ビームを調整することに関するそれらの 記事のいくつかが実際にどう解決したかを知る準備ができていました!最初に、本に書いてあるように、エ レメントに印してある工場のマークの通りにそれを組み上げ、調整しました。SWRは正確にバンドの中心 でFBで、しかし、その時それぞれのバンドエッジになるまでにSWRは3.5あるいは恐らく4にまで上が りました。 私は、アンテナのところにある耐天候用ボックスの中の調整用コンデンサーでもっと良くしようと決心し ました。これは私にとって素晴らしいと思いました。そこで、タワーのトップに移動用の電話機を取り付け ました。ポケットがタワーの頂上に上り、私たちは調整を始めました。何回ものテストとエラーの繰り返し で、それぞれのコンデンサーのチューニングで面白い効果が判ります。コンデンサーの一つのセッティング でカーブを書き、それから、コンデンサーを調整して別なセッティングで試します。しばらくすると、少し の調整によってどの方向に進むかが判るようになります。(そうするために) 14メガバンドの全部の帯域で、SWRが2:1を越えないで、アンテナが使えることが判ります。勿論、ど の周波数でもそれは決して1:1にはなりません、しかし、センターの周波数で1:1、各バンドの端で最良で 3.5か、あるいは、各バンドの端で2:1で、センターで多分1.25:1です。私は、あとの方の調整がより好き でした。 さて、5エレメントビームの上がったあと、私はビームと古いロンビックの比較を始めました、私は、ビ ームの最良の方向では、ビームはロンビックとまさに同じであることを発見しました、しかし、ビームはロ ンビックとロンビックの間の弱点を埋めることが出来ました! ビームのもっとも素晴らしいことは、たった一つのアンテナを上げれば良いことでした。付け加えれば、 DXと交信するときに、フロント・バックレシオが沢山の混信を軽減するのに助けになります!従って、何 らかの理由などで、ほかのロンビックが倒れたあとで、一つのロンビックが壊れても、私はそのままにして おきます。しかし、私は40メーターと80メーターの素晴らしい信号を失いました! DXpeditionにHy-Gainのバーチカルアンテナを使って以来、私は、低い周波数でのアンテナの問題を克 服する本当に良い案を持っています。 何かこのようなものがOKで解決になるかも知れません:私の大きなタワーの中を、40メーターの同軸フ ィーダーが、タワーの頂上近くの適当なところまで走って、それからタワーに留められて、40メーターグラ ンドプレーンのラジアルを上げ、(5エレビームのローディング効果を思い出して下さい)バンドの中央で SWRが最低になるまで、上げたり下げたりさせます。それから、同軸フィーダーのシリース同調コンデン サーとシリース同調コイルを調整します。(誘導性か容量性リアクタンスをきっちり消して)それで、あなた は高く上がった素晴らしいグランドプレーンを持ちます。 それからタワーから下がって、80メーターグランドプレーにつながれた同軸の最適の場所を見つけます。 (40メーターグランドプレーンのワイヤーのトップローディング効果を、また思い出して下さい)80メー ターグランドプレーの作業が終わった時、・もしあなたが興味があれば・160メーターグランドプレーンでさ え、同じようにすることができると私は信じます。全部が完成したとき、素晴らしい、40,80、160メータ ーのバーチカルとまた素晴らしい20メータービームを持つでしょう。それから、10と15メーターのビー ムをトップに置けば、一つのタワーにすべてのアンテナがあります。 私のすべてのDXpeditionで使ったHy-Gainのように、低いSWRの、バーチカルは素晴らしいことが 判りました。私は、友人Buck-W4TO-が私に示した点を証明しました、多かれ少なかれ、言い換えれば、 高く上げた4か5エレメントの良いビームは良いロンビックと同様に素晴らしいことが判りました。勿論一つ のバンドだけですが。 さて、それらの5×5または6×6とスタックしたビームはロンビックより良いと私は思います。スタックした アンテナを使っている連中は非常に素晴らしいです。 ・DXpedition行の考え さて、ストーリーに戻りましょう。私は何とかして、私のストーリーから驚きを避けます。1950年代のほ とんどの期間を通して、どこかのレアーカントリーにDXpeditionに行くと言う、私の非常に僅かなチャン スについて考え続けました。そのようなことが起こるだろうというチャンスは、私の考えでは、100万分の 1でした。しかし、場合によっては、何かが現れるかもしれないので、私は幾つかの計画を立てることを 始めました。 まずはじめに、私は、片手で書いて、もう一方の手はキイを操作するのに使うことが出来るなら、それが どれほど素晴らしいことかと思いました。私は、右手を、字を書いてキイを送ることにずっと使い続けてい ました。 私は、人間の脳がどのように機能しているかについて研究していた友人と話していました。私は、キイを 操作するために右手を使っている間、書くために私の左手を使うことを練習することが、私にそれが可能か をたずねました。彼が読んだ本の一つで、このために、その情報を調べて、もしそれを見つけたら電話して くれると彼は言いました。数週間後に、会いに来るように彼は電話をくれました。 私がそこに着いたとき、彼はその方法を私に教えました。 |
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| 010M030506 2006.3.6 | ||
| 第 3 章 (3) 左手で書く | ||
字を書く手を左手に変えることへの挑戦 |
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| -1 DM注- 戦前のハワイのプリフェックスはK6でした。 アマチュア目次へ戻る | ||
| 011M031006 2006.3.12 | ||
| 第 3 章 (4) 私の樹木を売る | ||
私は、未来が私にもたらすかも知れないどのような場合への準備もしていました。勿論、いつでも運用し オンエアーして、DXが居れば、私の競争相手である仲間達を出し抜こうとしました。その当時、私は、い つかは、彼らを訪ねるチャンスを得て、同時に、ホテル代を払う必要がないと言う希望を持って!できるだ け沢山の外国の素晴らしい友人を作ろうとしていました。 そうです、私の動機の大部分はこの2つのポイントがあったことを認めるつもりです、そしてその両方と もが正直なポイントだったと思います。 その頃の何年もの間に、私の農場の樹木は成長し続け、いろいろな材木商が私の農場の樹木を買いたいと 言ってきました。それらの殆どが小規模なバイヤー達からの申し出で、金額も高くはありませんでした。 しかし、結局大きな商人の一人が会いに来て、私の樹木に多額のドルを払う重要な申し出をしました。さ て、私はそれらの木が本当にいくらの価値があるかは判りませんでした。しかし、もし、彼らがオファーし たより35%高い額で、その日に支払うのなら、私は売るだろうと言いました。私は、彼らに、事務所に帰っ て決定するように、もし、買いたいのなら、今日の午後6:00までに、代金を持ってくるようにと言いました。 しかし、その日に戻ってこなかったら、すべてのことを忘れるように、なぜなら、樹木はどのような値段 でも売らないだろうと。さて、彼らは帰りました。これは午後2:30のことでした。 彼らは午後5:00に、私が言った値段の小切手を持って戻りました。書類にサインをして、この件が始まり ました。翌日、私は銀行にこの小切手を持参し預けました。 私は、自分自身に言いました、ここにDXpeditionのお金があると!私は、このことを妻には決して言い ませんでした。 それから、何人かの海外のDXサーに、私が来年に訪問するかもしれないと少しずつ言い始めました、そ して、ハムのための予備の部屋があるかどうかを聞きました。もし、私の部屋があると彼らが言ったら、私 はFBと言い、彼らが私の質問に答えなかったら、私はそれらをただ忘れました。 計画のゆっくりした展開 最初は、DXpedition計画の展開はゆっくりでした、しかし、しばらくすると、私がDXpeditionに行くと 言うニュースが情報ネットに流れました。それから、私が何処に行く予定かと仲間達が聞き始めました。正 直に言って、その時までには、私が何処に行きたいか、行かなければならないかは明確ではありませんでし た。私は、いろいろなDXサーに、どのカントリーが必要かをたずねました。普通、その最初の答えは、Tanna TuvaかWrangel Islandでした!それから、私は、常識的になるように言い、それから彼らは私がたずねる ことが可能な幾つかの場所について言いました。 私は、私の少ないお金で行かれる場所で、できるだけ多くのレアーな場所へ行きたかったのです。しかし、 もし私が非常に多くの場所に行くとしたら、お金を節約しなければならないことを知っていました。私は、 もし私が行くのであれば、どのように運用するかについて決めました。 私は、決してどのようなブラックリストも作らない、そして、私の周波数にでてくる人とは交信しない。 私は、私に協力するために、交信リストを作るような、米国かあるいはそのほかのどこかに居る誰かを持つ ようなことはしないでしょう。このW1, W2, W3 などの誰でもなく。 私は、私がしたいような方法で私のDXpeditionをするような人になりたかった。好き嫌いはありません。 皆さん、誰でも、どうぞ、規則にはとらわれません。さあ、もっとも上手なオペレーターが最初に私と交信 し、するとしても、もっとも下手な人は最期に。 この頃、私は海外でライセンスを貰うことと、使用する無線機の入手について知りたいと考え始めました。 (私は、小型の、あるいはポータブルのセットは全く持っていませんでした。)さまざまな言葉の問題、無線 機器の税関での問題、健康問題等々はどうなのだろうか。 次のエピソードでは、、解決法を得ること、それらの物事が動き始め、解決法のない問題が、あるいは、少 なくとも、それらの解決法を私が見いだせないことが始まります。 私は、自分自身に何回も言いきかせました、「さあ、ガス始めましょう、怖じ気づいて止めないで」 私たちは、物事が進むとき何が起きるかわかるでしょう。 |
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| 1DM 注 Tanna
TuvaとWrangel Islandはロシアの中で、戦前からDXCCカントリー(エンティティ)として認め られていましたが、DXCCにカウントされた人は誰もいなかった幻のカントリーでした。ガスがDXpedition を夢見ていた頃のDXサーの間ではmost wanted カントリーリストの上位にあったと思います。Tanna Tuvaは1955年、Wrangel Islandは1960年にリストから削除されました。 |
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| 012M031506 2006.3.18 |