航空機のページ・目次 |
||||||||||
最初のページに戻る
|
||||||||||
・空への憧れ 私の少年時代は、旧満州国の奉天、現在の中国東北、瀋陽市、に一家で暮らしていました。そ の時、既に中国と戦争をしていて、1939年にはノモンハン事件が勃発し、ソ連と交戦するなど、戦 争色が濃厚な時代でした。 ノモンハン事件の時には、今にもソ連軍の戦車が奉天に攻めてくるかも知れないという噂を両親 がしていました。今思うと、当時のような情報統制のきびしい時代でも、関東軍の負け戦の噂はど こからともなく伝わってくるのですね。 私が小学校4年の時、海軍が真珠湾を奇襲して太平洋戦争が始まり遂に日本は全面戦争に突 入しました。小学校でも、戦争のために命を捨てるのが日本人の務めで、教育勅語を暗記させら れ、中学では、戦陣訓の暗記が加わりました。今から考えると異常な時代で、今の人達が同じ 経験をしないで済むようにと願っています。 このような時代に小学校、中学校の教育を受けると、当然のことながら軍国少年に育ち、戦争 |
||||||||||
・奉天の飛行場 | ||||||||||
奉天の飛行場は2個所にしかなかったと思っていました。始めに書いたように、奉天北飛行場 と奉天西飛行場です。これらの名称が公式なものかどうかは判りませんが、当時の私達はこれ で通じました。今回、インターネットで資料を探したところ、ホームページ「ヒコーキ雲」で、奉天に は5個所に飛行場があったと書いてありました。当時、主に使われていたのが、北と西の飛行 場だったようです。 私の叔父が、奉天の西南にあった新興住宅街(奉天駅から約2.5km)に住んでいました。叔父 の家のすぐ裏手が鉄道線路で、線路の反対側の先に西飛行場がありました。鉄道線路は、土 手を盛り上げて敷設してあり、土手の上に登ると、飛行場が良く見えました。私たち兄弟は、よく 叔父の家に遊びに行きましたが、その時には必ず土手に登って、飛行場を眺めて、九七戦の離 陸や着陸を見ていたものです。当時の奉天では九七戦と隼の飛ぶのは良く見ましたが、飛燕や 疾風がいたのかどうかは判りません。 |
||||||||||
「ヒコーキ雲」のホームページのURLは ksa.axisz.jp/index.htm ここの「調査研究コーナー61・2」に奉天の飛行場 の説明があります。 このページで紹介しているURLは http:// を省略してあります。見るときにはこれを入力して下さい。 |