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羽田に飛来したBOACコメット 2006年4月
米国・スミソニアン・国立航空宇宙博物館 2006年10月
   
   
・空への憧れ
 
 私の少年時代は、旧満州国の奉天、現在の中国東北、瀋陽市、に一家で暮らしていました。そ
の時、既に中国と戦争をしていて、1939年にはノモンハン事件が勃発し、ソ連と交戦するなど、戦
争色が濃厚な時代でした。
 ノモンハン事件の時には、今にもソ連軍の戦車が奉天に攻めてくるかも知れないという噂を両親
がしていました。今思うと、当時のような情報統制のきびしい時代でも、関東軍の負け戦の噂はど
こからともなく伝わってくるのですね。

 私が小学校4年の時、海軍が真珠湾を奇襲して太平洋戦争が始まり遂に日本は全面戦争に突
入しました。小学校でも、戦争のために命を捨てるのが日本人の務めで、教育勅語を暗記させら
れ、中学では、戦陣訓の暗記が加わりました。今から考えると異常な時代で、今の人達が同じ
経験をしないで済むようにと願っています。

 このような時代に小学校、中学校の教育を受けると、当然のことながら軍国少年に育ち、戦争
で死ぬのが名誉で、靖国神社で会おうと言うようになっていったのでしょう。今では、誰も信じない
ような話しですが、本当のことでした。

 このような時代ですから、男の子は少年飛行兵に憧れ、早く戦闘機の搭乗員になりたいと思う
ようになる子供が沢山居ました。このような時代背景で、小学校の頃から工作が好きだった私は
模型飛行機作りに夢中になりました。当時はゴム動力の簡単な模型を作る程度でしたが、既に
単気筒の模型エンジンも売っていました。大人が、エンジン付き模型飛行機を飛ばしているのを
見て、羨ましく、早く大人になりたいと思ったものでした。
 その当時、奉天には「スナガ」と言う模型飛行機屋さんが一軒しかなく、よくお店に行っては飛行
機の模型を眺めていたものです。

 私が1944年に中学に入ると、すぐ、グライダー部を希望したのですが、体重が軽いため落とされ
ました。ところが、夏になり、急に補欠募集が有り、この時は簡単に認められました。今思うと、既
に学徒動員が始まり、グライダー部の訓練に参加する部員が少なくなっていたのかもしれません。
 グライダー部に入部できたことで、天にも昇る気持ちで、放課後の毎日を喜んでグライダー部の
訓練に参加しました。その頃「航空朝日」と言う雑誌があり、当時の軍用機の解説や資料が掲載
されていて、その本をみんなで廻し読みして、飛行機の知識を得たものでした。

 グライダー部の部員は20名ほどで、プライマリーと呼ばれていた入門者用のグライダーを中学校
の校庭で飛ばして操縦と団体行動を学んでいました。
 グライダーを飛ばすには、一本のゴム索を中央でV字形に折り曲げ、それぞれのゴム索に8〜9
名が取りつき、ゴムを引いて、適当にゴムが伸びた時にグライダーの止め索を放します。それで、
パチンコの玉と同じようにグライダーが飛びだしてほんの少し飛び上がったものでした。実際に
グライダーに乗れるのは、20名ほどの部員が順番に一人ずつですから、授業後の練習で一日に
せいぜい一回で、人数が少ないときに二回程度でした。人数が少ないときは、ゴム索を引くのが
大変でしたが、2回乗れるので嬉しかったものです。中学生でも空を飛べると言うので夢中で訓練
をしていました。 

 当時は今と違って、一般の人が飛行機に乗る機会は殆どありませんでした。私が初めて飛行
機の乗ったのは、父と子供達がアジア号で大連に行き、その帰りに、大連から奉天まで「ロッ
キードスーパーエレクトラ」に乗って(奉天北飛行場へ)戻ってきたときでした。その後、小学校
同級生の父親が満州航空に勤めていて、転勤で日本に帰る前に、親友を二三人お別れの記
念にと(奉天北飛行場)招待して飛行してくれたときが2回目でした。その時乗せて貰ったのは
「フォッカースーパーユニバーサル」でした。敗戦前に私が飛行機に乗ったのはこのわずか2回
だけでした。

 このように、当時はプロペラ飛行機に憧れていたので、勤労動員で、陸軍飛行場(奉天西飛行
場)に行ったときには天にも昇る気持ちでした。本物の戦闘機に触れる!その当時、奉天の陸軍
飛行場にあった戦闘機は「九七戦」、「隼」、爆撃機は「九七重爆」と「呑龍」などでした。当時ヒコー
キ少年だった私には、嬉しい体験でした。私は、この4種類の軍用機に触ることができて、外から
「呑龍」の内部を覗いて、内装が薄い空色でとてもきれいだったことを覚えています。勿論、旧満
州には海軍航空隊などはなく、零戦はおろか海軍機は、ニュース映画や雑誌でしか見ることはあ
りませんでした。 

 しかし、1945年の日本の敗戦で、飛行機少年の夢は一瞬にして幻となり消えさりました。その後
奉天銀座といわれた、春日町に露天を出して、自宅の不要不急の品物を現地の人に売るなど、
両親の手伝いをしながら、日本に引き揚げるのを待ちました。

・奉天の飛行場
   
 奉天の飛行場は2個所にしかなかったと思っていました。始めに書いたように、奉天北飛行場
と奉天西飛行場です。これらの名称が公式なものかどうかは判りませんが、当時の私達はこれ
で通じました。今回、インターネットで資料を探したところ、ホームページ「ヒコーキ雲」で、奉天に
は5個所に飛行場があったと書いてありました。当時、主に使われていたのが、北と西の飛行
場だったようです。
 私の叔父が、奉天の西南にあった新興住宅街(奉天駅から約2.5km)に住んでいました。叔父
の家のすぐ裏手が鉄道線路で、線路の反対側の先に西飛行場がありました。鉄道線路は、土
手を盛り上げて敷設してあり、土手の上に登ると、飛行場が良く見えました。私たち兄弟は、よく
叔父の家に遊びに行きましたが、その時には必ず土手に登って、飛行場を眺めて、九七戦の離
陸や着陸を見ていたものです。当時の奉天では九七戦と隼の飛ぶのは良く見ましたが、飛燕や
疾風がいたのかどうかは判りません。
                    
「ヒコーキ雲」のホームページのURLは  ksa.axisz.jp/index.htm  ここの「調査研究コーナー61・2」に奉天の飛行場
の説明があります。
 
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