戸市・切差(きっさつ)の地名の由来

兄川にならぶ弟川ほそぼそと青山峡(かい)を流れてくだる窪田空穂(うつぼ)の短歌に魅かれて、塔の山に登れば、はるかに望む八幡山路の奥に源を発して、戸市、切差をはじめとする旧八幡八ヶ村をつらぬき、兄川は、ゆるやかに谷あいを流れている。その最も奥の部落、戸市、切差は、現在国道一四○号線(旧秩父往還又は雁坂道)の間道としての雁坂裏道にあり、急激にせばまった空を仰ぎ見るひっそりとしたこの村には、長い歴史を刻む時が流れている。この道は、甲府の積水寺より、大良峠を越え、戸市、切差、鍵懸峠を下り、牧丘、窪平、三富を経て、埼玉県境へ出る山道であって、今から四百年も前、戦国時代の各武将が、勢力争いにしのぎを削っていた時代、甲斐の国から、北関東に進攻する近道として、秘かに作られた軍用道路だと言われている。しかし、目本三大峠の一つである標高二千メートルを越える雁坂峠は、あまりにも険しく辛い山越えの道であったので、武田信玄は、軍事的役割として、現代のマイクロウェーブに等しい峰火台、狼火台を設置した。雁坂峠、城山、成沢村、杵山、岩手村、物見台、切差村、仏沢峠を経て要害城に至り、すみやかに、つつじが崎の館に火急を知 らせた。今、その仏沢城趾にたたずめば、たしかに地の利を得た武田軍法の優秀さを誇る往時がしのばれる。「つわものどもの夢の跡」の感ひとしおである。さて、切差、戸市とは、キッサツ、トイチと読むのだが、昔は、切措とも書かれ、天正十二年(一五八二年)徳川家康が、武田家の旧臣駒井政直に与えた安堵状には、切指分四貫五百文とあり、同じ音の宛字を用いたものであろう。昔、小田野城主(牧丘)の安田義定と、鎌倉の将(現在塩山)斉藤加々守の戦いの際か、あるいは、後の小田野城主、跡部上野介景家が、タ狩沢(山根)での戦いに敗れ、いつ自害したのかは不明だが、戦いに備えて刀や、槍を砥石沢あたりで砥いたと言われ、砥石(といし)が、トイチと転化して戸市になったらしい。今の戸市地区には旅人を検問する関所が、一本松の地に残されている。また、守るもの、攻めるもの、互いに斬ったり、差したりの大激戦であったところから、キリサシの名が生まれ、現在の切差になったと言う説もある。地名の由来を辿れぱ、このあたりは、大変興味深い所である。戦いで負傷した兵が、峠を越えて体息した道芝が、血で真っ赤に染まってしまったので、赤芝。落ち武者が命からがら沢 を下って行くと、待ちかまえていた敵に捕えられた所を生捕、「命だけはお助け下さい。」と平伏した地が、膝立(ひっじゃって)と呼ばれるようになったと伝承されている。中学の強歩大会で通過する、切差、戸市の村にも、このような長い歴史が秘められている。道は、「未知」に通じ、この、今は、忘れ去られた雁坂裏道の奥ゆかしい響きを持つ名称のゆかりを訪ねての散策は、祖先たちの生きざまが、はるかな時を越えて、私達に呼びかけてくれるだろう。雁坂峠をはさんで、開かずの国道と言われて久しい一四○号線も、雁坂トンネルが開通した。