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2011年7月16日-18日に天竜川流域と御前崎をバイクで周りました。
泰阜村田本とは、私の出身地で、小学校2年まで住んでいたところです。
大阪から名神-中央道の飯田で降りて天竜川を下ったところにあります。
30年前に、XL500Sで行ったことがあります。今回は道も良くなっているのでHORNETで行きました。

初日は、大阪の社宅を12時に出て、関が原経由で名神-中央道のたいへん暑い高速道路を休みゝ走り、飯田で高速を降りて南下し、18時頃に田本に到着しました。ちなみに日進市の自宅からなら、2時間のところにあります。
大阪からだと303kmでした。暑かったので休憩を挟んで6時間かかりました。
キャンプ場を探しているうちに、谷間ですので日が落ちてしまい林道を走っているうちに暗くなり、そのうち、、なんと野生の鹿に出くわしました。さすがに諦めて、神社にテントを張らせてもらいました。

泰阜村田本




田本神社

私が通った保育園のあった神社です。
社は30年前と、まったく同じ姿でありました。鳥居が大きくなり、整地されていました。

運よく温田の花火が見えました。
静かで涼しかったので、ぐっすり眠れました。
田本の教員住宅

私の記憶にある、一番最初の家です。
日進の自宅のLDKの床面積と同じ、大変小さい家です。
築50年以上経っているとおもいます。
小学校の廃校とともに、空き家になったものとおもわれます。
小学校2年まで、私はここで育ちました。
40年前に住んでいた頃にも、雨漏りがしました。
当時は、サッシではなく、台風が来ると窓に板を打ち付けて、しのぎました。

くみとりトイレなのは、今でもあたりまえですが、当時は薪で炊く五右衛門風呂でした。
入り方があって、親と一緒でなければ、入ることができませんでした。
この教員住宅から、まっすぐ南に下ると、「秘境の駅」で有名になった田本駅があります。
下ることは出来ても、子供には登ることすら困難だったと記憶しています。
その田本駅から、豊橋の行商のおじさんが、担ぎ上げで魚を運んでくるというものでした。
泰阜小学校は、閉校していました。

ここで私が小学校2年生のときに書いた文章が、5年前に「平和の理」という本で出版されました。
その思い出の小学校も閉校になりました。私のときは、24人のクラスでしたが、最後は4人だったのですね。

小学校2年まで、私はここに通いました。
飯田線田本駅

いわゆる単線のローカル線で、電化されています。
もちろん、無人駅です。

最近は、秘境の駅として有名です。
つまり、車どころか、バイク、自転車でもホームに近づくことはできない、一日一人利用者があるかないか、の条件を満たしています。
さらに、田本から田本駅まで最短距離で歩く道を知っているのは、もはや私を含めて数名だとおもいます。

一般に知られているこの駅へのアクセスは、対岸から渡る立田橋(自転車、バイクなら止められる)からトレッキングのような道を15分ほど歩くところにあります。
そして、最後急峻な階段を下りてホームに出るので、流行のキャリーバッグでは近寄ることもできません。
私が最初に見た駅というのが、これ(秘境駅)だったので、当時は電車の来る素晴らしいところだと思っていました。
なにせ、この駅から電車を乗り継いで、大阪万博を見に行ったのですから!
その後、スシ詰めの小田急線に90分乗って会社に通う時代もありましたから、それよりは、素晴らしい交通環境だったとも言えます。
駅のホーム、駅までの道では、眼下に天竜川が見えるという嵯峨野を越えた景勝地です。


以下は、温田駅から南に見える、阿南大橋です。
橋の西端には阿南病院、高校があり、人が多く、そこだけ近代的?です。

以下は、田本駅へ渡る竜田橋です。
「竜」の字は、もちろん天竜川からとったものです。
見てのとおり、大変美しい橋です。
田本のためにあるような、今となっては贅沢な公共物です。

当時は、かいこ、豚、鶏が飼われていて、稲作もさかんでした。
家ごとに、いろんな匂いがしていました。
私にとっては、多感で一番良い時代でした、、

二日目の御前崎へ続く



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平成23年7月19日 de jp3exe ex je2egz, no limit.