JARL QRP クラブ 40周年記念誌 より転載


JARL QRPクラブ創立40周年に想こと

 私達のクラブが1956年の6月に発足してから40年が経ちました。この 間にアマチュア無線の世界は大きく変化してきました。アマチュア人口の増大 もその一つですが,もっと重大な変化はアマチュア無線の,趣味としての意義 の変化ではないでしょうか。

今から40年前,昭和30年代の初めごろというと,まだ私の家には電話が なく,速い親類との連絡は専ら手紙でした。家に電話のある人でも,例えば東 京から大阪に電話する時には,冒頭に「東京からです」と長距離であることを 言って,高額な通話料に身構えなければなりませんでした。もちろん新幹線も なく,東京の人が関西に行くのでも結構大きな旅行であり,外国などは,知り 合いに行ったことのある人がいるだけで自慢のタネになるくらいでした。この ような中で,アマチュア無線なら,遠くの人と,外国の人とまで,実時間で会 話ができるというのですから,その魅力は大変なものです。しかし,アマチュ ア無線をするには,国家試験に受からなければならず,さらに送信機も受信機 も,そしてアンテナも自分で作るのが普通でしたから,一般の人は指をくわえ て羨望のまなざしで眺めているしかありませんでした。

 さて,現在はどうでしょう。電話はおろか移動電話さえ簡単に手に入り,外 国の友達と話すのも市内電話とたいして変わらない手軽さです。つまり,一般 の人にとって最大の魅力であった部分が,アマチュア無線から剥ぎとられてし まったのです。

 ところで,40年前に実際にアマチュア無線をすることのできた人達は,指 をくわえて見ていた人達と違って,遠くの人と実時間で会話できるというとこ ろだけにアマチュア無線の魅力を見出していたのではありませんでした。彼等 は,国家試験に受かり,送信機や受信機を自分でつくることのできる人達だっ たわけですから,アマチュア無線の技術的側面にも大きな魅力を感じていまし た。すなわち,交信できるかどうかということと,自分の送,受信機やアンテ ナの製作技術,電離層の状況などを判断しながらの交信技術などが大きな関わ りを持っていたわけですから,それらの技術の研鑚と,その成果を見る実験と しての交信に大きな魅力を感じていたのです。そして,この技術的側面からの 魅力は昔も今も全く変わらずアマチュア無線の中に生き続けています。

 つまり,送,受信機やアンテナの製作,また,交信技術の研鑚に魅力を感じ る人にとってはアマチュア無線の意義は40年前と全く変わっていないという ことです。そして,こうした形でアマチュア無線を楽しむには大きなパワーは 必要ありません。いや,むしろ障害になる場合すらあります。強力な電波を送 り出して,誰にでもフルスケールで受信できるような状態では,格別オペレー ション技術を磨く必要すらないからです。すなわち,40年前も,そして今 も,QRPはアマチュア無線の技術的な楽しみのためには必要にして十分なもの だということです。そして,遠隔の地との会話という魅力の側面が失われたう え,ハイパワーによるインターフェアの恐れが増大しつつある今,QRPの持つ 意義はむしろ急激に高まりつつあるといえるでしょう。

 このように意義深いQRPについて,語り合う場となるQRPクラブが,40年 前から用意されていたということは,驚くべきことですが,アマチュア無線に とって幸いであったということもできるでしょう。このクラブを柱として,ア マチュア無線の真の楽しみが,ますます広がっていくことが期待できるからで す。アマチュア無線の総人口が今後滅少していくことが仮にあったとしても, QRPによってアマチュア無線を楽しむ人は,増えこそすれ,滅っていくことは ないでしょう。そして,それによって技術的な趣味としてのアマチュア無線が 後の世に永く引き継がれていくものと思います。

1996年7月    
JARL QRPクラブ会長
JHIHTK 増沢 隆久


「JARL QRP CLUB 創立40周年記念誌」発行によせて

 JARL登録クラブの一つとして、7人の会員でQRP CLUBを結成してはや、 40周年を迎えた。今回、松盛エディターが年表ををまとめてくださったので拝見して みて、よくもここまで到達できたものだとつくづく思う。

 出たり、止まったり、思いなおして歩き出してはみたものの、すぐ息切れがして、 大久保さんのFCZ誌の軒下をお借りして、やっと生き延びた。その後独立はしてみた ものの、世の中の荒波は大抵のものではなかった。一体、会の元気さのバロメーターは 、投稿の量と質にかかっている。一月に一人の投稿者もないことがあって、「ヤメチマ ウノカ?」と一喝を食わされもした。せっかく看板を掲げた会なのだからと、集っては みたものの名案はすぐには出なかった。「会誌を元気に出しましょう。それも年4回な んて言わずに毎月に」と声を挙げてくれたのが現在の松盛さんであった。

 年を経て、歴史を振り返ってみると、それは糸のようなものであり、ヨレヨレの網で あったようにも思えるし、何かいっばい書きつけた古い板のようなきがする。 特に私は出たり入ったりして定職のない人間のようではなかったのか。

 それでも40年という年月を保たしてくれたのは、次々と参加してくれた会員の方々 の根性でもあったろうし、情熱でもあったり、面目であったのかもしれない。特に現会 長の増沢さんの忍耐力であったように思う。

 今では世界の交流も次第に多くなってきたのだが、私達はこれまで日本のハムの人達 は勿論のこと、世界の仲間のためにどんな貢献ができたのであろうか。

 私達が歴史という流れの中で、そこに刻み込んでこれたものは一体、何であったので あろうか。何だか私はいま、再び出発点に立っているような気がしてならない。

 向こうから風が吹いてくる!一段と帆を張るように、アンテナを高めたいものである。

1996年8月23日    
JARL QRPクラブ前会長
JA1AA 庄野 久男


奥山さんの夢

 1980年暮、それまで5年間続いてさた電波科学の「ORPアクティビテイ」というコ ラムガ無くなりました。 そのコラムはその当時の電波科学の編集長であり、また、 ORP CLUBの会員でもあつたJA1BN 谷さんの企画で、会長の増沢さんこ私が交替で担当 していた物でしたが、マスコミ誌に毎月約2ページの「QRPの宣伝」ができていたの ですガら QRPファンの燈台的存在であつたといえましょう。

 燈台の日が消えて暫くして、それをバトンタッチするかのようにモービルハム誌か ら「QRPアラカルト」というコラムを発足するという話が持ち上がつてきました。 そして、そのライターをORPアワティピティから引さ続いて、増沢さんと私の二人、 共同でやつてほしいという依頼をモービルハムの川合編集長からいただきました。

 そこで増沢さんと相談したのですが、「今までの筆者で引き継ぐことはQRPについ てのマンネリを引き継ぐことにもなる」と言う事になり、新しい筆者を探すことにな りました。

 そこで白羽の矢が当つたのがJA1EVK奥山さんだつたのです。

 彼は初めのうち「原稿なんて書いたここがないから………」と断つていましたがなん とか承諾してくれて、1981年5月号からの連載が始まったのでした。

 彼のQRPは「がむしやらな運用派」というのではなく、とちらかというと私と同じ 「ヘソ曲り派」だつたと思います。

 山小屋でウヰスキー(彼の場合はこの「ヰ」でないと感じがでない)を飲みながら ………、「ネェ、定電圧レギュレータの真ん中の足にプラスの電圧をかけると、出力は その分だけ上方るよね」「ウン」「それじや、そこにマイナスの電圧をかけたらどう なると思う?」「その分下がる…?」「もし下がるとしたらAMの変調器になるよね」 「ウン、これはおもしろい!やつてみなくつちゃ」 そんな話をしながらも、夜中 に懐中電灯片手に山のテッペンに登り二人でQRPを楽しんだこともありました。

 そんな具合ですから話も活動的でおもしろく、「QRPアラカルト」の方も段々と油 がのってきました。

 そんな彼が1983年の秋ごろ「大久保さん、JAでもORPハンドプックを作りましよう よ」と言い出したのです。 そして、その時すでにスケルトン(骨組み)まで考え始 めていたようでした。

 し方し、1984年の春、彼の体を「急性脅髄性白血病」という病が蝕み始めたのでし た。 ヘッドの中にあってもなおふた月、「QRPアラカルト」の記事を書くという律 義な彼も病魔には勝てず、同年10用15日朝、帰らぬ人となってしまったのです。

 余りにもあっけない話でした。もう少し時間があれば、彼の夢であった「ORPハン ドブック」の構想を具体的に聞さ出せたのかも知れませんが……………。

 あれかうすでに12年の歳月が過ぎました。

 奥山さんの構想からだいぷ遅れてしまいましたが、ORP CLUB 40周年記念の今年、 編集委員会のご努力で、ようやく「JAのORPハンドブック」が日の目を見ることがで きるようになりました。

 QRP CLUBの40周年を全会員と共に祝うと共に、その歴史の中に、奥山さんのこのよ うな「夢」があったことも改めて思い出しました。

JH1FCZ 大久保忠


JARL QRP クラブ 40周年記念誌より転載